写真のウラに、「昭和十四年四月、幸一、十二歳。ワサ、四十歳」とある。家の裏庭で写したスナップです。
★母が、幸一の胸に両手で囲んでいる。これが母の顔。飾り気の無い、素直な写真です。こういう雰囲気で母と子は生きていた。親子の愛情が深かった。北朝鮮という、本土から遠く離れた土地柄もあったからね。あの母の手の温もりを忘れない。思い出しますよ。昭和十四年、ですよ。小学校の六年生かな。この少年が、将来、苦労すると思えば、切ないよ。九十一年、生きたんだからね。
★実は、この写真を載せたのは、当時の生活の一こまを思い出したからです。母は、家で、精肉店を営業していた。朝鮮人の青年が、精肉店の店員で働いていた。彼の名前は忘れたが、彼は私に2つの印象を与えた。
★1つは、余暇があると机に向かって、朝鮮語で、何かを書いている。熱心に取り組んでいる。「何か?」と聞くと「小説だ」と答えた。「何を、書いているの?」「恋愛小説だ」。私が当時、愛読していたのは、「サトウ・ハチロウ」の文章だった。ユーモラスに書かれた文体が好きだった。「恋愛?」なんて分からない。ただ「書くこと、の興味」。それは彼から教えられたと思う。
★そして、もう1つが「写真機」だった。毎月、「少年倶楽部」が本土から送られてきて書店に並んでいた。当時の少年達は、誰もが楽しみに愛読した。「少年倶楽部」の後のページに、広告が載っていて、「写真機」があった。少々、値が張ったが、朝鮮人の店員が写真機を買って、簡単に、裏庭で写していた。それが、この上の写真です。じゃばら式で、押し込むと、箱の形になる。
★後方の箱に、上からフイルムを入れる。紙を引っ張って、外す。レンズの横にシャッターがあって、写した。現像も、焼付けも、自分で行なった。写した写真の周りの楕円の形は、そのように紙を切って、印画紙に当てて焼いた。この写真機を、なぜか、今、思い出すのです。80年経っても変色もせず、そのまま残っているのが不思議です。あの朝鮮人の店員はどうなったか、分からない。だが、父や兄、男気が無かった自分には、店員の存在から少なからず影響を受けたと思っている。
★アルバムから、この素朴な1枚の写真を今日は見ながら、懐かしいと、当時の家の部屋や、庭、店などを思い出した。この1枚の写真は、母を近くに感じる、今では自分のタカラになっている。
母親の想い出は、本当にいついつまでも心にありますね。私の母は、24年程前に帰天しましたが、いつも心にあります。聖母マリアのように特別な存在ですね。
返信削除トマさん ママをかぞくを大切にします
返信削除ココナより