太平洋戦争が始まったとき、13歳であった。よく覚えている。カリエスを病み、大学病院の病室に居た。「バンザイ、万歳」と喜んだ。戦争が終ったとき、17歳だった。アメリカ戦は4年間つづいたわけだ。その間、ルーズベルト・アメリカ大統領が急死したとき、ものすごく湧いた。海将・山本五十六が戦死したとき、「ああ、もうダメか」と落ち込んだ。はっきり覚えている。映画を見に行った。日本の飛行機がハワイの海に浮かんだ多くのアメリカ軍艦に魚雷を「ドカン」「どかん」と落としたとき、思わずハクシュした。なぜなら、あの真珠湾攻撃の魚雷は、長崎の三菱兵器で作った爆弾で、私はその工場で、魚雷の安定器の部品を作っていたからだ。ハクシュした後、手で目がしらをこすって思った。「人間は自分のこと、自分の国や民族だけ、平和を考える。イヤなことだ」。日本が戦争を始めたのは、日本に資源が無いからだと小学校の先生は教えた。映画では「日本海軍は戦争反対だった」という。真珠湾攻撃をしたとき、山本大将は「アメリカに開戦の通知をせよ」とこだわった。「武士は、闇討ちをしても、最初は、枕を蹴(け)っ飛ばす・・・」
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