
長崎のカトリック修道士。17歳の時、原爆を受けて、この道に入る。 生かされて来た数々の恵みの中で、今年の1月、最大の試練「すい臓がん」を告知された。 「みむねの・ままに」。孤独と苦痛に耐え得るチカラを日々、祈る。 毎日、日記を書き続けて13年。今、長崎市の病院・ホスピス病棟で暮らす。 追記 2021年4月15日 午後6時48分 帰天されました。享年93歳
2012年12月31日月曜日
2012年の最後の日となった。無事に終わって感謝あるのみ

2012年12月30日日曜日
東日本の原発事故地から来た見学客たち。コルベ神父への願い
2012年12月29日土曜日
聖コルベ館は年中無休です。いらっしゃい。待っています
2012年12月28日金曜日
今年の5大ニュースは?苦悩の年だった。でも負けない
今年の10大ニュースは?考えてみたが、10もなかった。まあ、せいぜい、5だな。①今年はタツ年で、自分の年だから、正月は、それは、張り切っていたよ。よし、今年は頑張るぞ。ところが、人生は、まさか、まさかの、連続です。②6回の入院で、深いダメージを受けた。さすがに苦しかったよ。でも皆さんから励まされて、何とか快復した。まだ、まだ、クタバリません。しかし③運転は止めた。危ないからね。免許を取ったのは、昭和42年、1967年です。45年、運転してきた。自分から、ぶつかった事故は1度も無い。スピード違反は時々、一時停止違反は、1回のみ。ぶつけられたことは、2,3度あった。④外海・黒崎の従兄、福松さんを神の元へおくったことは、深い悲しみだった。88歳。彼は兵隊へ行って、一番危険なビルマ戦線へ派遣されて、九死に一生を得て帰還した。その他は殆ど黒崎を出ることなく、村のため、教会のため、無償の精神で尽くした。年に何度か、自宅へ行ってお世話になっていた。⑤自伝マンガ「焼けたロザリオ」がポーランド語版になって、出版された。ありがたいことです。後4日で、今年も終わる。お恵みのうちに、今年も終わる。「生かされて、今日も、5時に起きて、共同で、祈っています。2012年12月27日木曜日
ボツ、ボツ、書いています。小さな記事。でも満足だね
毎月、オバマ温泉へ湯湯治へ行く際に、途中に、小さな赤い教会がある。この教会の歴史は割と古く、今の教会は、戦後まもなくで、天主堂建築で有名な鉄川与助さんが建てた。私は、この教会にまつわる、いい話を知っている。近くの農家に、結核で苦しむ娘さんがいた。もう、このまま死ぬのだろうか。彼女は寂しく思って、教会に手紙を出した。神父さんが訪ねてみると、娘さんは弱っている。可愛そうだ。幸い、近くに中国を追われたカナダ人のシスターが居た。神父さんはシスターに助けを求めた。この地には水道もない。濁った水しかない。シスターは大きな魔法瓶にお湯を入れて、そのお湯で娘さんの体を洗ってあげた。愛を感じて、娘さんは洗礼を受けた。彼女は読書が好きだった。近くの農家に、同じく結核を経験した青年が居て、娘さんのことを聞き、寝て読める読書台を作ってやった。それがご縁で交流が始まり、2人の結核は快癒し、結婚して、青年も洗礼を受けたという。この小さな教会にまつわる、こんな話を、むかし、聞いたことがある。そういう思いを抱きながら、その教会に寄ってみた。娘さんは今なお健在で、信仰をつづけているという。しかしダンナさんは亡くなった。私は彼女に会いたいと願ったが、「触れないで、ほしい」との願いだった。ザンネンに思いつつ、ある日、この小さな教会を訪ねてみた。女性の話は聞けなかったが、主任司祭のブリ神父さんに話が聞けた。その神父さんの話を、2月号に書いた次第です。案外、良く書けているな、と自分でも満足した文になっている。いい話に出会うと、また書く意欲が湧いてきます。気持ちも、すカーッとなる。大げさに言えば、生きるチカラが、みなぎってくるのです。2012年12月26日水曜日
色紙が11枚売れる。正月にかけて、販売を期待する
主の降誕祭の夜に、近隣で働く修道会の司祭・修道士の夕べの祈りと、報告と、会食があった。15人が集まった。個人の報告で、「今年はタツ年、自分の年で、よし、頑張るぞ、と思っていたら、6回入院して、深くダメージを受けた。それでも、まだ生かされている。来年は、いい年になるでしょう。勤めは聖コルベ館の担当。座っているだけで、多くの見学者に出会える。これは大きなお恵みです。健康的には、要支援1になり、入浴の介助と、部屋の掃除を男性ヘルパーにお願いしています」と皆さんに語った。「生かされている間は、せいイッパイ、生きよう」。それで、いいではないか。12月8日からルーマニアの貧しい家族へ送金するため、色紙を描き始めて、玄関に置いているが、11枚売れました。後、10枚ほど売れたら、第1弾、送金できそうです。お正月にかけて、期待しています。絵もさることながら、モンクが大切ですね。心引かれる言葉、短く、適切な語句、難しい文言は不人気のようです。2012年12月25日火曜日
主の誕生。クリスマス。真の意味は何なのか。謙遜と愛
2012年12月24日月曜日
一足先に、クリスマス会。劇と、豚汁で、主は来ませり
年賀状を半分だけ書いて、聖コルベ館から、教会のホールへ。もうクリスマス会は始まっていた。「トマさんが来たよ」と、1枚の色のついた紙を渡される。「これに、お互い、お祝いの挨拶をして、名前を書いてもらってください」。紙には、瞬く間に、名前が増えた。以前は、ポーランド式で、広いホスチアを少しづつ、ちぎって、「おめでとう」と言いつつ、ちぎったホスチアを口にしていた。もう、その習慣は止まった。子どもたちの劇の後で、オニギリや、豚汁などを食べた。もうクリスマス・主の降誕は、そこまで来ている。今年は寒さが厳しい。朝夕の気温は、1度まで下がった。
2012年12月23日日曜日
新聞に小さな記事。出津の江口さんが書いた。思い出
電話があった。「モシモシ、出津(外海)の江口です。長崎新聞に小さな記事を書きました。読みました?」「イヤ、まだ見ていない」「よかったら見てください。500字以内ですから、短い文章です」「それは有り難う。後で読ませてもらうよ。それより、出津のド・ロさまの救助院ね。改築中でしょう。もう出来たようだが、いつオープンするの?待っているよ」「来年の4月に改築祝いです。ミサもある。一般見学は5月でしょう」。救助院は、ド・ロ神父資料館の前にある。ド・ロ神父さんは、この2階建ての大きな建物に、村の娘たちを集めて、1階で農業、カイコの飼い方、編み物など実際の教育を行なった。2階は全員、合宿で、祈り、宗教の教え、聖歌練習、教養などの養成を行なう。ここから、結婚する者、オンナ部屋に入る者に分かれて、結婚した家庭から多くの聖職者、司教、司祭、シスターが何百人となく育った。いわば花嫁学校でもあった。出津に召し出しが多いのも、この建物に秘密があった。長い間、解体し、また元の通りに再建していた。この建物が出来ると、また見学の場所が増える。ド・ロ神父さまを偲ぶよすがとなる。期待している貴重な建物です。江口さんの報告で、いまの事情がよく分かった。さて、長崎新聞を見ると、このような記事が「読者のページ」に載っていた。記録のために、ブログに取り上げました。2012年12月22日土曜日
ああ、ごめん。ネコの首、もげちゃったよ。かわいそうに
2012年12月21日金曜日
「ルルドのオミヤゲです」と倉田さんが雨のなか訪問する

2年前、フランスのルルドから、2人のフランス人女性が聖コルベ館を訪ねて、ルルド参りをした。その女性が、写真・左側・お母さんのマリーさん、中央が娘さんです。本場のルルドから、フランス人が来たので、ビックリしました。2010年5月号の騎士誌にも載せました。この度、福岡の倉田さん(写真・右側)が、「フランス・ルルドへ行きました。お母さんと娘さんの店に行きました」と、写真と、オミヤゲを持ってきてくださった。お土産・左はルルドのお水で作ったトローチです。(真っ白のドロップ)。チャワンと、猫は、マリーさんの手つくり。これは店から倉田さんが買ってきた。倉田さんは、ガイドさんです。「ルルドは今年、10月には、ガブ河が洪水で増水して、洞窟の祭壇まで水に浸かって、大変でした。「マリーさんは、小崎先生と言って、覚えていました。騎士誌の1月号に写真が載っていたので、それをマリーさんに置いてきました。2年後に、また長崎へ来るそうです」。下の写真はルルドのガブ河のほとりの風景です。キレイな木ですね。倉田さんが置いていった。「ああ、ルルドがなつかしい」「やはり、2月11日のルルドの聖母の祝日が巡礼者が多いですね」。マリーさんも、娘さんも、別々にお店を持っている。2012年12月20日木曜日
地味な仕事を、コツコツ、果たす。小さな喜びで生きよう
自分の生き方は何ですか。そんなに、花火を打ち上げるような華々しい仕事をしなくても、自分に叶ったことを、コツコツと果たす、それは自分に課せられた務めを果たすことでしょう。①聖コルベ館での出会い。座っているだけで、ありがたいことに、あちらから見学者が来る。②毎日、ブログを書く。「毎日、書くのは大変でしょう」。そう言われることもある。「いいえ、大丈夫です」。何かに焦点を当てて、小さな文に、まめていく。自分の益(ため)になります。歳をとると、暗くなりがち。でもカトリックの教えのおかげで、未来がある。これが有りがたいですね。将来が開けている。だから「希望、望みは、大きく」です。そして1日の出会い、そこに小さな幸せがあれば、それで、いい。満足して、1日を終える。「幸せは、小さく」て、いいんです。それで立派に生きていける。★市役所から「要支援1」になったので、入浴のとき、週に1回、男性ペルパーさんが介助にきてくれる。ありがたいことです。木曜日、午後2時から、入浴です。部屋の前が風呂場になっている。便利です。以前に、入浴時に、フラフラ、足がおぼつかない時期があった。入浴の後で、カラダを冷やさない。カゼ引きに注意しよう。2012年12月19日水曜日
2012年12月18日火曜日
2日目。心も、カラダも、癒される宿。祈りは忘れない
「オバマ温泉とは、どんな温泉ですか?」とコメントが入っていた。そうですね。海ぞえの小さな湯治の温泉で、塩湯ですから、カラダが温まります。定宿の富士屋さん。2階建ての小さな家族的な宿で、泊まる部屋は、左に赤い柱からケムリが出ているでしょう、あの後ろの部屋に決まって泊まっています。ひとり、静かに離れると、いろんな思いは忘れて、すっきり。夜は、早めに、9時前には眠りにつきます。よく眠る。温かい静かな夜です。やっぱり、田舎だなあ、そんな感じです。朝は、5時過ぎには起きて、6時前に、温泉に入ります。露天風呂にも入る。サッパリ、なるね。日中は、ぼーっと、しているが、祈りだけはサボらない。聖務はキチンと果たします。祈りを忘れたら、ダメ。そう思います。仲居さんから、「お宅ではー」と聞かれる。この人、どんなヒトと、思われているみたい。「ああ、いっしょに、居りますよ」。こんなフウに答えています。2012年12月17日月曜日
今年・最後のオバマ温泉へ。ゆっくりカラダを暖める
2泊3日で、島原半島のオバマ温泉へ出かけます。定宿・富士屋さんへ泊まる。オバマって、どこですか?どんな温泉ですか?地図を載せました。長崎から、海添えの道を、東へ進む。眺めのいい道で、信号も少なく、走りやすいです。島原半島は、フクロのような形になっている。山に登れば、雲仙です。島原市は有明海にある。オバマ温泉は、昔は長崎から船で通っていた。歴史の古い温泉で、塩湯です。温度は、105度。温泉量は多くて、流し湯になっている。温泉町は、本通り、裏の通りの2本があるだけで、町の大きさは短いです。夕日が海に沈むことで、眺め抜群の町です。町営業の足湯の長さは、105m。お客で賑わっている。コバマ・チャンポンの店が軒を並べて、話題になっている。九州・花火大会も行なわれる。活気のある町で、オバマ大統領が就任のときは「なまえが同じ」と町が活性化された。オバマは土地全体が温泉の熱で温かいんですね。カラダにジワジワ温かさが伝わってくる。ホッと、しますよ。富士屋さんで、泊まる部屋は終始、決まっています。もう運転は止めましたから、白浜さんに連れて行ってもらいます。「では、行って来まーす」。おみやげは、温泉センペイ。★自分の生涯を振り返って、理解に苦しむ出来事が、幾つかある。なぜ、そうなったのか。なぜ苦しむのか。例えば、なぜ浦上天主堂の上に原爆がハレツしたのか。誰にも理由はわからない。ただ言えることは、主は共に居て、共に苦しんでくださる。幻想という人も居るでしょう。信仰です。いま分からなくても、いつか神のご計画が分かるときがくる。未来に希望を持って、いまを生きている。すべてを乗り越えることが出来るのも、信仰でしょう。そういう気持ちを持ちながら、オバマへ行きます。2012年12月16日日曜日
セルギウス修道士の命日。103歳で、2年前に神に召される

2012年12月15日土曜日
若い夫妻に祝福あれ。耐え忍び、相手に尽くせば幸せななる
2012年12月14日金曜日
手書きの色紙が4枚売れた。ありがとう。お金はルーマニアへ
2012年12月13日木曜日
語っても、迷いが多い、コルベ神父の生き方、死に方に苦慮
2012年12月12日水曜日
小沢昭一さん亡くなる。ご縁があった。日本の名随筆「貧」
小沢昭一さんが亡くなった。まず、テレビに出た。新聞の一面に出た。83歳の年を見て、「ああ、我より若かったな」と、ため息をついた。俳優で、TBSラジオの放送は、1万回を超える長寿番組だった。著作も40冊を超えている。勲章も貰った。そんな小沢さんと、小崎修道士が関係があるのかな、と言えば、これが「あるんです」。1989年11月、「日本の名随筆」が、100巻、出た。1冊、1冊は、一字の漢字、例えば、花、鳥、猫、色、などで、100冊あるわけです。その中に、「貧」という題で、日本の名文を集めた本が、作品社から出た。その貧のなかに、小崎修道士が「長崎のコルベ神父」に書いた一章、「清貧との出会い」が掲載されたわけです。その編者・選者が小沢昭一さんだった。どういう、いきさつで小崎修道士の文が目に留まったかは知らないが、執筆者・紹介では「コルベ神父の長崎時代を伝えて心打つ」とある。小沢さんは「貧」の「あとがき」に、こう書いている。「この百年で、われわれの暮らしは向上した。より平等に、より豊かに、暮らしを求めるのは人間史の必然かも知れない。しかし、むしろ、平等に低下させて、等しく貧になろう、いかがでしょうか。シャレ半分で、これを『貧主主義』と名付けたりしています」「ひとことでいえば、貧乏礼讃ですが、心を求める為に、貧を礼讃する、実は悲しいですね」2012年12月11日火曜日
騎士誌が新装なった。横書き。文章を書くのは楽しみです
聖母の騎士誌が、2013年1月号から新装になって、右から左へ開けるようになり、文字が横打ちになった。長年、毎月、記事を書かせてもらっているが、もう歳も老いたし、次の年は、どうしよう?と迷いが起こっています。自分でも疑問があるのです。1月を書き始めると、毎月、書かねばならぬ。一方で、「トマさんの記事がないと、寂しいよ」などの声もあるのも事実です。何とは、なしに、また書き始めました。他のカトリックの雑誌をパラパラと開いて見ると、皆さん、立派な肩書きの方々が執筆されている。それに比べて、お前の文章は、何なのか。自分が書いている内容で良いのだろうか、の疑問もある。知識もないし、難しい文章は書けない。それでも書くには何故なのか。言える事は、「文章が書きたいのです」「書けば、なんだか、楽しいのです」「自分の文章が刷り上って、原稿を校正するのが、なんとも言えない喜びでもあります。それで書いているんですね」。1月号は、同じ背丈の、ちび同志の、ルーマニア人神父さんの出会いを書きました。「やっぱり、こんな文を書くものは、他には、居らんね」
2012年12月10日月曜日
北海道から紅鮭が届く。これでお正月は万全だ。長崎では珍しい
2012年12月9日日曜日
日曜日。故・片岡弥吉先生の娘さんが来る。尊敬すべき師

2012年12月8日土曜日
無原罪の聖母の祭日。こんな出会いは珍しい。2人の女性がくる
2012年12月7日金曜日
従弟、ユスチノ田川幸雄修道士の命日。73歳で亡くなる
ユスチノ田川幸雄・修道士の命日です。2004年12月7日に東京の病院で亡くなった。73歳でした。アシジの聖フランシスコ大修道院に、1991年から、6年間滞在し、日本人の巡礼団や、観光客のため、大聖堂を案内していました。そこ頃、アシジを訪ねた人は会った思い出があるでしょう。説明が特に好評でした。壁画の説明を聞いて、涙を流す観光客もおりました。洗礼に導かれた人もいます。パパさまと握手している写真です。ユスチノ田川は小崎修道士の従弟でした。もう亡くなって、9年忌になる。早いですね。最初は小神学校に学び、大神学生だったが、腰のカリエスを痛めて、修道士になり、18年にわたって、養護施設の指導員として活躍していた。高度成長の時代で、彼が見守った子どもたちが卒業して、就職列車で大挙して、社会に出て、それぞれ働き、立派に生活し、身を立てた多くの人がいます。1人の働きは大きいですね。心の優しい修道士でした。73歳とは、まだ若いでした。小崎修道士は彼のお骨を東京から長崎へ抱えて、長崎の墓におさめました。「平和を実現する人は幸いなり、神の子と呼ばれる」2012年12月6日木曜日
時間が、なーィ。年の終わりも近づくと、あわただしい
2012年12月5日水曜日
色紙を描く。ヘタは、ヘタでも、心は、こもる。資金は外国へ
思いついて、色紙を描き始めました。どうでしょうか、出来栄えは?あまり上手とは言えませんね。まあ、それでも、いいでしょう。これから日々、少しづつ描いて、聖コルベ館に置いておこうかな。見学者が見て、気に入ったら、買ってくれるかな。1枚、幾らにする?分かりません。今のところは。この間、ルーマニアの小さい神父さんが来たでしょう。今度の騎士誌に載せました。読んでください。ペトロ神父さんが言った。ルーマニアに、双子の姉がいて、結婚していて、ダンナさん、子どもが2人いる。私はそれを聞いて、お姉さんに何かを贈りたい。物資は無事に到着するだろうか。郵便局からユーロを贈ってみよう。ペトロ神父さんと郵便局へ行って、200ユーロを贈った。昨日、東京のペトロ神父さんから電話があった。ルーマニアの家族は無事に送金を貰いました。ああ、よかった。そうだ、今朝、思いました。色紙を売ったお金で、ルーマニアの貧しい家族を助けるため送ろう。私もゲンキがでるよ。頑張ってみよう。★いま、日記を書いたばかりなのに、5分しか経っていないよ、電話があった。「カニの色紙、買いますからね。売却済みにね」。福岡の小百合さん、おお、びっくりだよ。マイッタ。
2012年12月4日火曜日
寂しさ感じる、紅葉も終わりか、来年もこの場に立てるか
2012年12月3日月曜日
神戸の男性との出会い。1日巡礼なのに、すばらしい恵み
2012年12月2日日曜日
韓国から「お出でなさい」と大司教さまご招待の手紙が届く
韓国・テグの李大司教さまから、招待のお手紙が届く。「ここに再び、ご招待の言葉を申し上げます。来年2013年の初めに、テ・グにお見えになれて、コルベ神父さまと永井隆博士の出会いについて、お話ししてくだされば、うれしいと思います。私たち韓国・如己の会は、毎年1月に新年会を開きますが、来年には1月4日から、2月3日(永井博士の忌日)の間に、催す予定です。いつであっても、ブラザーさまがお出でになる日に、私たちは集まるように致します。遠道なので、お1人でいらっしゃるより、お連れのほうがいらっしゃれば助かると思います」。このように、懇切丁寧なお手紙が届きました。恐縮しております。1月、2月といえば、韓国は厳寒なのではないでしょうか。寒さに弱いし、ヒザの痛みもあります。でも、こんなにも度々お願いしておられるのですから、行きたいのは山々です。李大司教さまは、職務から離れて、今は引退されておられますが、永井隆博士を尊敬されており、長崎へ多くの巡礼者を送っておられます。本も出している。熱心な大司教さまです。「行きたいです。お世話になりたいです。がんばって、みよう」 2012年12月1日土曜日
12月が始まる。寒さに負けるな。カゼひくな。後ろ向くな
今年も、最後の月になった。「早ャーい、もんですね」。今年はタツ年で、オレの年だ、がんばるぞ、と意気込んでいたら、7回の入院で、苦労したよ。9月の入院のとき、同じ部屋になっていた60代ぐらいの男性が、治療を受けていると言っていた。今度も、また別の部屋に居て、「すっかり、痩せていた」と聞いて、これがジンセイか、と心寂しく思ったよ。厳しいときも来る。オレは、「生かしてもらって、ありがとう。その上、信仰できて、ありがとう。幸せです、そう言いたいです」。そう言う気持ちで、今年の最後の月を迎えたい。「皆さん、いつも見守ってくれて、ありがとう。トマは、小崎は、まだ祈っています。モンクも言っていますが、改心もしながら歩んでいます。時折、夢も、見ている。山の上に、建物があって、沢山の同じ会の者たちが、外国人ばかりが、わんさ、わんさと居た。そのなかに、見つけた。身近な日本人の2人を。1人は司祭、もう1人は修道士。シタを見ると崖があって、中ほどに、大きな岩があった。私が落ちそうになって、途中まで、滑ったが、岩で止まって、また、這い上がって、元に戻った。「まだ、まだ、がんばれるぞ」2012年11月30日金曜日
無事に帰る。神さま、ありがとう。退院は気持ちがいいです
2012年11月29日木曜日
病院へ。今夜は入院。3ヶ月毎のステント管の入れ替え
2012年11月28日水曜日
オバマ温泉から帰る。途中で、幼稚園の神父さんを訪ねる
2012年11月27日火曜日
2日目。天草へ渡る。海の風は気持ちが、いい。素敵な島だよ
2012年11月26日月曜日
オバマ温泉へ。死したーの言葉と、湯に、ゆら、ゆら、葉っぱ
2泊3日で出かけます。途中で、シスターの修道院へ寄りました。畑の仕事を終えたのか、1人のシスターが姿をあらわした。黒い衣服に、アタマには、大きな円のヒサシがついた帽子を被っていた。「どこから?」と聞かれたので、「長崎の聖母の騎士の小崎です」と、はっきり言った。よく聖コルベ館でも聞くが、合格の返事は余り無い。すると、シスターが、しげ、しげと見ながら、「ああ、よかった。お元気そうね。ああ、よかった」と大いに喜びを表すではないか。ポカンとなった。温かい思いが伝わってくる。瞬間に思った。ああ、このシスターは騎士誌を読んでいるのだな。最近は、具合が良くないと書いてある。なのに、こんなにゲンキなの。「ああ、良かった。安心した」と、こうなる。それが伝わってきた。思ったね。院長さん、校長さん、偉いシスターは毎日、忙しく、ヒマもないだろう。影で、修道院を支えているシスターは1日の仕事が終わって、祈りも終わって、少々の時間がある。夜のひと時、テレビも見ないし、安価な、騎士誌を手にとって、記事を読んでいる。小崎修道士の記事も、そう大したことは書いていないが、時には面白いこともある。「心配していたんだよ」。ああ、そうだ、このようなシスターが他にも居て、読んでいるかも知れない。ありがたい。少しは、ましな事を書くようにしよう。オバマ温泉の定宿、富士屋さんに着くと、露天風呂に早速、入った。1枚のハッパが、湯に、ゆら、ゆらと、ゆれているではないか。「ろてんぶろ、浮き沈みする、もみじかな」2012年11月25日日曜日
バッテン、ナガサキ、何とかの町。明かりも寂しくなったよ
2012年11月24日土曜日
皆さんから声をかけられる。ダイジョウブですか?ええ、大丈夫
2012年11月23日金曜日
修道会の金祝、銀祝。見知らぬ人の祈りのおかげですてくれた
2012年11月22日木曜日
聖女セシリアの記念日。神父さんのお姉さんの名前の日
2012年11月21日水曜日
忘れずに、訪ねてくれた家族。困難にめげず、幸せに
2012年11月20日火曜日
1年前は、シャキッとしていたな。老いに、負けるな
もう、夕方の4時半だよ。1日が過ぎるのが、ほんとに早いね。聖コルベ館で、あれや、これや、しているうちに、もう、この時間になった。何を書けばいいのか。迷いました。ふと、去年の今日、11月20日は何をしていたのだろう、そう思って、写真の積み重ねを見ると、この写真だよ。カッコウいいじゃないか。白内障の手術の後で、視力がよく見えるようになったので、メガネ屋さんで、新しいメガネを作ったところでした。さあ、世の中を、良く見るぞ。そんな気持ちだったかな。あれから、1年。ああ、いろいろ有った。考えただけでも、身震いするよ。入院、6回だからね。それでお、イノチ、もらった。ありがたい。過去の苦しみ、もう1度って、そうね、ホンネを言えば、もう、ケッコウ、そんな感じです。2012年11月19日月曜日
イシトク神父さんの家族の話。聖コルベ館へ来て、熱く語った

イシトク神父さんが、家族の写真を見せてくれた。上は、両親の写真。助祭になったときに写した。母親は、6年前に、亡くなった。父親は、3年前に、亡くなった。今度、ルーマニアを出てくるときには、もう両親は居なかった。寂しいよ。その気持ちは、分かります。下は、双子のお姉さんと、ダンナさんと、子供たちです。彼が、司祭になったときのお祝いの写真です。お姉さんが、背が高い。彼は、ほんとに背が低い。「生まれたときは、どうだった?」「生まれたときは、自分が、2.900g。姉が、2.800gあった。自分の方が、少し、おおきかった。13歳のときから、どういうわけか、背が伸びなくなった。兵隊検査のとき、150cm以下は、アウト。彼は、149cmあった。本当はアウト。しかし隊長が言った。お前が希望するなら、入れるぞ。オレも男だ。入隊したい。それで1年間は兵役を務めた。司祭の道に進むとき、背が低いと、許可にならなかった。しかし後で。許可が出た。アジアに宣教へ行くのが、夢だった。それで、日本へ来た。司祭になって、15年。もう、日本で、宣教したい」と、聖コルベ館へ来て、家族の写真を見せて、熱く語った。「人生には、3つの、Sが必要だ。サルーテ(健康)。シェンツア(教養)。サンチティタ(聖性)だよ。これは神学校で、教えられ、目標にしてきた。社会でも、同じさ」「応援しているから、日本語、がんばれな」。43歳、まだ若い。これから、充分、働けるよ。