2015年5月31日日曜日

長崎・聖母の騎士ルルド祭で祈る。残念、登れない

沢山の聖母マリアさまを讃える人びとが集まって、祈り、ラテン語の「キリエ」「グロリア」などを歌った。前日の雨のため、ルルドの芝生がぬれている。ロザリオとミサは聖堂でおこなった。司式は、今年、司祭叙階50周年、金祝を迎える瀧神父さんが勤めて、お説教もなさった。ミサ後、赤尾院長さんが、修道誓願金祝を迎える松下修道士と、わたしを、皆さんに紹介してくださったのは、ひじょうに嬉しかった。★ルルドの聖母マリアさまのところへ登る気持ちは山々あったが、足がよろめき、ホームからも10人あまりが参加したので、果たさなかった。いつの日か、登り、祈りたいと思う。ルルドのマリアさま、ごめんなさい。原爆死をした母親が、15歳のわたしを連れて行って、マリアさまに委ねたのが、この道の始まりであった。わすれることは出来ない。17歳で、聖母の騎士に入学して、70年。誓願を立てて、50年だから、20年間は、さまよっていたわけだ。50年の修道生活のなかで、一番の思いは、コルベ神父が聖人になったことであった。聖人になったことで、聖コルベ館が出来たが、50年の半分、24年間は、聖コルベ館のお勤めを果たす恵みをいただいた。これが、すべてです。マリアさまは、わたしに御目をかけてくださるでしょうか。くださると、ただ信じています。今夜は、ゆっくり眠ります。

2015年5月30日土曜日

あした、天気に、なあーれ。もう1度、仰ぎ見られるか

毎朝、5時に起きて、教会で、共同で朝の祈りを唱える。6時からミサで祈っています。ところが、きょうはホームでは、もう1つ、10時から「礼拝の日」といって、ホームの希望者が集まって、ミサが行なわれた。司祭は言った。「自分がここに着任して、数年になるが、多くの人を見送った。きょうは、園で亡くなった人たちのために祈りましょう」。亡くなった人たちを想い、冥福を祈る。「自分たちも、いつかは、その日が・・・くる」と思う日でもあった。ホームに居ると、自然と、神さまと出会う日が近いのを意識する。生かされているうちは、立派に生きることを大切にしよう。いのちの大切さ。生かされている恵み。人と擦れ合う喜び。考えは、当然のことながら、祈りにつながっていく。★5月は、晴れの日々がつづいた。庭のアジサイも写真に収めた。明日は、いよいよ最後の日曜日で、長崎・聖母の騎士のルルド祭になっている。ぜひ参加したい。毎日、歩く限度は、2.500歩ぐらいです。歩けるか。でも参加したい。最後かも知れない。最後に、しっかりと、ルルドの聖母マリアさまを見ておきたい。祈りたい。母のため、父のため、支えてくださった人びとのため。登れるか。足、ヒザは痛い。からだは、フラフラする。ところが天候がくずれ出して、朝から小雨が降っている。どうなることやら、心配している。ルルドの聖母マリアさまを、もう1度、仰ぎ見られるだろうか。これまで親しんだマリアさまを。

2015年5月29日金曜日

生かされているのが基本だが、生きる負の荷もある

朝食が終わると、すぐ入浴があった。介護のヘルパーさんの世話になる。お手数かけて、すみません。風呂に入ると、自室は風通しがいいので、つい、うと、うとと、眠たくなる。★午前中、園内の廊下を散歩する習慣だ。1階と2階を回れば、結構な歩数になる。廊下の途中にソファーがあって、新聞、雑誌が置いてある。時には、近くの部屋の女性たちと話し込むこともある。一番の高齢者は、98歳のカトリックの女性で、足腰しっかりしていると聞いた。うらやましい限りです。★自室に戻ってから、パソコンに向かう。午前中に、何かを書きたい。昨年の今頃は、何を書いているのか、長崎の白浜さんが届けてくれた「トマさんの日記」(「A4」紙に起こしてファイルに収めている)を開けてみた。いつぞや、鹿児島から長崎へ来たついでに、ホームに訪ねてきた女性がいたが、ちょうど1年前の5月に聖コルベ館にも来ていた。そのとき女性が言うには、今でも覚えている。「神は愛である。この言葉が好きです」。しっかり、強調していた。★「神は愛なり」と言えば、昨日の日記に、大槻霊父のバラを載せたが、思い出した。聖コルベ館に、この教団の信者が巡礼に来ると、彼らの一行は、「コルベ神父の居室」に入り、祈りを始める。その後、皆さんが一体となって、「神は愛なり」「神は愛なり」と唱えだし、それだけの言葉で、ますます声が高潮し、涙も混じるような、大きな信仰の体験となるのだった。信仰の感動は、こうした積極性にあるのかも知れない。「神は、愛なり」。深い言葉です。言い易くて、悟り難い。きょうは午前中に、そんなことを考えた。信仰の基本ですが、わかるには特別なお恵みがいります。

2015年5月28日木曜日

「火事です。急いで、逃げてください」。避難訓練です

ホームには広い庭がある。環境に恵まれている。午後、しばしベッドに横になった後、庭を散歩します。歩くことの大切さを痛感する毎日です。出会った人は、約1時間、毎日、雨が降っても散歩している、と平気で言う。そこまでは、とても、とても就いては行けぬ。★散歩から自室にもどって、しばらくすると、突然、けたたましいベルが園内にひびきわたった。「調理場から出火です」「こりゃ、大変だ」「皆さん、非難してください」。職員が慌てて駆けつけてくる。調理場は、自室の廊下をへだてて、すぐ前です。火元と同じだ。職員が大声で、「すぐ逃げてください」。皆さんは、この庭へ集まった。車椅子の人もいる。杖の人もいる。★久しぶりの非難訓練だった。最近はニュース・報道でも、火事による災難が多い。「何よりも火元の注意。火事を出さないこと。タバコ、電気のコンセントなどが恐ろしい」。訓練は必要でしょう。皆さん、1階、2階の全員が集まった。1人、1人、名前を呼ばれて、居るか、居ないか、確認する。集団の生活は、火事、インフルエンザ、食中毒などが恐ろしい。最も注意しているところです。

2015年5月27日水曜日

聖母の騎士アンネのバラ」ものがたり。平和バラの花

2日前に、アンネのバラを載せたところ、ルチアさんからコメントが入っていた。「聖母の騎士から戴いたアンネのバラは、実家に、見事な大木になっている。きれいに沢山の花を咲かせている。亡くなった父が、ていねいに育てたバラです」と教えてくれて、ありがとう。聖母の騎士のアンネのバラは、モトを正せば、アンネのお父さん、オットー氏(91歳で、1979年に亡くなった)から、いただいたバラということになります。そのいきさつをお教えしましょう。★京都の大槻霊父夫妻(写真・右)は、1980年前後の頃、コルベ神父を慕って、度々、長崎・聖母の騎士に巡礼に来ていました。大槻霊父は、キリスト教団『聖イエス会』の創立者です。京都に本部や神学校がある。その場所を訪ねました。1982年頃です。大槻霊父の部屋には、無原罪の聖母マリア像が置かれていた。帰りしなに戴いたのが、バラの苗です。「コルベ師の庭に植えてください」。アンネのバラでした。★1971年頃、教団の合唱団が渡欧コンサート旅行の際に、イスラエルのレストランで、偶然に、アンネのお父さん、オットー氏に出会って、苗木をいたく約束をした。大槻霊父は言われる。「1ヶ月以上の輸送のため、苗木は褐色化して枯死寸前だったのです。それが10株のうち、1本が奇跡的に甦り、見事なバラが咲きました。日によって色が黄金色からピンク、紫と変化し、甘い香りを漂わせます。アンネのいのちの再現、犠牲の花ですよ」。小さな英雄アンネも、愛の聖者コルベ師も、アウシュヴィッツで多くの苦しみを受けた。平和を願い、戦争を憎む少女のこころも、偉大なコルベ神父のこころも、根底は同じです、と大槻先生は強調していた。「愛に死ぬのは、誰にでも出来ることではない。十字架のキリストに生きることによって可能となる。わたしは教団の信者に、聖母の騎士巡礼を勧めています」

2015年5月26日火曜日

応援してくださって、ありがとう。有るのは、未来

元気にしておりますが、ブログを書くのが遅くなりました。先日、山茶花・高原へ行ったときの写真です。考え事をするのに、アタマが弱くなりました。87歳の老人が毎日、ブログを書く。昨日は、188
人の方が見てくださった。どうして、こんなにも読んでくださるのか、自分でも、わからない。特別、肩書きがあるわけでない。主張があるわけでもない。書いている内容も平凡なのに、目にとめてくださる人がいるから自分でも、ふしぎです。★わかりました。発信を待っていてくださるのも、あるでしょうが、応援してくださっているのだろう。ありがたいことです。ホームに居ても、がんばりなさい、そう支えてくださっているのだろう。★昨日、「皆さん、幸せですか?」の問いかけに、即答して、「幸せです」と、ちゅうちょでず、間をおかずに声をあげた女性があった。考えましたよ。「幸せ、とは何か。どの状態のときに、言えるのか」。自分が置かれた状態を受け止めて、精一杯を、生きる。改善するところも、あるでしょう。しかし、どうしても変えられない現実も、この世には、あります。

2015年5月25日月曜日

バラが咲いた、の歌から、アンネのバラを想い出した

園内放送で、「コールスがあります。集まってください」。結構な人が集まった。タオルを使っての軽い体操から始まった。「もし、もしカメよ」の歌に合わせて体を動かす。タオルにも、いろんな使い方がある。次は、コールスといっても、思い思いに声を出して、歌えばいいのです。来月は、父の日がくる。なにやら出し物もあるようです。それにちなんでか、「バラが咲いた」を歌いましょう。それから「茶摘の歌」。次は、「皆さん、幸せですか?」と呼びかけた。すると、「ハイ、幸せです」と、即答があったのが、よかった。「では、幸せなら・・・手をたたこう。肩たたこう。足ならそう。両・隣の人と、両手を結びましょう」。皆さんは楽しそうに、励んでいた。中間に、ヤクルトのおやつも出るので、人気もあります。約40分の集会でした。★自室に入って、パソコンに向かった。何を書こうか。「バラが咲いた」を歌ったね。そう、「アンネのバラ」を思い出した。アンネのバラは、黄色から、ピンク、赤色と、色がかわる魅力のバラです。長崎・聖母の騎士のルルドへ登る、ロザリオの玄義に植えたバラです。歴史は古く、1982年に写したバラの写真です。今でも、当時の経緯(いきさつ)を書いた資料を集めたアルバムを持っております。

2015年5月24日日曜日

人は見ていなくても、見ている御方がおられる

廊下を歩く。職員に会うと、「お疲れさま」と声をかける。廊下を歩くのは、午前中の日課です。階段から2階に上がると、廊下が明るくなる。廊下に添って、カウンターがあり、マリア像が立っている。「パッと、目についた」。前方、押し車の女性が、腰をまげながら、マリア像の前に手をつきて、ジッとして動かない。なにやら祈っている感じがする。しばらく立ち止まって、眺めた。何を念じているのか、わからない。カトリック信者なのか、そうでないのか、わからない。だが感動しますよ。ただ、黙して祈っている。「誰も見ていない」と本人は思っているが、静かに、うしろを通り過ぎた。隠れたところを、見ている人がいる。マリア像の足元には、かって、このホームで働いていた司祭とシスターの小さな写真が置かれている。腰をまげて、黙して祈る姿は、いまも印象的に残っている。見ていない所にも、こころ温まる光景がある。「目を与えた方が、見ていないことが、あろうか。耳を与えた方が、聞いていないことが、あろうか」。そのよう言葉が「教会の祈り」の詩篇にあった。「隠れた所から、隠れたものを見ておられる」御方がいる。人間は、それが理解できるのです。「お疲れさま」

2015年5月23日土曜日

モットーは、なに?主と共に生きる。安心する姿

「シスター、こっち、見て。写真、撮るからね」「なに、するの?」「ブログに載せるよ」「いやよ、はずかしい」「いい、でしょう」。ホームで、日々、何回も、シスターの姿を見る。上五島の出身。集落に立派な教会があって、幼時から、信仰で育ったようなもの。中学生のとき、シスターが募集にきた。「マリアさまのように、美しい人になりたい」。こころの奥で、そう思っていたときだった。それが、召されるきっかけ。シスターになって、もう40年ほどになろうか。知的障碍者の施設で働いていたが、老人ホームに勤めて、7年になる。「いつも考えていることは、なに?」。ズバリ、聞いた。「そうね。主と共に。主と共に生きる、これかな」。答えは簡単。わかりやすい。普通に夜勤も勤めている。最近、足が痛いらしく、引きずる姿が痛ましい。病院通いもしている。「シスター、ムリするなよ」「勤めじゃもん。主と共に」「ハイ、わかりました」。シスターには負けるよ。介護に専念して、沢山の人を見送った。ローマン修道士さんも見送った。フランシスコ中村修道士さんも見送った。叩けば、いろんな話が聞けそうだが、勤めがあるから、「ダメよ」と、長々と話す時間はない。残念だが、いつも世話になっているシスターです。何人かのシスターも、ここで勤めながら、亡くなっている。シスターの姿が見られれば、なんとなく安心する。主と共に居るからか、な。

2015年5月22日金曜日

世話をした者が、いまは世話される人に変わった

車で、30分。山茶花(さざんか)高原へ、10人ばかりで、歩け、歩けの運動にでかける。最近は、歩くことに自信を失った。普通に歩いて当然と、何も感じなかった日常がうらやましい。歩けることが、いかに普通じゃなくて、大きなお恵みであるか。いま、手押し車や、車椅子が目につくようになって、瀬戸際を歩いている感じる。山の広い公園には、誰も人がい
ない。★この近く、椿原の学校に勤めていた頃は、小・中学生たちと、よく遠足にきていた所だった。あの頃は走った。寝転んだ。たわむれた。遠い、思い出の場所でもある。しかし、そういう経験があることは、胸に収めて、参加者には何も語らなかった。ただ、黙々と、歩くことに、努めた。からだが、ふらふらする。★むかしは世話を焼いていた者が、いまは、世話をされる側に変わた。その変化を受け入れることから、生活が始まる。歳をとるとは、そういうことか。

2015年5月21日木曜日

あきらめないで、生きていって、もらいたい。自分に

聖コルベ館の時代は、いろんな人に出会った。話を、沢山、聞いて、感動した。聞き出した中から、いい、ところを見つけていた。得たものを伝えていたのです。聞いて、受けて、充実した時代でした。苦しみがあっても、「あきらめないで、生きていって、もらいたい」。そう、願っていたものです。いま、その言葉を、自分に言い聞かせている時になったと思う。歳をとることは、自分が言ったことを、自分で実践する時なのでしょうか。ま、ま、こころあたりがあるのです。★医務室の窓辺に、1リンのバラを見つけた。花は何も語ってはくれない。色だけ、見せている。聞くものではなく、こちらが語るものだろう。これも、いいなあ、と思う。1リンのバラをみて、何を考えるだろうか。思い出すだろうか。すぐに、こころに浮かぶのが、パウロ永井隆先生の「バラ」だった。永井博士は「バラ」が好きだった。如己堂にも好んでバラを植えて、育てていた。

2015年5月20日水曜日

からだを、動かしたいが、心は、なまける。こまった

体力を落とさないように、グランド・ゴルフに努めました。力を入れて、玉を打つ。芝生ですから、なかなか飛ばないものですね。ゴールの近くに玉がきても、打ち方によって、「スル、スル」と抜けていく。昨日の出来事でした。★きょうは、朝から、諫早市街地へ、電気カミソリを買いに出かける。午前中に帰ったが、パソコンに向かったのは、午後6時半になってからでした。★5月12日の日記に載せた職員の「花嫁さん」。ゆっくり話ができた。「日記、見た?」「見ていません}。長崎の白浜さんが届けてくれた、ファイルにした日記を見せてあげた。「え?こんなに書いてくれたの」と、写真と記事を喜んでくれた。特に、コメントが気にいった。コメントはホームを好評してくれている。職員さんは、そのコメントを非常に喜んでいた。

2015年5月19日火曜日

手柄話はするな。本物がまだ見えていない。見よ

午後から、庭を散歩した。ご像を、高圧の水を吹きかけて、よごれを落としていた。絵になるな、と思って撮った1枚です。聖フランシスコ園だから、このご像は大切にしなくちゃね。散歩は、午前中は園内の廊下を歩きます。端から、端まで歩くと、けっこう歩数になるのです。廊下の途中に、幾つかの本棚があって、1冊の本に目がとまった。佐古純一郎著の「三浦綾子のこころ」です。夜、夕食後、夕べの祈りを唱えた後、少しづつ読むようにしている。「あかしをする。あかしというのは、キリストを信じる者、信仰を生きる者にとって、自分の手柄話をすることではない。永遠の命にあずかっていただいて、毎日、毎日を生かしていただくことが、どんなに大きな喜びであり、恵みであり、感謝であるか、知らない人に知っていただくことなんです」。これを読んだとき、「グ、グッ」と胸に応えました。信仰実話を書いてきた。読んでもらった。それが本当のあかしであったのか。いま、毎日、生かしていただいている。まさに、今の状態です。寂しいとか、苦しいとか、言ってはおれない。生かしていただいている毎日が、どれほど大きな喜びであり、恵みであり、感謝なのか。まともに迫ってくる。まだ、まだ、本当のことが、信仰がわかっていない。水で、吹き飛ばしてもらわないと、本物は出てこない。三浦綾子は脊椎カリエスで、13年間、苦しんだ。自分も脊椎カリエスで大きな手術をして苦しんだ。思わず、本を抱きしめたよ。

2015年5月18日月曜日

絵てがみに、ドクダミを描く。部屋に飾っている

午前中、絵てがみ、がある。午後から、懇談会がある。その後、ロザリオがあって、いま、パソコンに向かったところです。ホームでの生活も、けっこう予定に追われている。ところで絵てがみは、何を描こうか。迷いますよ。題材が早々手元に無い。簡単に手に入らない。仕方がないから、隣の女性が採ってきた「どくだみ」を描きました。「名はドクダミ」で、あまり、いい響きはしないが、それでも部屋に飾っている。絵てがみは、これで3度目かな。絵の女性・先生が言うんですね。「なかなか、いいですね。じょうずだわ。前にも描いていたんですか」。こちらは本心は明かしません。「まあ、ちょっと、ですね」。長崎南画を習ったことは言わないよ。本当は、聖コルベ館で描いていたように、色紙に描きたい気持ちがある。そのつもりで、色紙や絵の具、材料は持参してきている。押入れの中に閉まったままです。場所がないので、描けないのが、残念です。★くわしいことは知らないが、ドクダミも役目があるんでしょう。「人には、それぞれ、役割がある。役割があるから、生きる意味もある」

2015年5月17日日曜日

お礼は、いい。心配しないで。受けた方がいいのか

農家の道ばたに、「びわ」が成っていた。「ああ、もう、この時期になったのか」。長崎といえば、びわの産地です。思い出ばかりが、つのるだけで、まだ食べていない。見ただけでした。★昨日、夕食後、「トン、トン」と自室の戸をノックする者がいる。車椅子の、ホホが、まあるく赤い、お年寄りの女性が、小さな袋を差し出した。いつも食卓で、ポットにお茶を入れてあげるから、そのお礼のつもりでしょう。世間、一般の常識ですか。自分にとっては、そんな、つもりは、ない。「いいよ、いいよ。そんなにしなくても」と、押し戻した。だが、待てよ。せっかく車椅子で、ここまで来てくれている。すげなく断わるわけにも、いかないと思い、一応、受け取った。これで、2度目だった。★困っております。今朝、朝食が終わった後、居残っていた女性の耳元でささやいた。「ありがとう。でも、ね。気にしないで。いつものように、お茶は、入れてあげるから」。迷っております。一般人の気持ちか、自分の小さな奉仕の考えか。これまで気にせずに生きてきました。一般は、そうは、いかない。どっちが、いいのでしょうかね。受け取った方が、いいのか。気にしないで、と断るのが、いいのか。今まで生きてきた気持ちは、お礼は無くていいし、期待はしない。そう、仕付けられてきた。ホームに入って、小さなことだが、迷うことが多々あります。生活の中の一こまです。

2015年5月16日土曜日

信心の反省、糾明は別にある。迷いに悩む毎晩です

今の心境です。この世のことで、満足するっていうことは、ないでしょう。絶え間ない欲がありますから。でも、小さくても、いい。小さな喜びを見出さなければ、人は生きていけない気がします。★毎晩、小さな机に、祈り本を開いて、いつも、1日の反省、糾明の項目にページがきます。糾明って、何があるんだろうか、常に迷うのです。ホームで生活して、別に争うわけでもない。ウソ言うわけでもない。何か、文句があったかな?ない、ない、で終わっていいのだろうか。これらは道徳の反省で、宗教の反省、糾明は他にある。違うと思います。それは何なのか。信仰とは、どれだけ神さまの愛をバクバクと受け留めたか。どれだけ神と信じるイエスの存在を、わたしの傍に居られると本当に、感じていたか。慈悲の行為といっても、自分が行なうのでなく、自分は無で、これは神さまが行なっておられる、そう信じてこそ本心に迫ることになる。★その辺が、いつも、うやむやに、なるわけです。まだ判っていない。つかんでいない。それだけ、心の濁りを感じながら、毎晩の糾明を過ごしております。だから「小さな喜び」とは、手のヒラで輝く光の玉のようなもの、と考えております。

2015年5月15日金曜日

目をひく黒髪。世の風が踊る袂から吹いてきた

どこぞの婦人会の踊りのグループが、お見舞いに訪れて、幾つかの踊りを披露しました。踊りもさることながら、まず見ていて、目を引いたのが、舞台にあがる女性の髪の毛が、黒いということです。皆さん、揃って、黒い。それは当然でしょう。お年寄りたちの髪に見慣れているので、全員の揃った黒髪をみると、「ああ、あんなに、くるくる踊れる若き時代もあったんだなァ」と述懐しました。人生の移り変わりを感じます。世間の風というか、何か違ったものが、踊る着物の袂から、「サー」っと、吹いてくる。お見舞いに来てくださる会の皆さんが居ることは、ありがたいことですと感謝しました。毎年、来られているとかで、「お元気で、またお会いしましょう」が別れの挨拶でした。

2015年5月14日木曜日

「顔晴(がん・ばれ)」。いいですね。お便りの紹介

2階、廊下の窓からの眺めです。高い建物もなく、のどかな風景であるのが、わかります。★昨日、2通の手紙が届いたと書きました。1通は、以前に、木のコップを贈ってくれた「ひろみさん」からでした。新茶が入っていました。「お部屋におとずれた方と、お召し上がりください。(例えば、明子さん)」と書いてありましたから、明子さんも日記の中では、「どんな女性だろう」と皆さんに知られて、イメージをふくらませる人になっているようです。お便りによると、「ひろみさん」は介護のお仕事をされています。「ホームは楽しいもよおしが沢山ありますね。職員さんは、とてもお忙しいことと存じます。私の職場は、わずか10人くらいのホームですが、介護5や4の人たちが多く、大変です。「顔晴」って働いています」。(がん・ばれ)が、いいですね。{ひろみさん}から貰った木のコップのスケッチは、まだ全体で展示しているので、贈っていません。

2015年5月13日水曜日

あわただしい1日。日没は7時すぎ。長崎へ行く

ホームの廊下にさがっているスイセンです。つい見とれました。変わりのない生活では、こんな小さな花でも目につくんですね。朝から、あわただしい日でした。朝食が終わって、すぐ高原修道士さんの運転で、長崎へ向った。ヨゼフ・クリニック(内科)で、高木先生の定期の診察を受ける。その後、聖母の騎士修道院へ寄った。韓国からの巡礼者たちが訪問していた。「案内したいな」と気持ちだけが、高まりました。ホームへ戻ったのが、ちょうど正午でした。昼食に間に合った。さすがに疲れたのか、食事の後、ベッドへ横になると、眠っていた。ロザリオがあって、自室に、明子さんが来た。「長崎へ行って、疲れたでしょう」と散歩には出ない。自室で、若かりし頃の思い出を語り合った。けっこう、慰めになるし、話しは弾みます。夕食の時間になった。5時15分です。食事が終わっての挨拶は「おやすみ、なさい」。まだ太陽は天空にある。自室で、ひとりで、「教会の祈り」の「夕の祈り」と、「寝る前の祈り」を唱える。必ず唱えます。これによって修道会にも、教会にも、つながっていると感じているからです。それからノートに日記を記します。パソコンを開く時間がなかったのです。遅くなりました。手紙が2通、届いていた。

2015年5月12日火曜日

ホームの職員さん、ご結婚おめでとう。皆で祝福

いつもお世話になっている女性の職員さんが、結婚しました。おめとう。ホームの皆さんが近くで祝福しました。結婚式場に、湯江の教会を望まれた。ホームに隣接する教会ですから、皆さんから喜ばれました。お嫁さんは、お年寄りたちを、細かいところまで気づかってくれる職員さんです。玄関にはホームでのスナップ・写真の数々も展示されていました。小さな教会ですが、家族的な雰囲気がしました。近くで、花嫁さんを見ることができた。きれいなお嫁さんでした。写真を写す希望者が多くて、中々、いい写真が撮れません。「ハイ、トマさんの方も向いて」と、誰かが声をしました。「絵てがみ」を勧めてくれた絵里さんでした。これからも、若い人たちのお世話になって老後を過ごしていくわけです。

2015年5月11日月曜日

昨日は、母の日でした。お母さん、ありがとう

   ホームでお世話をしてくださる男性職員が、5人。女装をして、皆さんを賑やかせました。「お母さん、りがとう」。お母さんといえば、愛です。子どもたちが、どのような境遇になっても、絶対に離さないのが、お母さんです。ホームに入っているお年寄りも、女性は皆さん、お母さんです。いろんな思い出がある母たちです。職員の皆さんは、多忙のなかでも、皆さんを喜ばせようと、いろいろ出し物を考えて、盛り上がりをみせているのに感心しました。「愛にも、いろいろあるが、慈愛」と言ったのが、こころにひびきました。ホームには、女性が多い。女性、1人、1人に、花束「カーネイション」が贈られました。皆さんが大事にされているのが、うれしい。父の日には、なにか、あるのかな?

2015年5月10日日曜日

聖母行列。みんなで幸せと、平和を祈りました

青空に恵まれ、温かい日ざしを受けながら、恒例の聖母行列が行なわれました。湯江教会を出て、ホームの建物を一周しながら、ロザリオと聖歌をささげて歩み、芝生の祭壇まで進みました。美しく花の円で飾られた聖母マリア像を、4人の男性がかついで、行列が進みます。その後に従いました。芝生の祭壇では司祭のお話があり、共同祈願では、子どもたちが、「平和が来るように」と、「ご飯が食べられない貧しい国の子どもたち」のために祈りました。祈って、行動する。その心構えが必要です。のどかで、平和な一日でした。★母の日でもある。昼食には、楽しみのメニューが表示されていました。

2015年5月9日土曜日

明子さんが来た。「これが最後と言わないで」

昨日は金曜日なので、明子さんが来た。「ブログを読んできた」という。「小浜へ行ったのね」「また雲仙も行ったのね」。2日間にわたって日記を載せたので、2回出かけたと思ったらしい。「いいえ、オバマから雲仙に登ったのです」「最後、なんて書いてあったけど、これが最後なんて言わないでください」。制限された身の上なれば、そうも、いかないでしょう。それに、温泉に浸かって、疲れもあった。明子さんは「島原はふるさとで、あの辺は詳しいのよ」と誇りにしている。わたしに「あれだけ働いていたし、活動していた人が、いまホームに居る。大きな犠牲でしょう」と慰め、「まだ、まだ働けるのよ」と期待し、励ましてくれる。★「すこし、散歩しましょうか」と、庭に出た。高原修道士さんが、花に水をまいていた。陽ざしは、暑かった。歩きながら、いまは亡きご主人のことを聞かされた。6月4日に1周忌がくる。享年65歳。あまりにも若かった。「いのちの尊さは、愛する者の死に直面して、心身に沁みて、わかる」。悲しみの心を支えるのに、大きな苦しみ、悲しみがあったでしょう。いまは明るさを取り戻した。トマはお世話になっている。★去る日曜日のミサの後で、自室に、明子さんが(3人の子どもさんの1人)娘さん(医師)を連れて、紹介してくれた。瞬時の出会いだったが、娘さんを見た瞬間、身も心も整ったオーラがあるのを感じた。娘さんが言った。「ロザリオの祈り、を読みました」。子どもの頃の思い出だろうが、あの本のことを言われて、嬉しくなった。子どもたちは、沢山の本を読みながら育ったという。★長崎・聖母の騎士から連絡があった。ポーランドから、7月末頃に、(取材?)に来る。お会いできるだろうか。被爆70周年に向けての取材なのか、まだ先のことだよ。これも「ポーランド語版・焼けたロザリオ」のおかげなのか。

2015年5月8日金曜日

雲仙岳へ車を走らせる。つつじは、まだ見ごろ

去年も、来ました。雲仙岳の一方通行の山です。普賢岳は霧におおわれ、見えなかった。山の駐車場からの眺めがすばらしい。まだ、ツツジが広く咲き誇っていた。車から降りて、去年と同じ場所で、同じような格好で写真をとった。仁田峠までは、まだ石段を登る。とても行けない。ちゅうちょなく諦めた。去年は、馬がいた。たしか片道500円だったと思う。馬は見かけなかった。人は変わったが、変わらぬツツジを眺めながら、満足しました。★雲仙に最初に来たのは、高校3年のときで、戦争が終わって4年目の秋だった。あの頃は食料も少なかった。この辺で、突然、大雨の襲来を受けたのを覚えている。あれから1970年代は、旅のブームになり、長崎を巡礼する人たちを案内して、何10回来たか数え切れない。なぜか山は、それらのことを思い出さず、いつでも山は新鮮味を与えてくれる。★変えられません、修道士の身分も、87歳の年齢も。それでも、ありがたい。「ただ今」と、帰れる場所が、ある。

2015年5月7日木曜日

1年ぶりに、オバマ温泉の富士屋さんへ昼食会

日記を書く時間が遅くなった。心配された方も居られたでしょう。実は朝から、島原半島のオバマ(小浜)温泉、定宿だった富士屋さんの湯に入りに出かけた。運転は、職員の高原修道士さん。今日は休みの日だから、「どこかへ行きたい?」「富士屋さんへ行きたい」。願いをかなえてくれて、懐かしい湯の街へ車を走らせる。富士屋さんは家族的な宿で、1年前までは、毎月、2泊3日で湯とうじへ出かけていた定宿です。富士屋さんへ通うのは、10年程はつづいたでしょう。最近は行かない。行けない。やっと念願がかなって、1年ぶりに、宿の皆さん、女将さん、ご主人、祖父の会長さん(左端)などに出会えて、喜びで迎えてくれた。元気で、あの頃、通っていた頃を思い出します。露天風呂に入り、うち湯に浸かり、ゆっくりと、安らぎました。「こんなにして、毎月、来ていたのだなァ」と思うと、歳をとるのが重荷になる。湯に入った後は食事をして、ひさしぶりに食べた牛肉の天ぷらも、おいしかった。元気が出ました。「もう、これが最後かな」。思います。「そういわないで、また、いらっしゃい」

2015年5月6日水曜日

98歳のおばあちゃんだよ。負けるよな

午後から散歩。芝生の庭を歩く。車椅子の女性が日向ぼっこをしている。楽しそうな気持ち。いっしょに写真を撮ろう。「ゲンキだね」。ほほえみが、ほころびる。おばあちゃんは、指を曲げながら、98になると教えてくれた。なんにも言葉が出ません。「スゲーな」は、こころのなか。その元気さに負けますよ。★老いは、足から弱ってくる。歩くのに気をつかっているが、すぐ膝が痛くなります。やっぱり、ムリはいけないようです。★人生って、人から、人へ、パワーを、もらうこと、なんだ。

2015年5月5日火曜日

子どもの日。散歩で見かけた鯉のぼり

ホームを出て、すぐの所に、鯉のぼりが立っている。木にかこまれて風があたらないのか、垂れ下がったままだ。散歩の途中で、いつも見かける。「写真、撮っても、いいですか」「いいよ」。4月の末、早々と写した風景です。★連休だったが、誰も面会に来なかった。絵ハガキが1通、届いただけです。「海外を旅行している。海沿いのカトリック教会で、トマさんの具合(特に背中と膝)が良くなるようにお祈りしました」。どこかで、思ってくれる人は居るんですね。★子どもの頃、自動車が好きでした。珍しかった。新聞に、自動車の広告があると、叔母さんに、「これ、切って」と頼み、自動車を集めました。昭和5年、6年の頃の広告です。自動車もカッコウ良かった。小学生の頃になると、週末は、となり町の伯父さんの家へ泊まりに出かけた。乗るバスの席は、いつも運転手の後ろの場所だった。ハンドルの切り方をマネしたね。その頃は、自動車もバスも本当に珍しかったよ。むかし、むかしの話だね。

2015年5月4日月曜日

「生かされて、今日も祈る」。それしか、ありません

「生かされて、今日も祈る」。この歳になって、毎日が、そうでしょう。痛みもあります。不安もあります。生きているのは、苦しみでもあります。でも、生きている、生かされている、まだ動ける。呼吸もできる。いいことも、あります。ありがたい。祈りながら、日々、野山を吹いている風にのって、いっしょに生きましょう。ホームの下の方には、小川の流れもあります。上流には轟の瀧といって、清い水の源泉になっている。その川の流れに混じって、いっしょに漂いましょう。★きのうは、携帯を失って、あわてた。部屋に、ない。どこに忘れたのか。廊下を通る職員さんに「携帯、ない」と伝えると、すばやく事務室の職員さんが心配そうに、部屋まできた。携帯がなくなると、大変です。パソコンも、携帯の番号から器具を得て、発信している。「教会かな?」。さほど時間が経たないうちに、廊下の向こうから、別の職員さんが、「ありました、教会の席にあった」「ああ、よかった」。ロザリオの後の小さな事件でした。

2015年5月3日日曜日

歳を重ねる喜び。年寄りは勲章をもっている

誕生日を祝ってもらえるのは本当に嬉しい。それぞれに長い人生を生きてきた。お年寄りは、誰でも、その人なりの人生の勲章を持っている。5月生まれ人の誕生会があった。普通は12時から昼食だが、この日は、11時30分から始まる。全員が食堂に集まり、その月の誕生日を、まとめてお祝いしている。わたしは3月だった。歳をとるのは、お恵みであり、喜びでもある。いつまでもお元気で長生きしてほしい。4月は10人ほどがいたのに、5月は3人だった。★誕生会には、職員が、必ず、ちょっとした出し物をする。若者がお年寄りたちを喜ばせるのだ。その心が何とも嬉しい。食堂へ行く前に、出し物の準備をしている所を覗いてみた。「なんの出し物?」「かもめの水兵さん。長崎では帆船祭りがあったでしょう」。なるほど。やっぱり考えているな。ヒントがあった。★全員が食堂に集まって、園長神父さんのお祝いのお言葉があり、誕生を祝う名前が1人づつ呼ばれ、皆で「ハピバスデイ」を拍手しながら歌う。園長神父さんが、小さな灯と、花束と、プレゼントをその人のもとへ行き、長寿を祝いつつ、手渡す。次に、また1人、名前が呼ばれて、同じく園長神父さんが動き出す。3度、繰り返すわけだ。その後で、かもめの水兵さんが出てきて、会場を湧かせた。踊りを披露し、みんなの席を1巡して愛嬌を振りまく。それから配膳となり、もちろん乾杯もある。なぜか歳は明かさない。★お祝いのメニュー。「赤飯、お刺身、柔らかポークソテー、スパゲティボンゴレ、若竹煮、海草サラダ、オレンジゼリー、乾杯はジュース」★人の歩みは小さなものだが、大きな力が常に、守り導いてくださる。


2015年5月2日土曜日

小さくても、いい。花のように清く生きたい

3日まえに、「タンポポの毛が飛んで行く」と書いたら、励ましのコメントが幾つか入っていた。ありがとう。「トマは元気か?」「タンポポの毛は毎日、届いています」「タネは運ばれ、花が次々に咲いている」「札幌のタンポポが開くのも間近かです」「お元気ですか。確認してから働きはじめています」など、など。そして、そのうちに白いタンポポの花の写真がおくられてきた。裏に、コメントがある。「平成27年4月初旬。浦上天主堂近くの道ばたで見つけました。白いタンポポは東北では見たことがなかったので、驚きました。かわいい、ですね」。送ってくれて、ありがとう。★日記は、誰が、どこで、見ているのか、全くわかりませんね。そして小さなことでも、人のこころは感じるものです。胸にひびいてきます。「こーした」「あーした」という手の働きよりも、こころの微妙な動きや、反省、新たな決意などに共感するのではないでしょうか。★人には、聖の部分と、俗の部分があるように思います。俗では、愚かな欲望を、考え、望みます。しかし、ひとり、静かさを保つと、ふしぎに清くなりたいと望みます。だがら、人間は、ふしぎやな、と思います。

2015年5月1日金曜日

5月、マリアさまを賛美し、祈る月がはじまる

朝、ミサのとき、司祭が「今日から、5月です・・・」と言った。5月は、マリアさまの月です。特別に、マリアさまをお喜ばせるお祈り、犠牲、善行をささげるように努めましょう。いわれなくても、こころは、その方向にむいております。幼い頃からの、慣れ、ですかね。5月は、マリアさまを意識して、親しんできた。自分には、われなりの歴史もある。自室のマリア像を写真にとりました。★ちょうど、きょうは「書道」の日で、先生の手本をみながら、数枚の字を書いて戻ったところです。その中の1枚を、マリア像の上に飾りました。「早苗、立夏」。もう、こんな季節になったのか。あんまり上手な字とは言えないけれど、せまい部屋です、自室に気分を出すよう飾りました。窓をあけて、入ってくる農村の風は心地よい。ひとり、ポツンと、あぐらをかいて、小箱のなかを探っていると、1枚のメモに目がとまった。「歳を重ねても、ほめられれば、うれしい。無視されると、悲しい。自分に何が出来るか。最後まで、主体性をくずさず、存在感を保ちたい」(2007.7.24)。いまも、同感です。