長崎のカトリック修道士。17歳の時、原爆を受けて、この道に入る。 生かされて来た数々の恵みの中で、今年の1月、最大の試練「すい臓がん」を告知された。 「みむねの・ままに」。孤独と苦痛に耐え得るチカラを日々、祈る。 毎日、日記を書き続けて13年。今、長崎市の病院・ホスピス病棟で暮らす。 追記 2021年4月15日 午後6時48分 帰天されました。享年93歳
2012年9月30日日曜日
主よ、ここに、私のソバに居られますか。大きな希望です
2012年9月29日土曜日
熱さがる。大天使ミカエルよ、ガブリエルよ。悪・熱、守り給え

2012年9月28日金曜日
ホンロウされるトマよ。何事があっても、ゲンキを出せ。
2012年9月27日木曜日
師父聖フランシスコの祭日まえの9日間の祈りが始まっている
2012年9月26日水曜日
2012年9月25日火曜日
活力くれた男性は、小さなヨットの海のツワモノだった
2012年9月24日月曜日
夕日を浴びて、飛ぶトンボ。けんめいに羽を震わせ、生きる

2012年9月23日日曜日
遠藤周作・文学散歩。長崎の小説の舞台を訪ねる皆さん
2012年9月22日土曜日
今朝の小さな出来事。ひさしぶりのライモンド。堂々とイキよ
2012年9月21日金曜日
人生、秘蹟で助けられ、ホント、良かった思います

2012年9月20日木曜日
聖コルベ館も、韓国にご縁がある。平和を祈りました

2012年9月19日水曜日
自然の景色は変わるとも、ニンゲンの精神は変わりません
2012年9月18日火曜日
2年前のコスモスは、今年も咲いているだろう。ヒトも生きる
2012年9月17日月曜日
アシジの聖フランシスコの聖痕の祝日です。ミサで祈る
2012年9月16日日曜日
2012年9月15日土曜日
2012年9月14日金曜日
2012年9月13日木曜日
入院16日目。退院の朝。新しい感謝の人生が、また始まる
廊下の遠く、2人の人影。ご聖体を捧持した神父さんと、カンテラを下げた看護師部長のシスター。廊下で待って、ご聖体を受けた。退院の朝です。ご聖体にも、神父さんにも、先生にも、看護師さんにも、介護した人、皆さんに、また日記を見守ってくださった多くの皆さんにも、心から感謝を申しあげます。ありがとう。またイノチをつなぎました。病苦のとき、祈ることは出来なくても、愛することは出来るでしょう。苦しみ、痛むとき、神のご意思は、何ですか。少しでも、いいから、果たしなさい。若いときに憧れた、豊かな内的生活。自分の召命である成聖の道。今、なお修道者であるのを、忘れるな。『今』という瞬間を、セイ一杯、生きるとき、内的な喜びは、きっと、じわーっと、湧いてくるでしょう。★退院まえの祈り。「主よ、あなたは、いつもソバに居られましたか」。介護した人、看護した人、見舞った人、よきサマリア人のなかに、主は、居られた。「わたしも、そのような人に、なりたいです」
2012年9月12日水曜日
入院15日目。あなたに、とって、隣人とは、だれか?
今度は、長がーィ、入院でした。でも、あっと、言うまの、病院生活でした。最初は苦労しました。高熱が、あり、悪寒が、あり、尿が、出ず、透析を告げられ、苦難のなかでしたが、最初の日から介護してくださったのが、千草さんです。不具合のときの介護は、大変でした。人の心を動かす基本は、やはり家族的な心情です。千草さんは言う。「お父さんや、家族の介護をしてきたから、馴れているのよ」。だれが、サマリア人なのか。聖書に出てくる、看護された怪我人の目は、どんな目をしていたのだろう。何も言えない。ただ目は、ありがとう。だれでも、願うのは、言葉よりも、暖かい手です。千草さんの家は、病院から徒歩2分にあるそうです。訪ねた事は、ありません。毎日、朝食まえに来て、小まめに動き、片付けが終わると、いったん帰り、昼食まえに、2度目、晩食の前に3度目も、それぞれ笑顔を出して、奉仕してくださった。夕食後は、毎晩、2人で、声をあげて、ロザリオと、聖母マリアの連祷を唱えた。最初は息も辛かったが、快復した。「もう、あした、退院、ね」。しばらく、この笑顔は、見られない。
2012年9月11日火曜日
入院14日目。お客さん、明るい気持ちで、イラッシャイ
バプテスト・キリスト教会の皆さんが、お見舞いに来られる。ゲンキをやっと快復して、快く応対ができました。皆さん、手をつないで、女性の牧師さんが、心をこめて、やや長い祈りをささげてくださいました。祈りにつながれた心は一緒です。バプテスト教会とのご縁は、数年まえに、教会の九州大会で、ご一緒に参加させていただいたのが最初です。入院の度ごとに、必ずお見舞いに来て、慰めてくれます。小さな心遣いが、大きな慰めになります。道は違っても、なぜ、喜びや、笑いや、希望はいっしょなのだろう。きっと、人の心は、基本で、根本で、1つの束(たば)になっているに、違いない。ベッドで得た教訓、『主よ、あなたは、私のソバに居られますか』を語りました。病気のとき、痛むときは、本当に苦しいんです。誰かが、主が、ソバに居てくださったら、もう、申し分のない喜びでしょう。今夜は、ゆっくり、休みます。
2012年9月10日月曜日
入院13日目。早く帰りたい。夢を見たよ。一時の楽しみ
ああ、いつ、聖コルベ館に帰れるかな。ゲンキな『コウタ』くんと、ピースしている夢を見たよ。やっぱり、聖コルベ館が、いい。病室で、ひとり、ポツンと呼吸するのは、ほんとうの自分じゃない、気持ちがする。やっぱり、「パーッ」「パーァ」っと、忍者みたいに、自由自在に、動き回るのが、いい。ああ、夢の中だから、できるんだな。今朝、8時半ころ、外来・診療前の、お医者さんが見えられた。「どうですか?」「ハイ、すっかりゲンキになりました」。この後、お医者さんと、2人だけの会話がつづいた。「フ、フ、フ」。ひとりで、笑う。9時30分、赤尾院長さんに、電話をかける。「ご心配を、かけています。申しわけ、ありません。いま、お医者さんの診察がありました。今週の、木曜日に、退院してよいそうです。それまでリハビリ、つづけます」「よかったですね。ハイ、わかりました」。院長さんに、真っ先に、報告した。「気持ちが、すーっと、楽になった。ああ、夢が、叶いそうだぞ」。日曜日、朝の体重測定で、びっくり、体重が、2Kg、減少していた。1Kg減らすのに、四苦八苦していたのに。
2012年9月9日日曜日
入院12日目。イノチは神さまの事。今度は、ピンチだった
今年になって、入院は、6回目です。慣れたとはいえ、やっぱり入院は、つらい。イノチが掛かっていますからね。幸いにも、カラダの調子は、いいようです。尿の袋が取れた2日目(9月5日・水曜日)から、尿のなかの浮遊物も出なくなり、希望が出てきた。80代半ばの老人は、思う。「ほんとに、長く、生きたな」。ずーっと昔、まだ結核のクスリがなかった時代、若者たちは次々と肺結核やカリエスに罹り、沢山の人が苦しみ、亡くなった。良くなった人もいる。しかし腎臓結核は、困難な病気で、罹ると、すぐに摘出した。数年たつと、もう1つの腎臓も結核に冒され、ほとんどの人が亡くなっている。幸いに、この老人の場合、当時は未だ珍しかった結核の新薬が幸いにも手に入り、それを飲んだおかげで、腎臓結核は、快癒したのです。その証拠は、CTのレントゲンで見れば、石灰化して、はっきり腎臓の中に残っている。素人でも、わかるんです。おそらく腎臓結核で、片方を切除し、残る片方も結核で病んだ人は、ほとんど亡くなっているのでしょう。だから、80代半ばの老人の、この病状は珍しく、今の時代の専門医のお医者さんにも、ほとんど診た経験がないのではないか。「ああ、これまで、生かされて、ありがとう」。それしか、言えません。写真は、病者の塗油の秘蹟の後で、写した。
2012年9月7日金曜日
入院11日目。聖母マリアのご誕生日。いい事あるぞ
介護の千草さんが今朝、言った。「トマさん、三橋理江子さんからメールが来てね。マリアさまの誕生日って、書いてあったよ」「ああ、そうか。今日は、8日の誕生日だ。すっかり忘れていたな」。それから、ずーっと、「マリアさまの誕生日、そうだ。何か、思い出になる事は無いかな?」と考えつづけた。昼食後、入浴したときも、湯船のなかで、考えつづけていた。幾つかの、ヒントはあった。高木仙ヱ門の孫、高木寛(ひろし)さんは、シスターや司祭などの聖職者に知り合いが多く、それらの人の誕生日を手帳にメモして、いつもお祝いのハガキを出していた。小崎修道士にも届いていた。そんな事を考えながら、湯に入っていると、風呂場の扉を「トン、トン」とノックして、「トマさん、お客さんが、いま来たよ」と、知らせるではないか。「え?だれ?」「愛野教会の、ポーランド人のブリ神父さんが、来ている」「え?」「ポーランドからのお客さんを連れて来ています」「ちょっと、待ってね。談話室で、待って、もらっていてね」。風呂から上がって、迎えたのが、写真の皆さんたちで、「何か、話してください」と言う。幸いに、ポーランド版『焼けたロザリオ』が出版されたときなので、マンガにまつわる「原爆」や、「コルベ神父」や、「ゼノ修道士」や、現在の教会や、我が人生の歩みなどを語った。ビデオに収録した。「ポーランドで、『焼けたロザリオ』を宣伝してください」。それが願いだ。ブリ神父さんが通訳した。彼らが帰った後、「マリアさま、御身の誕生日です。おめでとうございます。今日は、すばらしいお客さんを送ってくださいました。もっとも意義ある恵みの日になりました」と感謝した。★夜になって、長崎市内のポーランド人シスターが見舞いに来た。シスターの話で、初めて彼らの取材が分かった。ポーランドから来た2人は、クラクフの大神学校の神学生です。いま大分に、サレジオ会の司祭で、ご高齢のピサルスキー神父さんが居られる。その神父さんの映画製作のために来日し、取材を始めているそうです。「いっしょに、ポーランドで、宣伝してもらえば、ありがたいよ」
2012年9月6日木曜日
入院10日目。カオは、いい。頭の毛が、ボサボサ
2012年9月5日水曜日
入院9日目。鳥取から夫妻が見舞いにきた。20世紀の梨
鳥取に、毎日、日記をみてくれる『みどり』さんがいる。「読者になる」の第1号でもある。いつぞや、鳥取に旅して、お世話になった。砂丘にも、案内された。また鳥取には、泌尿器科のお医者さんで、中村先生がいる。熱心なカトリックの医師だ。先日、ベッドから、中村お医者さんと、40分も、病状について話した。鳥取には、他に、土橋夫妻がいる。『みどり』さんから電話があって、「近々、土橋さん夫妻が、九州へ行くそうよ」と教えた。心待ちにしていたら、土橋さん夫妻が、『20世紀の梨』を、重たいのに下げて、見舞いに現れた。この夫妻との出会いは、こうだ。鳥取の教会でミサで祈ると、白い修道服を着て、リズムに乗せながら、大きな体で、オルガンを弾くベルギー人修道士がいた。その姿に、妙に、心引かれた。鳥取には、珍しく、3人の、福祉で活躍する修道士(2人は、ベルギー人)がいるそうだ。「遠い異国から来て、修道士たちが、よくぞ、がんばるなあ」と感心した。「彼らの、修道院を訪問したいな」と、思っていたら、「いい、ですよ」と、連れて行ってくれたのが、土橋さんだった。彼の車にお世話になる。小さな修道院に入ると、オルガン修道士とは別に、ベルギー人修道士が案内してくれた。修道院の壁に、ラテン語で、「与えよ、されば、与えられん」と書いてあったのを、忘れない。「長崎には、修道士も多い。見慣れていますよ。それが鳥取の、日本海に面した、人の目に触れない場所で、ひっそりと、神の愛を実践する。キリストの心で生きている。すばらしいことじゃ、ないですか。感動ものですよ」と言いつつ、あの時は土橋さん夫妻に、別れた。「おお、久しぶりだね」と、しばし語らい、「旅する夫妻よ、長崎・信仰の心を、みやげに持って、帰りなさい」
2012年9月4日火曜日
入院8日目。初体験・病者の秘跡。タマシイが安らぐ
午後3時、修道服を着た赤尾院長さんと、若い司祭、李神父さんが見えた。今度の入院で、「イノチの、ともし火」を感じる。いよいよ、病者の塗油の秘跡を、受ける。まず、李神父さんと、2人だけになり、告解を果たした。定期的に、李神父さんには、告解をしているので、ゆっくりとした気持ちで、心中を述べた。李神父さんの、言い聞かせも、あった。カトリックに、こういう秘蹟があるのは、ほんとうに有り難いと、感謝した。心は、安らかになった。生きている恵みが、わいてきた。その思いで、病者の塗油の秘蹟は、始まった。お祈りや、聖書の一部が読まれる。神妙に、ベッドの上で、ひたすら、祈った。ニンゲンは生まれ、育ち、才能を発揮して、成熟を向かえ、やがて老いて、枯れていく。ニンゲンって、ほんとうに、小さな存在に過ぎないと、思った。「長いあいだ、お世話になりました」。だれに、お礼をいえば、いいのか。神さまか。自分のカラダか。そんな単純な気持ちだった。安らかな気持ちになった。終わった後で、記念にと、写真を撮った。そうそう、撮れる写真じゃ、なかった。
2012年9月3日月曜日
入院7日目。クダも取れて、やっと歩ける。皆さんのおかげ
2012年9月2日日曜日
入院6日目。人生に、必ず、良きサマリア人は、いる

2012年9月1日土曜日
入院5日目。調子が、いい。しゃべり過ぎて、8度8分
現在の病状をお知らせしますと、まず肺呼吸の減少で、鼻にサンソのクダがつながれている。次は、点滴です。特別に、炎症を抑えるクスリを入れる。点滴のクダにつながれる。それから、尿です。起きて、トイレに行かないように、尿袋のクダにつながれている。最後は、目には見えないが、腎臓から、ボウコウへ、ステントのクダでつながれている。そして、まだ最後が、あります。これが大事です。「神さまの、愛と、イノチのクダに、つながって、おります」。日中、少々しゃべりすぎて、夜には、8度8分の熱が出て、反省しております。私は思うんです。ベッドという、動けない十字架にしばられて、自分を省みれば、2つだけ、大きな体験をした。第1は、原爆です。あの廃墟と化した原爆の丘にたたずむ少年のソバに、主は居られたのでしょうか。少年は老いても、問いかけます。第2は、アウシュヴィッツのガス室の、(私は、そこに、10回も行きました)、ガス室の中じゃ、ないんです。ガス室の、10歩手前、20歩手前、50歩手前、そこを、前を向いて歩く群衆、幼児がいる、女性がいる、老人たちも、まだ彼らは死ぬことを知らない。シャワーを浴びると、だまされている、その中に、もし私が居たら、主よ、あなたは私のソバに居られますか。ここまで考えてくると、ベッドの上でナミダが出てくる。『主よ、居られますか』。老いても、問いかけます。余りにも厳しい現実です。本には書いてある。居られます、と。言葉でも簡単に言います、居られます、と。ごめんなさい。私には、もう素直には、問いかけられません。まだ死ぬと分かっていないから、です。そこに、コルベ神父が出てくるんですね。コルベ神父は、自分が『必ず、死ぬ』と分かっていた。だから、コルベ神父のソバには、主は確かに居られたのです。主と共に死ぬと分からない者には、この道理は理解し得ないと、いまは思う。原爆の丘で、パウロ永井隆先生は、(私は、小神の中学で理科を習った恩師です)、放射線医師として、被爆者として、自分は必ず死ぬと充分に分かっていた。それなのに、原爆救助に奔走した。死ぬと自覚していたからこそ、主は、共に居られたのです。信仰とは、本じゃ、ない。話じゃ、ない。肌で感じる体験なのです。だからベッドの上の、弱い私は、助けを、求めます。「主よ」「コルベ神父さまよ」「永井先生よ」
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