昨夜は、微熱が、ある。胸が「どーしてか」きつい。朝になると、熱がさがった。主治医の先生「1月21日の細胞診は『1』でした」。ボウコウの方は良好である。午後に、主治医の先生が、「これからの治療の方針を説明します」と告げた。「時間は、2時から」。すると、ちょうど、その時間に、見舞いに、管区長さんと、瀧神父さんが見えた。「ああ、ちょうど、いい。いっしょに説明を聞いてください」。こんなに旨く行くのか。摂理を感じた。
お医者さんの説明。CTで、石が2つあるのが、はっきり分かる。レントゲンに写らないので、外部からの粉砕器械が使えない。開腹して、石を取り出すのは、手術になり、83歳の高齢もあって、ムリだろう。そこで九州に1つだけある器械を使って、尿道からカメラと粉砕・レーザーを入れて、粉砕できる。「痛いですか?」「普通は腰椎マスイですが、田川さんは背骨のカリエスのため使えない。全身マスイをかけて行ないます。その器械は、申し込みをして、1ヶ月から、3ヶ月、かかる。どうしましか」「その器械を申し込んでください」。管区長は費用の面を尋ねたが、「いいえ、費用はかかりません」と主治医は言った。「明日でも退院しても、よろしい」。これで説明は終った。「退院は、もう少し居りたいです。微熱もあるようですから」。退院は2月2日、木曜日に決めた。
長崎のカトリック修道士。17歳の時、原爆を受けて、この道に入る。 生かされて来た数々の恵みの中で、今年の1月、最大の試練「すい臓がん」を告知された。 「みむねの・ままに」。孤独と苦痛に耐え得るチカラを日々、祈る。 毎日、日記を書き続けて13年。今、長崎市の病院・ホスピス病棟で暮らす。 追記 2021年4月15日 午後6時48分 帰天されました。享年93歳
2012年1月31日火曜日
2012年1月30日月曜日
62年、よくぞ働いてくれた、1つの腎臓よ
胸のレントゲンを撮影する。500ccの点滴は、午後の3時頃に終了した。尿は確実に出ている。抗生剤を入れているので、尿が、すごく、きれい。熱も下がった。外科の先生の当直、主治医の先生の処置、(もし、バイパス処置がうまく行かなければ、腹部に穴をあけて、管を入れ、尿を出す、と言われていた)、幸運が重なり、まだまだイノチをつなぐ。結石を粉砕する器械もあるそうだが、私の場合、レントゲンに写らない。CTには写るんだが、条件がよくない。それで、また別の機会に、石を砕く処置を改めて、することになった。今は、ゆっくり安静する。
2012年1月29日日曜日
危機一髪で、イノチが助かった。おお幸い
2012年1月28日土曜日
尿が出ない。大変だ。深夜、緊急入院する
昨日(27日)は、どうも調子が悪かった。昼食後、自室で休む。午後3時には聖コルベ館へ出るのだが、休む。ロザリオも休んだ。聖務日課は出る。夕食は共同で食べた。だが、元気が出ない。おかしいなあ。夕食後、自室へ入る。尿が出ない。ベッドへ寝る。左の横腹が痛む。どうも、おかしい。夜、10時頃になった。このままで、いいのか。尿が出ないで、今夜、過ごせるか。危険を感じた。聖コルベ館へ行き、病院へ電話し、事情を説明した。幸い、今夜の当直の医師は、外科の先生だという。「すぐ来てください」。修道士へ報告して、1人、タクシーで夜の道を病院へ急いだ。外科の先生が、自宅へ戻っているCTの先生へ連絡する。また泌尿器科の主治医の先生へも連絡する。CTの先生が夜分、駆けつけ、CTを撮影した。原因が分かった。「結石が、尿管に詰まっています」。主治医の先生も、12時過ぎに、わざわざ駆けつけてくださる。「今夜は、このままにして、入院しましょう」。夜中の2時に、病室へ。点滴を打つ。3階、内科の2人部屋。だが、私が1人だった。尿は出ない。だが、安心はした。
28日。土曜日。午前中、手術室へ入る。主治医の先生が処置をおこなう。CTで見ると、明らかに、石が2個、はっきり分かる。尿道から、カメラや機械を入れて、そりゃ痛いよ。ガマンするしかない。1時間はかかっただろう。バイパスを新たに作ったら、「ドカッ」と、尿が、噴出した。溜まっていた尿が、全部、出てしまった。熱が、7度7分まで上がる。こうして長い1日が終った。しかし原因がわかって、処置が出きたのは、幸いだった。もう1つ。外科の先生が当直だったから、病院で処置が出きた。もし、内科の医師が当直だったら、他の病院へ回されることになった。これも、大きな幸いであった。すべては、恵みに導かれていた、としか言いようが、ない。
28日。土曜日。午前中、手術室へ入る。主治医の先生が処置をおこなう。CTで見ると、明らかに、石が2個、はっきり分かる。尿道から、カメラや機械を入れて、そりゃ痛いよ。ガマンするしかない。1時間はかかっただろう。バイパスを新たに作ったら、「ドカッ」と、尿が、噴出した。溜まっていた尿が、全部、出てしまった。熱が、7度7分まで上がる。こうして長い1日が終った。しかし原因がわかって、処置が出きたのは、幸いだった。もう1つ。外科の先生が当直だったから、病院で処置が出きた。もし、内科の医師が当直だったら、他の病院へ回されることになった。これも、大きな幸いであった。すべては、恵みに導かれていた、としか言いようが、ない。
2012年1月27日金曜日
第2陣、年長組23人。春から小学校だね。ゲンキで
幼稚園の年長組がやってきた。3年間、幼稚園にお世話になって、いよいよ春から小学校。「どこの小学校?」と聞けば、幾つもの学校に別れる。「聖コルベ館のことも忘れないでね」「質問、ある?」「①コルベ神父さんは、どこの幼稚園に通ったのですか」「②コルベ神父さんにお友だちは居りましたか」「③コルベ神父さんは絵が好きでしたか」。質問も年長組になると、しっかりしている。年長の方が話やすい。手ごたえがある。独居老人は「居場所があるか」「出番があるか」「日に何人と会話をするか」。こんな事情で問題になっている。それを思えば、ありがたい。聖コルベ館に居て、出番はある。頼りにされることだって有る。ほほえましい午前中だった。
2012年1月26日木曜日
訪ねて来るだけ、エライなあ。希望は失うなよ
神父さんのお勤めは大変です。精神的にも大きな負担がある。神父さんのお勤めの内容を詳しく述べる気持ちはないが、人間の力では出来ない。中には聖職を離れていく人も居るのも事実です。そのような人に対して、修道士の私の視線は厳しいものがある。なぜか、理由がある。それは私が司祭になろうと頑張ったが、長年の病気のため、道が断たれた。折角、いただいた聖職を離れるなんて、私に言わせれば、「意気地がない」「オトコじゃない」。これまでは、そうでした。ところが昨日、聖コルベ館の閉館まえに、1人の男性が飛び込んできた。「〇〇です・・・」と言った瞬間、私が、「ああ、〇〇出身の・・・」と、すぐ浮かんだ。彼も私を覚えていた。「トマさん」と気安くいう。「50年ぶりに来ました。すっかり変わっていてビックリ」。彼の頭は立派なシラガ、顔はテカテカ、いいカオ、している。私の心は一瞬に、なごんだ。彼を厳しく、しばることが出来ようか。私が誘って、夕食へ、普通はこんなサービスはしないのに、軽を運転して出かけた。注文の料理はきれいに食べた。昔のことは語らない。苦労ばなしをポツポツと。「教会へは行っている」。そんな彼を励まして、「人には、いろんな生き方もある」
2012年1月25日水曜日
来たーッ、第1陣、38人。かわいい祈りは天に届く
「皆さんは、どこの幼稚園ですか?」。小さな声で、「セイボのキシ幼稚園」「ボクの耳、年寄りで聞こえないよ」。今度は天井が抜けるほどの声で、「聖母の騎士ヨーチエン」。3歳、4歳の年少、年中組。子ども達を見て、一番気になるのは、気合が入っていないことだ。戦中育ちはガマンできない。修道士は幼い子どもを抱いたり、近づいたり、経験がないから、近寄り難いが、本当にかわいい。願うは「きれいな心、ゲンキなカラダ」。それだけ有ってくれたらいい。白、赤のカンムリみせて、「どっち?」と聞けば、きれいな心は赤いカンムリ、ゲンキは白といったが、どうやら何のことやら気持ちが通じなかったようだ。私の話も順序よくいかぬ。コルベ神父の部屋で、大きな声で、祈って、歌った。最後に「アメ」を2個づつ取らせた。この間、35分ほど。「ありがとう」。皆さんは大声で礼儀正しくお礼をして、喜んで、めずらしく雪がまう天候のなかを帰って行った。あとに寂しさだけが残った。
2012年1月24日火曜日
明日、幼稚園の子ども達が来る。さあ、待ってるよ
園長さんから「トマさん、幼稚園がコルベ館を見学に来ます。説明をよろしくお願いします」。幼稚園は聖コルベ館の隣の建物。子ども達は毎日、館の庭を、バスか、あるいは歩いて通っている。3歳、4歳、5歳の子ども達に、いま何を伝えるか。昨夜は夜中に目覚めたとき、考えた。今日は迎える準備。町に「アメ」を買いに行った。聖コルベ館を案内したあと、両方のカゴから1つづつ、自分で取らせているのが慣例。案内の話は覚えないが、お菓子をもらったことは記憶に残る。いつだったか、子どもと母親が入ってきて、「お菓子だけ下さい」と願った思い出もある。コルベ館だからコルベ少年の話もしなければだろう。いまの子ども達は何に興味があるか。ウソを言うな、ケンカをするな、イジメをするな、交通事故に気をつけなさい、野菜を食べよ、いろいろ有るだろう。愛といってもワカランだろう。結局、きれいな心、ゲンキなカラダ。仲良くすること。コルベ神父の白い冠、赤いカンムリを見せて、どっちが「きれいな心か?」と問えば、どう答えるだろうか。
2012年1月23日月曜日
尿の調子が思わしくない感じ。どうなるかなあ
尿が濁る。カスのようなものが出る。やっぱり気になる。行こうか、行くまいか、迷ったが、「黙っているより行動を」と、軽を運転して、高速にのって、大村市まで、約40分、計屋先生を訪ねました。知り合いの泌尿器科のお医者さんです。「計屋先生、お久しぶりです。最近、尿が濁るんです。カスのような、カタマリが、2個、3個と出るんです」。先生はウン、ウンというだけで、あまり病気の予測はしない。先生は、「細胞診と、カメラと、CTを定期的に調べておけば大丈夫」と。尿が濁るのは、ボウコウ炎らしい。ボウコウ・ガンは、2009年4月に発病した。今年の4月で、まる3年が過ぎる。ボウコウは再発が多いと聞いている。困ったもんだ。5年を過ぎれば安心という。とにかく細胞診が今のところ、1か2だから、幾分、安心はしている。再発するか、健康で居られるか、人間の力では、どうにも成らない。ああ、今日も終わったと、1日、1日が過ぎれば、それだけ痕跡を伸ばすわけだ。計屋先生は温かく見送ってくれた。
2012年1月22日日曜日
ガラスに映った自分の姿に、ギョッ、だね
冬のあいだは、早朝の祈り、夕方の祈りは、大きなガラス戸で仕切られた部屋、コールスで行なう。こちらが明るい。向こうは暗い。すると祈る私の姿がガラスに映るンんですね。自分の全身姿を見ること殆どないが、このガラスに映った自分の姿を見て、ギョっと、なる。そして色んな思いがこみ上げてくる。「こんなにオレは小さいのか」。ビックリするよ。「よく、まあ、こんなカラダで、ポーランドへ行ったり、海外旅行をしたもんだ」と感心。「こんな修道士の服を着ているが、中はスカスカ、ドロドロ、よく、まあ、それで生き延びたもんだ」と我が身を反省。「病気しても、まだまだ死なないぞ」と決意のほどを。昔は修道士を、平修士(ヒラ)と読んだ時代があった。いまは安売り修士だね。高くは売らないよ。でも祈り、信心だけは、コツコツと果たしたい。それでも、イヤなことを言われると、ちょっとはハラもたつね。修業が足りないと、ガラスに映った修士は、ボリボリ、頭を掻いている。
2012年1月21日土曜日
オヤ、尿に血が混じっているか。ヤバイぞ
「これまで病気で苦労した。それでも何とか、生きてきた。この歳になって、今さら、ジタバタしても、どうなるか」。気持ちは、そうだが「しかし、ねえ・・・やっぱり、気になるよ」。最近、尿がやたらと濁る。お医者さんは診察のとき、いつも大丈夫と言っている。それでも、カスみたいな、やわらかいカタマリが、3つ、6つと出るようになった。「いいのかなあ」。ところが今朝になって、カスのカタマリの端っこに、赤い血のようなものが付いている。え?と、ビックリしたよ。「これはヤバイ・・・」。大きな病院は土日は大抵休み。それでも電話をしてみると、「第3の土曜は診察している、来てください」の返事。軽を運転して、いつもの泌尿器科へ。お医者さんは、尿の検査後、「尿は前と変わりない。先月、カメラで診ているから、変化はないと思う。抗生剤を飲みますか」「いいえ、飲みません」「細胞診を出しておきます」。診察が終れば、気持ちが楽になった。「ジタバタしても、どうしようもない。成り行きに任せるか」。そんな気持ちで昼食を食べに行きます。
2012年1月20日金曜日
軽を運転して、市内の「ふくの湯」へ。気持ちも楽し
朝から、「行こうか、行くまいか」と、迷っていた。第3金曜日で、聖堂では、老人のため祈りがある。みんな一所懸命なのに、「オマエは、それで、いいのか」。でも、思い切って、軽を運転して、市内の山にある「ふくの湯」(写真)へ出かけた。露天風呂からは、長崎市内が180度展望できる。「おお、満足じゃなあ」と堪能していると、親友が1人、フロに入ってくるではないか。湯のなかで彼との会話がはずんだ。軽で、山をくだる。運転しながら、周辺を眺めると、老人ばかりが目につく。公園の花をボンヤリ見詰める男性、橋の欄干に寄り添って、新聞を広げる男性、とにかく老人ばかりが、なぜか目につく。そして思う。退屈しているんだな。それに比べて、聖コルベ館に居るだけで、多くの見学者に出会う身分の幸せを感じた。3年後、5年後の計画は立てない。1日、1日、生かされている感じで、毎日を過ごしています。夕方、新聞記者がゼノ修道士の話を聞きに来るという。「全部は説明しないよ。基本的なことは勉強して来なさい」
2012年1月19日木曜日
コスモスの写真の後、女性のご主人は亡くなった
人生、様ざまな苦しみがあるなかで、愛する人に死に別れるほど辛い試練はない。それでも聖母マリアでさえ、十字架のもとで深い哀しみがあった。京都の女性。私にルルドの水を頼んだが、愛するご主人は9ヶ月で神に召された。水が、人間の命を養う大切な流れであるように、ルルドの水は、聖母マリアさまの恵みをご主人に注いだに違いない。イノチに生かされた、と信じた。「あなたのご主人は、キリストさまの平和のうちに召されました。慈しみ深い神さまは、ご主人の優しい心と信仰を知っておられます」。私には、それしか言いようがなかった。言葉は言いやすいが、現実はきびしい。困難や病気に襲われたとき、『苦しみは神の喜びに変わる』と理屈的には考える。これは単なる言葉で、喜びを真に体験するのは極めて難しい。例え苦しみや痛みに責めさいなまれても、どん底にあっても、「ああ、神さま、苦しみが有る今こそ、あなたは私に御眼を留めてくださるのですね」と思うなら、感じるなら、それがホンモノの信仰であろう。人は神から出て、神に帰る存在である。私たちは、そう信じて生活し、生きてきた。神さまのお呼びが、いつ有るやも分からない。コスモスの花の説明に、「主人は毎年、秋になると、京都の亀岡にあるコスモス畑へ行き、何種類ものコスモスの花にカメラを向けるのが楽しみでした」とあった。ご主人の平安を祈っている。
2012年1月18日水曜日
季節はずれのヒマワリがナミダを流している
1つの原稿を書き上げた。騎士誌3月号のためで、2月10日頃、発行になる。3年ほど前、私が病気で落ち込んだとき、京都の女性から「ゲンキを出してください」と、ヒマワリの花の写真が送られてきた。ご主人が写真家で、このヒマワリも撮影したという。それから女性のことは忘れていたら、昨年、2011年4月に、また便りがあって、おどろいたことに「主人が側頭部に腫瘍が見つかって、抗がん剤の治療を行なっている。聖母の騎士のルルドのお水を送って下さい」との願いだった。ヒマワリの花のカードをカラー・コピーして、「祈っています」と水と共に送った。一筆添える。「ルルドの水は薬ではない。水の効果は分量ではなく、聖母マリアさまへの愛と信頼による。祈りながら神さまのお導きを願ってください。ご主人の回復を祈ります」。それから5月、6月、7月と水をつづけて送った。「主人はお水を大切に飲みながら、仕事にも復帰し、病巣も少し小さくなった」とあった。ところが9月以降、女性から便りが来なくなった。12月半ばに、心配して、お水を送ると、すぐ返事があった。クリスマスの直前だった。「主人は68歳で神に召されました。亡くなる前に、洗礼のお恵みを頂きました。お水が着いたのは葬儀の翌日でした」。4月に手紙をいただき、12月に神に召される。あまりにも早すぎた悲しみに、私の心は小刻みにふるえた。私の机の上の「ヒマワリ」がナミダを流している。(つづく)
2012年1月17日火曜日
ズバリ、ひと言。心に残る。修道士のマトを得た言葉
共に祈る仲間の修道士。フラテル(兄弟)と呼ぶ。祈りも一緒。食事も一緒。その一緒の兄弟が、老年になり、歳をとったというので、老人ホームへ入った。昨年の11月に、テストとして入居し、その間、市役所へ手続きをしたが、ついに正式に入居が決まった。修道士の生活一筋、60年。偉いモンですね。黙々として、掃除をしたり、食器を洗ったり、働く修道士は光っていた。時おり、ズバッと言って、みんなを引き締める。食事処では私の隣の席だった。ある年のアシジの聖フランシスコの祭日だった。司祭が、説教で、滔々(とうとう)とフランシスコについて20分ほど語った。しかし申し訳ないが、さらさらと流れて、心に残るものは無かった。昼食のとき、何かのキッカケで聖フランシスコの話が出た。「私は、こう思うんですよ」と、隣の修道士が口をはさんだ。「貧しさ、それは問題でないんです。フランシスコが望んだのは、神への愛、『我が神よ、我がすべてよ』。これですよ」。ズバリ言った。みな笑ったが、このひと言、たった30秒の説教は、私の心を揺さぶった。『我が神よ、我がすべてよ』。その真意は何なのか。体験の心境はどんな事なのか。疑問が湧いた。疑問の湧く話には、手応えがある。その30秒の話は、フシギと翌日まで余韻を残していた。いや、もう10年ほどになるのに、彼が老人ホームへ去っても、いま思い出す。
2012年1月16日月曜日
年賀でつながる縁。リッパに生きて花を咲かせよ
数ある年賀状のなかで、嬉しかったのが、左側の1枚だ。東京の中学生から届いた賀状だった。名前は「健晴くん」といったな。彼が小学6年生のとき、長崎へ修学旅行へ来て、私に出会った。右がその時の写真です。この学校は、東京でも名のある小学校。伝統がある。その皆さんに話を頼まれ、出会うようになって、15年ほどになる。私の本、「長崎オラショの旅」も全員が購入して、読んでくださる。ありがたい。130人ほど来るが、そのなかの1人、健晴くんが、「小崎サンに、どうしても会いたかった」と、話の後でアクシュして写真を撮った。あれは2年前のことだった。今年も年賀をもらって嬉しいよ。今朝、ラジオの深夜便で、「幼児のころ養子になって、成長して初めて真相を知り、子どもも親も苦悶する」話を聞いたが、そのとき、とっさに思ったのが次の言葉だった。『人は、誰から生まれたか、問題でない。どのように生きたか、これが問題だ』。すぐメモした。今年も、東京の学校から話の依頼があったから、これを話そう。この学校の子ども達は恵まれた家庭に育っていると予想されるからね。「どのように生きるかが問題だぞ」
2012年1月15日日曜日
欠点を治す方法を教えます、と47年前に書いた
修練の古いノートを数冊残している。懐かしく、その1冊をあけて見た。ミロハナ神父の講話の記述である。1964年8月から65年2月までの講義。ミロハナ神父には私が若い頃、ホントウにお世話になった。恩義は今も感じている。修道士になって、服を着ても、自分が聖成に進むわけではない。リッパな師匠について修業にはげむ。師から導かれて徐々に聖化する。教えを請うことが足りないと思う。ミロハナ神父は、礼儀作法から、マリア信心、聖成、欠点まで口述し、鍛えた。若かったから付いて行ったんだなあ、と思う。64年9月10日の講義に、「聖成と欠点」とある。欠点とは、悪を習慣的に行なうことで、様ざまな欠点は、種類は多いが、結局、ゴウマンの1点に集約される、という。祈りの散漫、目上への不従順、むやみに立腹、不機嫌、モノへの執着、食欲、性欲、人の足を引っ張る、不摂生など、欠点はみんなゴウマンの子どもですという。神に従わないこと。すべてのツミの親はゴウマン。「欠点を治すには、けがれない聖母を通して、信頼をもって、神の恵みを求めること。それと治したいと望みを持つことが条件です」と教えた。歳は取ったが、欠点はいつまで経っても残る。失望してはいけない。人間を律することは、何10年たって世の中が変わっても、不変。ミロハナ神父さんが亡くなって、もう23年になる。ノートだけが今も残っている。
2012年1月14日土曜日
独居ろうじん、わびしいなあ。飛びます、飛びます
テレビで、独居ろーじん、を見た。かわいそう、同情するね。遺品整理のビジネスが繁盛しているそうな。自分で、ボツ、ボツ、意識して、整理しています。残されたモノはゴミだからね。とにかく今の興味は、生きること。そのためには尿がキレイであること。生きる安心、それが基本です。今年の目標は何ですか。1日1日を生きることです。「生きる」ことに興味がある。そのためには『勢い(イキオイ)』ですよ。これがないと飛べない。3段飛びや、ヤリ投げでも、手前から走って勢いをつける。生活にも勢いが必要です。老いることは、勢いが無くなること。私はアタマを横にふる。そこで、「飛びます、跳びます・・・」で、毎月、オバマに通っている。写真はオバマの定宿『富士屋』さん。島原半島にある温泉です。ごらんの通り小規模で、家族的なサービスが特徴です。自分で軽を運転して、トコ、トコと、通っている。毎月の楽しみだね。水をささねいでくれよ。オバマから帰って、その夜、夢を見た。着物の下は肋骨むき出し、骸骨だね。男が近づいて、どっちが固いか、手をにぎって、アクシュしてみよう、という。やったよ。あっちが強かった。だが夢の中の私はすぐ言ったね。「オレの手の握力は弱いか知れないが、それは物理的で、オレの手は様ざまな体験をして、内容が負けない、リッパだぞォー」。骸骨めは、シッポまいて消えてしまったよ。
2012年1月13日金曜日
温泉で地面が暖かで、カラダ温もり、ココロも和らぐ
オバマ温泉の朝の風景です。向こうは海です。湯の白煙があがる。オバマの温泉は105度。だから105mの足湯がある。地面が暖かいから、寒さを感じない。「いいところですよ」。さて、この度は、温泉でゆっくり独りで、3つのことを考えました。①なが生きすること。イノチは神さまのことですから、お任せするが、健康には気をつけよう。食べ過ぎないこと。②祈りを守ること。昔の繁栄の修道院を知っていますよ。ミロハナ神父さんの時代です。祈り、修徳、犠牲で鍛えられた。あの頃がよかったなァ。いま人も少なくなり寂しいですよ。でもコルベ神父の遺産は絶やすな。朝、夕の祈りのお勤めだけは私は頑張ります。③コルベ館での出会いを大切にすること。出会う見学者と、いい雰囲気をつくると、いい恵みも生まれる。人の記憶はいつまでも残る。「ああ、コルベ館に行って、良かったなあ」。これだよ。「なにか私に出来ないかなあ」。希望をもって、オバマを明るい気持ちで出発した。長崎へ帰ると、部屋の温度は10度だった。
2012年1月12日木曜日
フランシスコ中村修道士さん、91歳になる健在
オバマの宿は昼めしが出ない。軽を運転して、1時間ほど走る。県内の湯江・老人ホームを見舞った。司祭、1人。修道士、4人がお世話になっている。その中の1人、フランシスコ中村修道士さんはお元気で、今年は91歳になるのに、杖なしで、歩いて、私を見ると、「トマさん、イァー」と手をあげた。14歳で聖母の騎士へ。コルベ神父さんからアタマを撫でられ、ヒゲでこすられ、かわいがられた。聖人だからその思い出は貴重なタカラ。私とフランシスコさんの最初の思い出は、戦争中に、病みあがりの私は15歳。ミロハナ神父さんの言いつけで、フランシスコ中村さんから下宿を探してもらった。浦上天主堂のすぐ下の洋服屋さん宅だった。戦争だから、食事なしで泊まるだけ。しばらく厄介になったが、その後、母と岡町で暮らした。原爆で、その洋服屋は燃え尽きた。フランシスコさんの印象は優しい修道士。聖母の騎士修道院の受付で、フランシスコの優しさと、コルベの愛を周りの人たちに与えた。老いても、オーラはあるなァ。心慰められるドライブとなった。
2012年1月11日水曜日
ひとりになって考える。タメになります。ありがたい
オバマ温泉に来ています。軽でドライブへ出かけた。いい風景なので、カメラを向けた。左の薄い山が、雲仙・普賢岳。噴火して、火砕流がこの川を流れて、多くの市民が犠牲となった。右は島原の眉岳です。島原って、ホントウにいい所です。走っていて、温暖さが分かる。この度はオバマの定宿『富士屋』さんに、3泊4日を過ごします。時おり、思うんですよ。「自分のジンセイ、これで良かったのか」ってね。答えは、「バーカな・・・オマエの本を読め」。そう思うと、パっと、明るくなった。ニンゲンって色々迷うもんですね。98歳の歳よーりの修道士に聞いたら、「ダビデも悩んだ、ソロモンも悩んだ。だが神のみせつりだった」と答えた。道は1つしかない。ニンゲンは小さな存在です。山よ、大きいな。自然は深遠だな。
2012年1月10日火曜日
会食の席で感じた2つのこと。落ち込むな、上がれ
挨拶がニガ手。どうしても、うまく、まとまらない。今度も満足しなかった。従姉(86歳)のご主人が亡くなる。修道服を着て、通夜、葬式で祈り、火葬場へも同行した。その後、会食があった。従姉とご主人の間に、子ども6人と、孫、ひ孫、合わせて40人が集まった。当然、食前の祈りの先唱を指名される。簡単に「修道士の自己紹介」と、「主よ、この食事を通して、私たちにアスへの恵みを与えてください」。それだけでいいのに、うまく舌が回らない。後に後悔が残り、申し訳ない気持ちになった。「ダメだな、心しても、やっぱりダメだ」。私の席は、従姉の隣。めったに会わない従姉が言った。「幸ちゃん(私のこと)が6歳のとき、朝鮮からお母さんと浦上へ帰ってきた。バアちゃん(従姉の母、私の母の姉さん)のところへ来て、幸ちゃんが、ウチ(バアちゃんや従姉の家族)のことを手製の新聞に作って、戦地へ行っている兄へ送って喜ばれた。バアちゃんが言ったよ。幸ちゃんは、ヨカ(いい)アタマば、しとる」。結局、何らかの文才があったということだ。この話は私は覚えないことであった。初めて、この席で聞いて、「ああ、よかったな。思い出が1つできた」と喜んだ。この日、挨拶はダメでも、ヒカルものは、やっぱり有った。ジンセイって、こんなものですね。
2012年1月9日月曜日
北海道の夫妻よ。ゲンキでな。また来いよ。
「え?北海道から来たの。遠いなあ」。長崎から北海道は遠い感じ。「前にも来たこと、ある。ブログに載せてもらった」「え?そうなの」。調べて見ると、昨年の1月に、有った。たったの1行、それでも夫妻は喜んでいる。「ブログ、読んでます」。ブログを読む人、騎士誌を読む人、私の本を読む人、こんな人が来ると、そりゃ親しみを感じますよ。私が「ニンゲン、生きる為の大切さ、なに?」。46歳、ダンナはアタマを掻いて「自分の無知、無力さを感じること」。38歳の妻は「自分、独りじめでなくて、いいこと、分け合う。相手を大事にする心です」。私が更に「長崎を周って、なに思う?」。ポン、ポンと、質問する。主人「コルベ神父、こういう人が居たんだな」。妻「迫害があっても殉教する人、信仰がつよい。とても自分には出来ない」。妻が信者。ダンナは教会まだ。去年は外海。今年は島原。時間がゆっくり有るというので、48分間のビデオ『生かされて(修道士の半生)』を見せた。その後、私と3人で、聖コルベ館で弁当を食べた。夫妻は恐縮している。「いいんだよ」。いろんな見学者が来るが、すーっと入って行ける人と、ただの説明で終る人と、出会いは様ざま、ご縁も様ざま、その辺の成りあいが楽しい。
2012年1月8日日曜日
ポーランド語の『焼けたロザリオ』出版なるか
ちょっとした好意が、善意を呼ぶ。昨年6月頃、ポーランド人の父親と息子17歳が聖コルベ館へ来た。息子が、マンガ『焼けたロザリオ』を手に取って、「お父さん、これ欲しい」。すると父は「いま売店で、オミヤゲを買って、お金をみんな使ってしまった。お金ないよ」。そこで私が、「ああ、いいよ。あげるからね」と、マンガを息子に送呈した。息子が絵を見て、なにやら感激する。父親も絵を見て、何かを感じた。父親は出版社に勤めており、名古屋に機械を買いに来たのだった。昨年は聖コルベ殉教70周年だったので、時間をつくって長崎の聖コルベ館へ足を伸ばした。そのおかげで、私がプレゼントしたおかげで、漫画『焼けたロザリオ』に気持ちが乗った。ポーランドからメールがきて、『焼けたロザリオ』をポーランド語に訳して出版したいという。先日、ポーランド語の訳が完了し、原稿が送ってきた。ポーランド人のシスターが読むと、とてもリッパに翻訳している。完璧な訳だった。これから正式に出版許可を願うという。今年は、これがポーランド語で出版されると、記念の年になる。うれしい。「ああ、いいよ、持って行きなさい」が良い結果を生んだ。メデタシ、めでたし。
2012年1月7日土曜日
おお、アメリカ青年、ドッキリじゃないビックリだよ
アメリカから青年がやってきた。私の名前を書いた紙を持っている。「カトリック教会で一緒の真理子さん、何年前、聖コルベ館へ来た。小崎サンに会った。私、日本へ休み行く、ここへ行きなさい。それで来た」。青年は2年間、日本語を習った。少し話す。「ホテルはどこ?」「長崎駅のところ。歩いて、ここへ来た。歩く、自信がある」。日本は初めてだそうだ。大学で勉強している。仕事は庭師といった。ミカン2個とドラ焼きを食べさせる。喜んだ。デジカメで、鹿児島の回遊、桜島、ザビエル教会などを見せる。鹿児島は真理子さんの古里。「妹さんに会った」「アメリカから日本往復、ハウ・マッチ?」「1084ドルです」と教えた。「日本に来ての印象はどうか?」と聞くが、通じない。結局、答えはなかった。滞日2週間で、帰るという。「アメリカから小崎サンと訪ねてくるのは嬉しいじゃないか」「友だち、ドッキリよ・・・」「ドッキリじゃない、ビックリだろ」「ハイ、そう、そうビックリしていた」。真理子さんへメールを送った。
2012年1月6日金曜日
映画を見に行く。なぜ日本は戦争に踏み切ったか
太平洋戦争が始まったとき、13歳であった。よく覚えている。カリエスを病み、大学病院の病室に居た。「バンザイ、万歳」と喜んだ。戦争が終ったとき、17歳だった。アメリカ戦は4年間つづいたわけだ。その間、ルーズベルト・アメリカ大統領が急死したとき、ものすごく湧いた。海将・山本五十六が戦死したとき、「ああ、もうダメか」と落ち込んだ。はっきり覚えている。映画を見に行った。日本の飛行機がハワイの海に浮かんだ多くのアメリカ軍艦に魚雷を「ドカン」「どかん」と落としたとき、思わずハクシュした。なぜなら、あの真珠湾攻撃の魚雷は、長崎の三菱兵器で作った爆弾で、私はその工場で、魚雷の安定器の部品を作っていたからだ。ハクシュした後、手で目がしらをこすって思った。「人間は自分のこと、自分の国や民族だけ、平和を考える。イヤなことだ」。日本が戦争を始めたのは、日本に資源が無いからだと小学校の先生は教えた。映画では「日本海軍は戦争反対だった」という。真珠湾攻撃をしたとき、山本大将は「アメリカに開戦の通知をせよ」とこだわった。「武士は、闇討ちをしても、最初は、枕を蹴(け)っ飛ばす・・・」
2012年1月5日木曜日
2011年の入館者は、4.456人だった。減少
聖コルベ館の1年間の入館者は、これまで一番多かった年は、7.000人ぐらいの見学者があった。平成23年の入館者は、東日本大震災・原発事故の影響か、減少した。4.456人であった。特に韓国人の見学者が、1月、2月は多かったが、好調だったが、原発事故を恐れて、パッタリ来なくなった。ホントウに見事に途絶えた。昨日、やっと「アンニョ、ハセヨ」と、今年初めての韓国人見学者が来た。韓国から7人の司祭たちだった。ミサをささげ、ゆっくり聖コルベ館を見学し、ルルドへ登った。巡礼の気持ちで来る人たちは大いに歓迎する。1人の神父は、感想をのべた。「韓国から最も近い日本で、イノチを捧げた聖人がいる。すばらしいことです。私も白いカンムリ、赤い冠をめざして、神さまに奉献したい」。そして今日は、いま、韓国人巡礼者がドヤドヤと、80人やってきた。予告なしに来るので、あわてる。通訳に対して、いろいろ不満があるが、とにかく韓国と日本は仲良くして行きましょう。カトリックの信仰は同じです。神さまを愛し、隣人を愛し、コルベ神父のような命をささげる愛をめざして努力しよう。
2012年1月4日水曜日
外海・黒崎の信徒・福祉活動は、ささやかに60年
昨日は黒崎へ行ったが、キリシタンの里に行くのは、信仰面で喜びがある。田舎の信者たちが、現在、どのように信仰を守っているか。先祖から受け継いだカトリックは消してはならぬ。活力を貰いたい。そんな気持ちで行った。奥さんの見舞いの後、昼食は福松さんの家で食べた。店から皿ウドンを取ってくれた。家では牛肉テンプラを揚げた。白身の魚のミソ汁も、おいしくいただいた。食べながら福松さんがビルマ戦線の出来事や、イノチ拾いした実話などを聞く。また黒崎の信徒の活動で、福祉の「ヴィンセンシオ会」の話を聞いた。終戦直後に、1950年2月12日に、長崎・浦上信徒のヴィンセンシオ会の片岡弥吉先生が来られて、黒崎に創立された。福松さんなど最初のメンバーは3人。今では福松さんだけが残る。あとは天国へ。それでも活動は若手会員に引き継がれ、現在も7人が活躍中。すばらしい愛の実行がつづく。こんな田舎で隠れた愛徳行為に感心する。黒崎教会を中心に、へんぴな田舎の病人や老人を励まし、ささえつづけ、90歳以上の家庭訪問を行なっている。福松さんは88歳、彼がこの年で、老人たちを見取っているのは素晴らしい。福松さんは毎日、朝夕の祈り、ロザリオを唱える。いまは奥さんが入院なので、1人で祈る。週に2回は朝ミサで祈る。ああ、こうした祈りが黒崎にある限り、カトリックは消えない。若いヒトたちよ、子どもさんよ、祈りと要理を忘れたら、ダメよ。
2012年1月3日火曜日
父親の里、外海の黒崎へ。親戚の見舞いに
軽を運転して、長崎から約30km、海辺の村に入った。父が生まれた村・外海の黒崎だ。子どもの頃は、この海で泳いだことだろう。白い建物が見える。地域の病院だ。親戚の女性が入院している。転んで足を骨折した。もう2ヶ月ほど動けない。見舞いに寄った。「ああ、顔もツヤツヤして元気そうね」。まだ歩けないから不自由だ。昭和3年生まれで、タツ年といった。私と同じ歳だ。4階病室の窓から、山手に自宅が森のなかにある。主人の福松さんが、1日2回、午前と午後に下りてくる。夫が、森を出て、歩いて山道をくだってくるのが見える。夫の姿をチラチラ見ながら、妻は楽しみにしている。森に私が電話をかけると、「おお、来るからな」と、黒い服が下がってくるのが、ホントウに良く見えた。10分もすると、病室に黒コートの老人があらわれた。1月11日が誕生日で、88歳、米寿を迎えるという。妻の病人は、夫が持ってきた手提げから、タオルを2枚抜き取った。しばらく時間を過ごしたあと、福松さんを軽に乗せて、自宅へ行った。ここで父は生まれた。もちろん昔の家はもうない。ただ、おんじゃく石(外海地方の独特の石)の石垣だけが残っている。
2012年1月2日月曜日
元日に来た母と娘が、今年、最初のサインを記した
資料室の「聖コルベの部屋」に、サイン帳が置いてある。2006年から書き始めたサイン帳が、大晦日で、余白のページがなくなった。新しいサイン帳、13冊目を置いた。「さあ、元日に誰が見学に来て、このノートに最初にサインするか?」。私の楽しみ。ところが待っても、待っても、元日に誰も来ない。これも震災の影響か、不景気なのか。「ああ、もうダメか」と、あきらめていたところ、閉館5分前に、母と娘が入ってきた。「おお、よく来たね。どこから?」「東京です」。早速、部屋へ案内して、サインをさせた。「よかったなあ、あなた方が、今年、最初のサイン者です。マリアさまのお恵みあるよ」。そう言われて2人も喜んでいた。「コルベ神父、知っている?」。娘は「幼稚園のとき、絵本でコルベ神父さまの話を聞いた。それを忘れず、来ました」。お母さんは「長崎は始めてです」。母がレンタカーを運転して、平戸・長崎・天草をまわる。長崎の駐車場でライトを点けて駐車して、バッテリーが上がったトラブルもあった。「それでコルベ館に来るのが遅くなった。見学ができて良かった」。私は2人を黒の長椅子に座らせ、少し話した。「7歳で父、病死。17歳で母、原爆死」と言うと、娘が「私も17歳」。いま働いている。母に聞いた。「昨年を1字の漢字で表すと、何?」。母いわく「悟(さとり)です」。人生、いろいろ有るなと思いつつ、私は母に、「コルベ神父は家庭の保護者です。祈りなさい」。そして「私は今年84になるが一番大事なのは、愛といのちだよ」と力説した。「舟を沈没させないようにね」。すると娘さんが言った。「舟の底に小さな部屋を作っておくといいです」。話し込んで、私は祈りに遅れた。別れしなに「日記に載せるからね」。今朝、サイン帳を見たら、娘さんは「今年も楽しく生きられるように見守ってくれたらいいなあ」。母は「神父さまにお会いしたかったです」
2012年1月1日日曜日
2012・平成24・タツどし・明るい1年にしたい
新春、おめでとうございます。例年通り、夜中、聖堂で感謝のロザリオ、つづいてミサの祈りで新年を迎えました。「生かされている喜び」を感じました。聖コルベ館は無休です。理由は2つ。修道士がここで生活しているから。休みだと見学者が、がっかりするから。元日だもんね。御とそを、いただきました。「瀧神父さん、ついでよ」。オレが先輩だよ。タツ年生まれだからね。御とその後、ふと考えた。「ニンゲン、笑って暮らせたら、いいね」。赤ちゃんは生まれて、何にも学習しないのに、「ニコリ」と可愛いく笑います。もちろん修道士のそばに赤ちゃんは居ないから、さわれませんが、感触はないが、写真など見ると、ステキな笑顔だよね。純真で、ニコッと、頬がふくらむ丸い顔。なぜか正月早々、笑いは、いいな、考えます。どうしたら、もっと笑えるか。笑いの本、哲学書があったら貸してください。テレビ芸人が、懸命に動作や言葉で笑いを起こそうとして苦労するが、ありゃ笑えないね。「笑う神さまって、どこかに居るんでしょうか。神さまは笑いはキライなんでしょうか」。しかめっツラ、ニガミつぶした顔よりも、笑って暮らしたい。御とそを飲んで、あれ、あれ、酔っ払ったかなァ。明るい1年でありたいです。