日曜日。広島の教会で、祈った。祈りの中で、目をつぶって、心にひびく、1つの声を、かみ締めていました。信心は、してきたけれど、信仰の真髄は、まだ「よく、分かって、いない」。それは、誰にとっても、同じでしょう。何が、分からんのか、分かっていないのかも、しれない。信仰は、信ずるというダケに、不安定な心です。ある時は、近くなるが、ある時は、神から離れていく。ニンゲンとは、そういう不安定な存在でしょう。求道をしても、そう簡単なものでは、ない。神さまが居ることが、分からない。神さまの傍に行けるか、自分は、それに、ふさわしい者であるか、分からない。聖書の中に書いてある出来事も、本当か、わからずに、悩む。洗礼を受けて、お祈りも、して、リッパなお話しも聞いてきた。聖書の勉強も、してきた。黙想会にも参加したし、巡礼にも、行った。感動は、するが、自分との距離が、ある。スキ間がある。ニンゲンは過去はよく分かっているが、将来も、分かりたい。その望みは、あるように思います。そう思いながら、祈りました。「分からない」と思うことは、マジメじゃないでしょうか。所詮、神さまの事は、真には、誰にも、分からない。「分かっている」と自信げに言うの方が、怪しい。それについては、教えを、素直に、信じるしかないのです。それが信仰です。それでもニンゲンは迷うのです。厳しいですね、ジンセイは。ホントに。いつまでも満足はしないでしょう。
ブログの初回から拝読しておりますが、今回の日記が私のハートにもっともドンピシャ!でした。
返信削除私事ですが、5年前から実家との関係が座礁。昨年の今頃は毒親本に数冊目を通し、翻訳だけでは飽き足らず、原書も取り寄せました。前後して実家でゴタゴタが続き・・・。最近は、新聞記事にはならないにしてもオドロオドロシイ事態に。
生きているうちに神さまの事を理解するなんて、聖コルベのレベルじゃなきゃムリ。それでも、「葛藤しながら生きる姿が輝きを放つ凡夫もいる」と私は信じています。数年前、NHKの番組(戦争関係)でトマさんが聖堂で祈る姿が映り、その美しさが印象的でした。番組自体は物足りなかったのですが(制作側の問題)、それだけで良しとしましょう。
迷いながらも、奥深いところで輝きを放つはずです。満足しない、その揺らぎが輝きを放つ。
今年の春、厄介な病気ではないけれど婦人科系の手術を受け、退院の日に啓示を受けた気がしています。