長崎のカトリック修道士。17歳の時、原爆を受けて、この道に入る。 生かされて来た数々の恵みの中で、今年の1月、最大の試練「すい臓がん」を告知された。 「みむねの・ままに」。孤独と苦痛に耐え得るチカラを日々、祈る。 毎日、日記を書き続けて13年。今、長崎市の病院・ホスピス病棟で暮らす。 追記 2021年4月15日 午後6時48分 帰天されました。享年93歳
2014年6月30日月曜日
小さな旅⑦終わる。鳥取から、長崎へ。1つの教訓。
2014年6月29日日曜日
小さな旅⑥鳥取の日曜日。ミサで祈る
2014年6月28日土曜日
小さな旅。鳥取⑤カラダを調べる。休養。
2014年6月27日金曜日
小さな旅④鳥取の海岸を船で遊覧。施設を訪問。
2014年6月26日木曜日
小さな旅③ 広島から鳥取へ。砂丘のラクダ。
2014年6月25日水曜日
小さな旅② 広島に滞在。カトリック墓地参り。
★広島エンゼル・キャブの会長、ヨシエさんが亡くなって、1周忌を迎える。お墓参りを望んだ。午前11時に、娘の八智子さんが車で広島JR駅構内のホテルへ迎えに来た。「母はこの花が好きだったのよ」。車中にカサブランカの生花があった。★広島カトリック墓地は廿日市の山手にある。四角い石碑が幾重にも山全体に重なっている。お父さんと、お母さんのヨシエさん、 20才で亡くなった妹さん、3人の名が一緒に刻まれていた石碑に、花をかざり、心をこめて祈った。墓碑には、知っている神父さんの名前もあった。写真は、家族のお墓と、八智子さん。★広島に来たからには1つの実話を思い起こしてみよう。敗戦で、原爆の廃跡に立つ若い父と母ヨシエさんは、これからは車社会が来ると、2台のタクシーから会社を立ちあげた。その後、娘(八智子さんの妹)の死と、父の死という、大きな苦難はあったが、苦しみのおかげで、家族はカトリックの洗礼を受けることになった。信仰が、人生と、経営の支えとなったと八智子さんは言う。★八智子さんはムコさん・憲嗣さんと一緒になって2代目を継ぎ、名称もエンゼル・キャブと改名して、タクシーの他に、各種のバスを含めて、いまでは大世帯となった。母ヨシエさんは91才まで会長をつとめ、会社を見守った。昨年7月、七夕が近づいたとき病床にあり、看護婦さんが、「何か願いごとをつけて下さい」と頼んだ。ヨシエさんは、 「何んにも、ございません」 と、すべては、おまかせして、神の御心にゆだねた。安らかに、七夕の前日亡くなった。★トマは、ヨシエさんと40年来のご縁がある。いろいろお世話になった。ポーランド巡礼も2度ご一緒した。墓参りは、小さな旅の1つの願いだった。★お参りの後は、JR広島駅構内のホテルに、早々と、午後3時には帰った。ゆっくりとした夜の時間をホテルで過した。★体調に配慮して、良好に、快適に旅をつづけております。
2014年6月24日火曜日
小さな旅へ出る① 長崎から広島へ。
2014年6月23日月曜日
故・水浦久之1周忌。ホンネ語る親友。平和学習。
親しい友人でした。故・水浦久之、亡くなって1周忌がきた。6月16日が命日でした。81歳と11ヶ月。彼を偲びながら、志願院の小聖堂で、ご家族、友人など少人数が集まって、ミサを祈り、彼の思いに浸りました。水浦久之については、思い出はイッパイある。本も数冊出している。なかでも「神父発見」は、いい題目だった。普通、信徒発見と、言いなれているが、そうじゃ、ない。隠れた信徒たちが発見したのは、待ちに待った司祭であり、ローマからの船であった。着想の転換だ。アイデアがよかった。ここには彼の、文学の才能が光っている。★トマが神学校に入ったとき、彼は既に神学生だった。少年の頃から、よく知っている。彼の業績を整理してみよう。五島で生まれて、戦争中、長崎・小神に入って、中学を卒業した。修道士になったが、心を整理して、社会へ戻った。生計を立てるために、浦上天主堂の足元に、クリーニング業を経営した。パパさまが長崎に来られたとき、浦上・小教区の信徒会長を務めていた。パパさまをお迎えするために、浦上天主堂を改装しようと、皆さんに呼びかけて、協力を得て、今の天主堂に美しく仕上げた。毎朝、天主堂から平和公園へ散歩するのが楽しみの彼だった。働きながら、好きな本を沢山読んだ。文学を志した。修道士のとき、騎士誌の編集をしたのも、永井隆博士の原稿係だったことも、自慢となった。彼は、しばらく勤めた聖母の騎士を「たましいのふるさと」と大事にして、縁を切らないように心がけた。家業のクリーニング業は早々に引退し、余生は騎士社の奉仕生活におくっていた。★彼を思うとき、トマには1つの課題が浮かぶ。「信仰生活をしているのに、なぜ人は弱いのか」。彼の小説の文脈にその片鱗がなかったか。彼は亡くなる前に、トマに色紙を頼んだ。言葉の指定は、「仰せの通り、我に成れかし」。その心境で最後の苦難を受け止め、人生を終わった。フランシスコ・ザビエル水浦久之、ホンネを語れる、他には居ない親友であった。安息を与えてください。★中学生たちが平和学習にくる。「コルベ神父を学びたい」と願う。聖コルベを教えることは、愛をおしえること。それは本や資料からではなく、心と心の触れ合いで、少年少女たちに、愛を近づけていく。これは至難の課題です。大きな目標も、だが、周りの人、友人、家族、その人たちを助ける、支える、許してあげる、その小さな行為の積み重ねが、平和につながると、語った。「長崎のコルベ神父」の名前を覚えてほしい。
2014年6月22日日曜日
聖コルベ館の見学者たち。巡礼は祈る心、反省の心。
見学にきた3人の女性たち。お互いに、フランス・ルルドや、イタリア・アシジの巡礼で、お友達になったそうです。久しぶりに、再会して、アシジでお世話になった神父さんとも出会って、喜び合いました。巡礼へ行けば、心が通じるのですね。聖コルベ館で、ゆっくり時間を過ごしました。トマの、「被爆の証言・コルベ神父の心」のビデオも、見てくれた。「いま、心に浮かぶ言葉は何ですか?」の問いに、「出会いは神さまの恵みです」とか、「愛には恐れがない。おそれがあるときは、愛でなし。心にとらわれている。自分のカラに閉じこもる。それは愛ではない」「愛はエネルギーです」とも言った。分かち合いですよ。心の栄養ですね。ルルドや、アシジが懐かしい。お恵みもイッパイ有ります。よい巡礼をつづけてください。★駄文ですけど、書いているのは、説教ではない。一連の物語です。文章として成り立っておれば、それで結構です。出来事を、つまみとって、つなぎ合わせて、一つの流れをつくる、その出来栄えがオモシロイのです。★ほんとうに信仰を持っていたら、生活は変わるか。信仰の薄い者よ、と主から言われる。信仰を持っていたら、不安はなくなる。おまかせします。良くても、悪くても、耐えていける。★人は目で見る。神は心で見る。やっぱり、人の目が気になる。認めてもらいたいからでしょう。立派なものを持っているね。良しと、したい。自信があれば、生活にゆとりができて、前を向いて歩けそうです。
2014年6月21日土曜日
昨夜の、3つの電話の物語。情報は早目が、よし。
2014年6月20日金曜日
聖コルベの遺髪。43年展示。今朝から、旅への準備。
聖コルベの小聖堂に、コルベ神父の遺髪が展示されている。コルベ神父が1971年に福者の位にあげられたとき、ローマから贈られた。大切にされてきた。43年です。小さなケースに入っている。「上のほうに、赤い○、3つある。それに、つなぐように、黒い毛が、1本だけ、横に、のびる。これが遺髪です。見ても、わかりにくい。ケースは代わってはいないが、もう少し、わかるように、会計の修道士が苦労して、光が当たるようにした。コルベ神父の遺体は、アウシュヴィッツ強制収容所の焼却場で、すべて燃やされたので、遺髪は、ごく少ない。これからも貴重な遺髪を、見守っていく。★朝から、旅行へ向けて準備へ。まず医院へ、1ヶ月のクスリを受け取りに行った。次に、駅前の旅行店・JTBで、「長崎から、広島、鳥取までの往復のJRキップ」を求めた。ホテルも決めた。いずれも、駅のそば。気持ちは、じょじょに旅行の雰囲気に高まっているが、いくばくの不安も残る。「でも、書いたでしょう。行動しなければ、何も分からない。結果は出ない。がんばって足を、腰をあげてみよう」。その気持ちで、理容店へも入った。散髪して、気分も爽やかになりました。来週の火曜日に、出ます。
2014年6月19日木曜日
入浴の介護。ヘルパーさんの助け。週2の楽しみ。
毎週、2日、入浴の介護に来てくれるヘルパーさん(男性)です。親切で、作業が丁寧な、若者です。入浴の時間は決まっている。午後2時30分から、1時間だけです。介護を受けるようになって、2年が経過しました。入浴介護と、部屋の掃除をしてくれる。今では入浴が楽しみになった。★先日は、フィリピンから司祭と観光社の1団が、聖コルベ館へ見学に来ますと、予約が入った。フィリピン人のため、ビザが解消されたので、旅行者が増えるだろう。その先発隊として、見学に来るそうです。予定は午後2時頃、ああ、ちょうど入浴に重なっていた。見学者はいつ来るのか。予定がずれると困ります。心配していたが、予定よりも早く来られたので、案内して、無事終わりました。ホッと、しました。入浴時間には、差支えがなかった。よかったよ。★ヘルパーさんとの語らいが楽しい。健康状態や、ブログによる近況など、聞いてくれる。ヘルパーさんは、男性が2人いて、交代で来てくれる。2,3年前は、体調が不具合で、1人では入浴ができない状態でした。仲間の修道士から、介護を受けていた。その修道士が転任になったので、その延長として、介護を頼むことにした。要・支援2、です。定期的な入浴のおかげで、カゼもひかず、この2年間は体調も安定して、感謝の日々を過ごしております。
2014年6月18日水曜日
ジッと座って、ダリアを見つめて、思いました。動け。
2014年6月17日火曜日
聖コルベ館の墨絵『最後の晩餐』。今日の日付・作。
2014年6月16日月曜日
映画の中の嵐。人間の心にも嵐はふく。安らぎを。
聖コルベ館で座っていると、1人の神父さんから声をかけられた。「いま、市内の映画館で、『ノアの箱舟』を上映している、いっしょに観に行かない?」。「ウムー、そうね」と一応ためらったが、「よし、行こう」。誘ってくれた神父さんと個人的に語りたい気持ちもあった。★ひさしぶりに、大きな色彩・画面に、心が揺さぶられた。高音の音楽で、耳が痛くなったよ。2時間15分。長い映画だった。★この映画を見て、ふと我に帰ったとき、胸に浮かんできたのは・・・・それは、愛と、イノチ。そして、清さと、改心だった。ジンセイって、究極は、この4つではないかとも思います。愛とイノチは最も大切です。何事にも、このテーマがでてくる。映画にも、根底には、愛とイノチがあった。更に、自分の生き方でいえば、清さと、改心でしょう。清くありたいと願うものの、人間は弱い。誰もが落ちる。悪い結果になっても、決して悪いのにと思ってしている訳ではないでしょう。良いことと望んで、行なっているが、結果は良くないことも、ある。人間を立ち直すのは、改心です。素直な、改心、そう思います。★それに、もう1つ、付け加えるとすれば、「この1日、平穏に過ごした、感謝して生きよう」。この願いがあります。
2014年6月15日日曜日
アジサイのそばで、少女への思い。声をかける人に。
開館まえに、庭で目についた。アジサイ。全体が、花かと思ったら、そうではない。真ん中に、小さなツブツブがある。色紙にアジサイも描いているので、よく見た。いろいろなアジサイがあるんだな。写真を撮っていると、向こうから、家族の1団が近づいてきた。★アジサイを離れ、ころ合いをみて、こちらから声をかけた。「おはよう。今からミサね。お祈りして、ね」。大人たちは、それぞれ返事をしたが、少女は黙っていた。恥ずかしかったのだろう。すれ違って、ふりむくと、母親らしい人が、なにやら少女に告げていた。内容は聞き取れないが、「返事をしなさい」と諭していたのだろう。少女は機嫌がよくなかった。その仕草が見えた。「おこられて、かわいそうやな。でも、挨拶は必要だし」。これから修道服を見れば、少女は一人のとき、どんな心境になるか。そう考えるのは、思い過ごしだろうか。幼い頃の体験は、長く尾をひくに違いない。今朝のちょっとした出会いが、心に小さなキズをつけた。自分が小さい頃を思い出した。母、1人。子、1人で育った自分。子供の頃は、母の後ろに隠れて、前に出なかった。人見知り、というのか。少女よ、積極的に、前向きに、声を自分から掛ける子になってください。今朝の祈りは、それだった。
2014年6月14日土曜日
旅人よ。女子中学生よ。トマさんよ。前向きに。


2014年6月13日金曜日
お米の返礼。ビワが届いた日、誕生日ハッピー。
2014年6月12日木曜日
平川兼夫神父、81歳、神に召される。安息祈る。
この写真を見れば、ああ、あの神父さんですか?と覚えているお方も居られるでしょう。巡礼の旅行グループをお世話して、聖地をまわっておられました。大きなカラダの神父さんですが、こころ優しく、言葉も優しく、あまり大きな声では叫ばず、静かにお話される神父さんでした。81歳ですから、同じ年代です。太平洋戦争のさなかに、小学6年で、五島・福江島から聖母の騎士に入り、市内の小学校、中学校に通いました。戦争が終わって、昭和21年4月、聖母の騎士中学が再開したとき、中学2年になる。トマは、3年でした。中・高のころは、よく知っています。★考えれば、長い人生だと思います。イタリアへ行って、司祭になって、たくさん指導して、司牧して、神さまのため働きました。すばらしい人生だったと思います。おだやかな神父さんでした。車の運転が好きで、遠い所まで自分で運転して、旅を楽しみました。仲間の司祭が、1人、1人と召されていく。寂しいことです。思い出のエガオだけが、残っている。エガオを向ければ、エガオで返ってくる。平川兼夫神父さんの安息をお祈りください。
2014年6月11日水曜日
共同休憩室の「異国の丘」と、復帰のロザリオ。
4階にある共同の休憩室です。夕べの聖務とロザリオが終わり、夕食が終わると、入浴など、自由の時間となる。休憩室に集まって、新聞を読んだり、テレビを見たり、静かに時を過ごします。9時過ぎには散会します。★週1度の夜は、全員が休憩室に集まる。テレビは消して、飲み物、スナックで、語らいの時を過ごします。思い出話や、失敗談、イタリアの話、にぎやかです。★昨夜は、人数も少なかったせいか、テレビがついていた。NHKの歌謡コンサート。終戦当時の古い歌を熱唱している。古い人間は懐かしいのか、テレビは消さない。そのうち「異国の丘」が歌われた。シベリアに抑留された兵士の悲しみの歌だ。しみじみ胸に迫ってくる。「あの頃の人には、悲しい体験があった、な」。誰でも、わかる心境だ。★トマ修道士が、こんな話を語りだした。神の島教会の主任に、岩永神父さんがいた。兵隊に行って、シベリアに抑留されて、大変だった。戦友の多くが亡くなった。岩永神父は、祈りだけは忘れず、指で、ロザリオを唱えていた。苦しみが過酷をきわめたとき、神父は特別に、幼いイエスの聖女テレジアに助けを願った。テレジアは宣教師の味方です。希望をもって、毎日、祈った。7年後、シベリアを開放されて、長崎駅に着いたとき、真っ先に、大浦天主堂へ行った。10月で、信者たちが堂内でロザリオを唱えていたという。感動した。そして、もう1つ、感動する出来事があった。その日は、10月3日、幼いイエスの聖女テレジアの祝日であった。★こういう話を、もっと、もっと聞きたいね。異国の丘の歌と、ロザリオの祈りは、修道士たちの胸に、しみじみ感じるものがあった。その夜は、ゆっくりと安眠した。
2014年6月10日火曜日
本気で、足の衰えを、憂うべし。わが身のためぞ。
院内で収穫したビワです。見た目は素朴だが、陽の光をあびて、甘さは充分、おいしかった。今年はビワのあたり年です。ナガサキじゃモン、たくさん食べよう、かけ声をかけた。幸せを感じる初夏です。★今朝は、絶食する。予約の診察。泌尿器科へ行く。胸のレントゲン、腹部のCT、心電図をまわって、先日の血液検査と共に、お医者さんの判定を受けた。腎臓に大きな白いカゲがある。毎たび見るカゲだが、これが「石灰化」です。どうしようも、ない。カゲを抱きつつ、ステントを入れつつ、生きて行くしか、ない。玄関を出ようとして、看護部のシスターから声をかけられた。「シンパイしていたのよ。どう?足腰をきたえて、老化を防ぎなさい」。1枚の紙を渡される。食べ物、運動、骨折するな、など書いてあった。ありがたく受け取って、「実行を心がけよう」と思う。本気で、足の衰えを憂えた日だった。★今朝、黙想のとき思った。生まれた時から、この道です。導かれて、閃いて、この道(信仰)に入ったのか、実はそうではない。導かれようが、恵みがあろうが、ふつうに生きても神さまに手をあわせたいのです。理由を見つけるのでなく、病気でも、苦境でも、この道、この心境で歩みたいのです。そんな気持ち、よろしいでしょうか。
2014年6月9日月曜日
長崎のサシミは、これだ。修道士の愛が、こもる。
サシミ、1皿。大きなサラだよ。左が、キビナゴ。右は、アジ。こういうサシミを好んで食べます。誰も、モンクは、いいません。聖霊降臨の祭日でした。教会が、誕生した日です。お祝いです。この日は、炊事のお手伝いさんは、お休みでした。オトコ世帯の修道院では、会計さんの修道士が、夕食を準備しました。夕べの祈り、聖務が終わって、食堂に入れば、このサシミ。「おお、おめでとう」。聞けば、会計・修道士さんは、自ら運転して、外海の港へ、キビナゴ、アジ(ゴン・アジ=生けすで泳いでいた)を買いに行った。生きのいいサカナを、自分で裁いたのが、この皿です。ついでに、式見(しきみ)のカマボコも、熱々(アツ・アツ)を買ってきた。これが又、おいしんです。田端教授は、式見のカマボコ研究で、博士になった。有名カマボコです。会計・修道士は、すき焼き用の食材も揃えていた。若い神学生、3人。司祭が、数人。修道士は、2人。盛り上がりました。トマ修道士は、会計の修道士から、大きなチカラと、支えを頂いている。話題は沢山あったが、最後は、いつもながら坂本修道士(故人・炊事係)の料理の思い出に落ち着いた。「巨人が負ければ、オカズは、一品、減る」。笑いのうちに、サシミは全部、品切れとなった。「ナガサキ人の、心をつなぐのは、サシミ、あれば十分だ」
2014年6月8日日曜日
人生いろいろ。一本橋を、わたる気持ち。
いまは、なんと言ったら、いいのか、ね。カラダは、完全なところって、ないからね。痛みは、あるし、夜中は、しょっちゅう、おきるし、アタマ、ふらふら。もう、この歳になったら、いいところって、ないね。当然だよ。それでも、生きる。どうしようも、ないから、受けて、立つしか、ない。一本の丸太の橋の上を、平均、とりつつ、ヨイショ、コラショと、わたる気持ち。「それでも、愉快さ」。輝くものは、あるんじゃ、ないかな。後光が、さす、というかね。★午後から、見学客は、いなかった。閉館、少し前、庭に出て、しばらく太陽にあたる。心をゆっくり、させる。5時30分から聖堂で、フランシスコ会の7つの喜びのコンタツが、ある。土曜日は、これを祈ります。聖母マリアの7つの喜びを黙想します。アヴェ・マリア、10を、7連、唱える。70、です。それに、2、を足す。72、になる。「聖母の御年を尊ぶために」と、しめくくる。伝統で、何百年と唱えてきた。祈りも、歴史があるから、チカラがある。意義もある。★夕日に当たっていると、黒塗りの車があがってきた。県外のナンバーだった。3人の男性が降りてくる。気安く、話しかけた。「ルルドのお水を戴いて、お恵みをもらったので、お礼の祈りにきた」という。ここにも、生きるチカラをもらった者がいた。例の如く、「お恵みをもらったら、感謝を、ね」。庭に居たから、彼らに会えた。「若い、ね」という。「カオだけ、さ」。ジンセイって、誰もが、一本橋を渡っている。「あとは、希望を失わないことだ、ね」
2014年6月7日土曜日
人には誰しも、最後に、「臨終」の一仕事がある。
悲しい日でした。男性の葬儀に参加し、お祈りしました。60代の若さに、惜しむ声が聞かれました。がんを告げられて、余命いくばくも、ない。最後は、力づよく生きて、子供たちに、親の素晴らしい生き方を見せながら、亡くなった。「力づよく生きぬいたと、言われる人生」です。家族は、父親が残した数々の思い出を大切に、慰められ、信仰のうちに希望をもちました。★葬儀ミサで、司祭はお説教のとき、「司祭の両親や、兄弟を失ったときの悲しみを語り、また自分もガンに冒されて、死を意識したことから、私たちも時折、自分の死をも考えるべきです」と語った。それを聞きながら、「ああ、オレも、ガンだよ、な。同じ、だよ」★告別式のとき、学生時代からの友人がお別れの言葉を読み上げ、「力づよく生きた人生だった」と涙しました。みなさんは、涙を、そそわれた。★葬儀が終わって、帰りの車のなかで、思いました。「病気の苦しみや痛みを、神さまに捧げる。すると、その功徳は、罪びとの改心につながる。罪びとは救われる、と教えられてきたが、今でも、その信仰は教会に残っているだろうか。最近は、あまり言われない。例えば昔、コルベ神父は、来客があると、修道院の一番大事な所へ案内しますと、病室につれて行った。ここで捧げる苦しみ痛み、祈りが、修道院に、布教に、罪びとの改心に、大きな恵みをもたらす。コルベ神父は、そう確信していた。祈り、苦しみ、痛みは、改心につながる。そこには信仰の神秘がある。★葬儀の教会まで、片道、40Kmは、あった。午前10時30分に出て、午後3時過ぎに、疲れて帰った。
2014年6月6日金曜日
今朝のパン。シロ・パン。クロ・パン。エガオのパン。
こんな写真をのせて、びっくり、ですよね。40年まえ、初めてポーランドを旅したとき、コルベ神父が生まれた町で撮った1枚です。楽しそうに笑う、少女たちの顔。★きょうは、月の初めの金曜日。初金曜といいます。朝、5時に起きて、昼の12時、アンゼラスの鐘がなるまで、沈黙といって、しゃべりません。心を静かにするわけです。朝食も、10人居りましたが、沈黙で食べました。初金は、チーズも、ジャムもありません。★パン、1枚と、牛乳を飲みました。パンを、シゲ、シゲと見つめると、なぜか、ふと、ポーランドのパンを思い出したのです。黒い、かたい、パンでした。ポーランドの修道院で食べました。200人ぐらいの修道士が居たんですよ。おいしいパンでした。次に連想したのが、ポーランドの、この写真の風景でした。1971年秋の写真です。絶対、忘れない1枚です。あれから、30年経って、同じ町で、左側、3人の女性と再会しました。みな、母親になっていた。あれから、また、10何年ですよ。元気でいるだろうか。思い出だけが、若々しく、残っています。★どこの国の人も、笑えば、幸せになる。愛と、平和が、エガオを生み出す。パンの色は違うけど、エガオは同じだよ。今朝は、それを思い出しながら、食後の、くだもの、ビワを食べるのも、犠牲にした。
2014年6月5日木曜日
梅雨に入り、アジサイが咲いた。予約の診察へ。
雨が降りました。梅雨だから、仕方がありませんね。今朝のアジサイです。みずみずしさのなかに、やさしい色で咲いていました。かわいい、ですよ。他人をうらやんでは、いけません。せいイッパイ、咲いている。きれいだよ。それで、いいのです。「元気で、居ります。修道士を守って、おります。聖コルベ館に勤めて、います。それだけで、リッパ。そのまま、進んでください」。わかりました。自分に言いきかせました。★予約の泌尿器科へ診察へ行きました。どうもシュンパツ・リョクが出ない。全体的に診てください、と頼みました。老人科、というのでしょうか。お医者さんは「やってみましょう」と答えました。★ごご、聖コルベ館へ出ると、1人の若者が待っていました。「浦上に、キリシタン資料館ができました」と言って、名詞をくれました。浦上天主堂の近くだそうです。「協力しましょう」と願いに応じました。活動写真「日本26聖人」のDVDを贈呈しました。★京都のお医者さんが、クララ・てるの子孫の森内さんへ、「銀のサンタ・マリア像」をお渡しください、と送ってきました。親指の大きさの小さなご像です。由緒あるご像でした。語れば、長い物語があります。
2014年6月4日水曜日
3人の教師、山の学校を語る。65年で廃校。
紹介します。場所は、諫早観光ホテル道具屋の4階。眺めのよい豪華な和室。集まった3人は、左から、椿原中学校の藤下(元・教頭)先生。田川(元・校長)先生。寺崎(現・教頭)先生。3人で、夕食をとりながら語り合いました。田川校長が勤めていたのは、1985年から1991年の6年間です。2人の先生には、お世話になった。藤下先生は、38年勤務。寺崎先生は、36年勤務。特に、バレー・ボールの監督で、よく頑張ってくれましたよ。成績も、上々だった。残念ながら、椿原中学校は、今年の3月で、廃校になった。「ご苦労サン」という、ねぎらいの会食、語らいでした。楽しく過ごしました。
2014年6月3日火曜日
蟻の街のマリア、北原怜子の列福申請はじまる。
怜子と書いて、「さと・こ」と読む。聖コルベ館の資料室に、怜子の小さなコーナーがある。彼女は、誰だろう?ゼノ修道士さんと関係があるのです。彼女は大学教授の娘さん。なに不自由なく暮らしていた。そこへゼノさんが訪ねてくる。貧しい人の街は、どこですか?初めて、その街のことを知った。外国人のゼノ修道士が、日本人の貧しい人たちを助けているのに、日本人である自分は何もしなくても、いいのか。彼女は家を飛び出して、貧しい人たちの街に住み着き、いっしょに苦楽を共にする。「アリの街のマリア」さんと呼ばれた。「竹トンボ」は彼女が小学2年生のときに書いた字である。残念ながら、結核の病のため、28歳の若さで亡くなった。ゼノ修道士に出会って、8年たっていた。彼女の着物が展示されている。★ローマからの連絡によると、ようやく彼女の列福申請が、6月12日に、申請担当者と、8人の神学者によって、取り扱われることになった。神のはしためエリザベト・マリア北原怜子の「聖性を讃える崇敬」と「奇跡を通して広まる崇敬」が提示される必要があります。★騎士誌の8月号には、北原怜子を書こうと思います。「愛は、石の心をも、やわらげる」
2014年6月2日月曜日
長崎・びわ物語。色紙に添えて、仲を取り持つ愛。
2014年6月1日日曜日
エガオと、清さと、祈りを忘れるな。助ける人が、いる。
紹介します。今年の4月から、小神学生になった「龍(りゅう)」くんです。平成13年10月生まれ。中学1年生です。鹿児島で生まれ、鹿児島から入学しました。希望に燃えた若者だよ。さわやかな少年を、応援してください。聖母の騎士には、中学はないので、市内の中学校に通っています。夕方、町へ出ようと、食堂から屋外へ出ました。庭で、龍くんが、ひとりでボールと、たわむれていた。小神生は、ひとりだけ。「オーイ」と呼ぶと、「ハイ」と寄ってきた。「小さい、な。オレも、小さい、けど」。抱き寄せて、前途を祝しました。「やあ、これから、何10年、かかるかな。道は遥かに遠い。1歩、1歩、着実に歩めば、かならず、目的は達成するよ。ボクが、そうだった。エガオは、いっしょだよ。「こころの清いものは、幸いなり」。13歳と、86歳だよ。ああ、くわしいことは、言わんで、いい。笑顔と、清さと、祈りば忘れんなら、それで、よか。波の荒れるときは、静まれ、って言えば、いい。助けてくださる御方が、おらすけん、な。
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