2012年9月30日日曜日

主よ、ここに、私のソバに居られますか。大きな希望です

着物を、きちんと、着こなした女性が聖コルベ館へ来た。着物姿で旅行するなんて、珍しい。「どこから?」「北海道から」「え?あの、ホッカイドウ。その姿で?」「ハイ、いつも着物を着ています」。(こりゃ、ただ者では、ないな?)とは、胸のうち。「どうぞ資料室へ」と案内した。このとき私は、月末近くで、騎士誌の原稿の期日が迫り、記事で悩んでいた。11月号の内容は、8月、9月の入院のことで、病者の塗油を受けたこと、などなどを書こう。骨子は「苦しいときに、主は、ソバに居られましたか」。本当に、寂しかったよ。もし主が居てくださったら、何と心強い。恐れるものは、ない。現実には、満足した内容には、なっていない。そこで悩みが、迷いが、あるわけです。ところで、着物の女性ですが、しばらくして、ビデオ(8分)見せた後、興味もあって、話しかけてみた。女性は言う。「学生の頃、目にとまった本、遠藤周作さんの本に共鳴して、愛読しました」と言われて、びっくり。「え?北海道に居て、遠藤さん、ですか?」「『イエスの生涯』を読んで、最近、地元の文芸誌に、遠藤さんについて、3ヶ月、連載の記事を載せました」「えーっ。そんなに。その記事、読みたいな」「送って、差し上げます」「遠藤さんの、何に、惹かれます?」「『同伴者』と『赦し』ですね。孤独な者には、同伴者。罪を犯せば、赦し、ですね」。それ聞いて、ビッっと、きたよ。私が今、書いている原稿、「主よ、ここに居られますか」は、まさしく同伴者の存在じゃないですか。まさか、この着物の女性を迎えて、こんな話題になるとは、ね。小さな救いを得た気持ちになったのです。★作家が描いた復活のイエスは、奇跡は起こせないけれども、弱者に最後まで付き合い、一緒に苦しみ嘆く『同伴者』であった。

2012年9月29日土曜日

熱さがる。大天使ミカエルよ、ガブリエルよ。悪・熱、守り給え

1日のあいだに、言われた言葉。いろいろ、あります。神父さんから「弱音、吐くなよ。トマさんらしくないぞ」。管区長さんから「ムリは、しないでね」。看護師さんから「シスターは知っているけど、ブラザーがいるとは知らなかった」。仲間の修道士さんから「たくさん、食べなさい。食べないと、免疫力がなくなる。老人ホームの長生きは、食べる人だよ」。さて今日は、ミサのとき、三大天使を祝い、祈った。ミカエル、ガブリエル、ラファエルです。祈りつつ、(天使って、まだ見たこと、ないな?)と、ちょっぴり。でも、5世紀には、ローマで大天使ミカエルの大聖堂ができていた。ザビエル時代の宣教師たちは、日本に、聖ミカエルの信心を広めた。「それは、悪に打ち勝つ、意味があった」。平戸の教会は大天使聖ミカエルに捧げられている。ガブリエルは、天使のお告げです。おとめマリアのもとへ、神さまのお告げを伝えた。ラファエルは旧約聖書に出てくる。「そう、そう、忘れていた、ワタシの幼児洗礼の霊名は、ガブリエルだった。北朝鮮の、信者はワタシの家一軒、教会もない、そんな場所で生まれて、よくぞ、まあ、ガブリエルと付けたよ。ガブリエルはワタシの誇りだった。いまは、登明だよ。とうめいは、熱で悩んでいる。

2012年9月28日金曜日

ホンロウされるトマよ。何事があっても、ゲンキを出せ。

なんだ、変な、顔して、いるな。外食しているところです。自室にばかり居ても、体力が落ちてくる。昨日は昼間、3時間ほど外出した。食事して、(これが、その時の写真)、買い物して、帰って、しばらく休んだ。ところが目覚めると、寒気がする。夕方、熱をはかると、7度1分。「ああ、微熱や」。おかしいなあ。夜、眠る頃には、7度7分となり、夜中に、8度1分に上がるではないか。ホンロウされる我。自分でも、よく分かりません。免疫力がこんなにも低下したのか。情けなく思う。あんなにゲンキで、バリバリ働いていたのに、と悔やむ。クスリを飲んだ。これが効果があったのか。今朝は、6度5分に下がっていた。しかしミサは休みました。朝、9時すぎ、起き出して、病院へ電話をかける。問題は、あした、土曜日、日曜日とつづくことです。病院は休診です。もし尿でも出なくなると、困ります。「熱があったら、連絡しなさい」と言われている。「診察しなさい」の返事で、病院へ向かった。血液検査をする。クレアチニンは、1・3。お医者さんは言った。「どうします?入院して、点滴をしますか。クスリをもらって、自宅で療養するか?」。入院って言えませんよ。「自宅で、様子を見ます」。こうして、今、帰って来たところです。3時近くになっている。自室へ行きます。車に乗せてくれた白浜さんが言った。「トマさん、ゲンキになって、もらわんと、困るよ。訪ねて来る人も、居るかなね。この間の男性は、『登明』、何と呼ぶの?と言っていましたね」「とうめい、だよ。明は、めい、と呼ぶが、登は、とう、と呼ぶかね?」「『登校』(とう・こう)って言いますもんね」「ああ、そうか、言えるんだ」

2012年9月27日木曜日

師父聖フランシスコの祭日まえの9日間の祈りが始まっている

朝、ミサを祈った後、師父聖フランシスコの祭壇で、祭日まえの9日間の務めを果たしている。父なる聖フランシスコは、神の声を聞いた。「主人に仕える方が、いいか。下僕に使える方が、いいか」。もちろん、主人です。「教会を、建て直しなさい」。見回すと、その教会は廃屋寸前だった。よし、修復しよう。しかし神の願いの修復は、教会を立て直すことだった。聖フランシスコは、しっかり立ち上がった。選んだ道が、清貧。貧しさ。小さき兄弟になること。ご聖体を礼拝すること。司祭を尊敬すること。平和への道を進んだ。10月4日に、アシジの師父聖フランシスコの祭日を迎えます。17歳で、聖母の騎士のポーランド人修道者のなかに飛び込んだ少年は、フランシスコ会とは全く知らなかった。後で、フランシスコの貧しい生き方、動物も、水も、空も、小鳥も、兄弟、姉妹よ、と両手を広げるフランシスコに心を引かれる。アシジにも、何回も巡礼し、ある年は、10月4日の祭日も、現場のアシジの大聖堂で過ごす恵みも得た。少年は修道士になったが、当時は修道士は学問はさせない習慣だった。少年はサムエル管区長に頼んで、勉学の許可をもらった。通信教育で、6年かかって、卒業し、教育免許も取得した。通信で学ぶのは、大変な困難がある。500人ほど入学し、歴史学部の卒業は、30人程度だった。そのときの卒論が『サリンベーネの年代記』だった。フランシスコの時代に生きた修道士だが、彼が残した記録には、信仰のことの外、社会の情勢や、暮らし、政治、軍事など、興味深い記録を残した。67歳で没。今でも、なんだか自分に似ていると思っている。

2012年9月26日水曜日

秋晴れ。気持ちも晴れバレ。いつも、そうありたいよ

病院の看護師さん。胸に、ふしぎのメダイを見つけた。「カトリックじゃないが、シスターにもらった」という。「身につけておれば、お恵みがあるよ。写真、撮っても、いい?」。名札は、ポケットへ隠した。この方が、メダイが、はっきり見える。うれしいね。今日は、予約の診察日だった。今のところ、泌尿器科のお医者さんが頼り。「熱が出たり、何か、あったら、すぐ連絡をしなさい」。カラダが重たい、いろいろ有るが、説明がしにくい。歳を取るとは、こういう体調かも知れない。

2012年9月25日火曜日

活力くれた男性は、小さなヨットの海のツワモノだった

「下関から来ました。熊本でのレース、ディンギ(小さな舟・4.23m)の九州競技大会があってね。参加艇は17隻。クラスが2つに分かれて、9艇で争ったラジアル・クラスで優勝しました。母親が、もう亡くなったが、騎士誌の愛読者で、時々、自分も読んでいた。最近は、毎月、愛読している。小崎さんの記事を真っ先に読む。母親は幼児洗礼。母の父は、ビリヨン神父から教えられた。母の信仰を思うと、理屈じゃない。そのまま信じている。カトリックより他に知らない。90歳で亡くなった。小崎さんも、自分の体験じゃないですか。苦しみが生きている。戦うしか、ない。不安や、自信がなくなったら、そのとき、任せる。信仰が、ある。恐れることは、ない。自分の歴史を考えると、どう考えても、自分にとって、奇跡みたいな、恵みがある。感じられるのでは、強められる。守ってください、導いてください、ですよ。小崎さんも病気と戦っている。騎士誌を読んで分かる。特に、最近の記事は、すごい。それでも信じている。原点を見詰めている。試されている。小崎さんに、一目だけでも会いたいと、来ました。舟に乗り始めたのは、のんびり、したかった。風に乗って、いい気持ち。だが現実は厳しい海。32年になる。全国大会、世界大会も連続7回、参加した。10月、中国選手権、11月、全日本ラジアル選手権とつづく。ヨットは、部屋もある、大きな舟。帆かけ舟ですよ。いつも、ヨットのこと、考えている。修道士の小崎さんが、祈り考える、いっしょですよ」「日記に載せるからね」「恥ずかしいなあ」と言いつつ、写真に納まった。ゲンキが出た出逢いだった。

2012年9月24日月曜日

夕日を浴びて、飛ぶトンボ。けんめいに羽を震わせ、生きる

夕方、秋の陽が、庭を温かくしていた。あれ、あれ、トンボの類か、小さいな。でも、トンボの形をしている。けんめいに羽をふるわせ、夕日を浴びている。イノチだね。ひさしぶりに見たトンボよ。これから、どこへ行くのか。仲間は、いるのか。2,3羽のトンボが舞っている。しばらく立ち止まって、眺めた。今年になって、6回目の入院。思えば、大変だったよ。6回も入院すれば、さすがに、カラダが重くなり、早急に、前へ進まぬようになった。行動範囲が、狭くなった。いかなる能力になっても、一日でも、長く生かして、もらって、まだまだ何らかの、お役にたてば、それで、よい。生きている限り、希望は捨てたくない。心配して、見守ってくれる人たちが、いる。きょうは、なにか、いいことが、起こりそうな、気がする。★午前中、入院のあいだ、看護をしてくれた千草さんが来た。「その節は、お世話になったな。ありがとう」★午後に、車に、小舟を積んだ男性がやってきた。「騎士誌を読んでいる。小崎さんの記事、いいね。体験だから。この間の記事で、ブログがあるのを知った。時々、見ていますよ。ぜひ、会いたいと思って、来た。カラダ、大丈夫ですか」。彼との出逢いが、胸から突き上げる活力を与えた。「訪ねてくれて、ありがとう。日記に載せても、いいね」「ヘ、ヘ、へ。恥ずかしいな」。それでも写真に納まった。あした、紹介します。

2012年9月23日日曜日

遠藤周作・文学散歩。長崎の小説の舞台を訪ねる皆さん

「ああ、イラッシャイ」。文学散歩・バスツアーの皆さんです。「文学って?」「遠藤周作先生の、長崎を描いた小説の舞台を訪ねる一日メンバーです」。長崎を舞台にした小説は、有名な「沈黙」「切支丹の里」「女の一生・一部」「女の一生・二部」の3部作がある。この日、皆さんは、大村の鈴田牢屋跡、長崎の善長谷(ぜん・ちょ・だに)教会を周って、聖コルベ館へ来られた。「まず、ホールへ入って、ゆっくりしてください」と、ビデオと、お話し少々。コルベ神父と遠藤先生は、作品でご縁ができた。「女の一生・二部」は、コルベ神父やゼノ修道士が長崎へ上陸する場面から始まる。大浦天主堂の前で、コルベ神父の印象は、やや暗い。ゼノさんは、おもしろい。どうやら遠藤先生のイメージは、コルベ神父は、首をうなだれた面持ちがあるようです。人生には、いろんな困難や、苦しみが沢山ある。苦しい現実のなかから、逃げるのか。いや、逃げるのではなくて、その苦しみや悲しみを、進んで引き受ける。それがコルベ神父だった。神父は自ら進んで、「ハイ、わたしを、この人の身代わりに、させてください」と、一歩、進み出る。その勇気なんですね。遠藤先生は、書いている。「地上のものを捨てないことが、彼の場合、『愛』という意味だった。なぜなら『愛』とは、捨てないことだから」(契約と脱出)。遠藤先生と対談したときに、私は愚かなセリフを言った。「女の一生・二部」に、「愛がなければ、愛をつくろう、と書いてあるが、それがコルベ神父の本当の心でなかったか、と思うんです」と、そこまでは良かったが、「彼は、そんなセリフは言わなかったかも知れませんね」。すると遠藤先生は「いや、言っていないでしょう」。いま思い出して、恥ずかしいですよ。

2012年9月22日土曜日

今朝の小さな出来事。ひさしぶりのライモンド。堂々とイキよ

朝食が終わって、庭へ出てみた。国際日で、庭は、ひっそり。片隅の、しげみに、ひさしぶりに、「ライ門」を見つけた。本当は「ライモンド」なんだが、今朝は、ライモンドとは呼びたくない。りっぱなカラダになったな。そこへ小さな猫がやってきた。名前は分からない。ライモンドの食事がいいもんだから、よその猫がうかがいに来る。ライ門が、すーっと、近づいて寄った。なにも言わない。行動に、貫禄さえある。すると、子猫が、「ギーぃ」「ギーぃ」と唸って寄せ付けない。「こら、こら、止めとかんか」。相手は、メス猫だろう。「イヤ、と言っているだろう。もう、お前を、ライモンドと呼ばんぞ」。ライ門は堂々たるもんだ。この後、しばらく、小刻みの、にらみ合いがつづいて、子猫が、さーっと、逃げて行った。すると、ライ門は、草の茂みに入って、子猫が座った当たりの草を、じーっと、嗅いでいるではないか。「何するんだ、こら」。真剣に、草に残った臭いを、嗅いでいる。「やるじゃ、ないか」。ライモンドと呼びたくないよ。お前は、草食ネコか。ライ門、ライ門、ああ、ライモンよ。ネコも、ヒトも、与えられた生を、生き抜いてこそ、価値が、ある。

2012年9月21日金曜日

人生、秘蹟で助けられ、ホント、良かった思います

病者の塗油の秘蹟を受けたときの写真です。今度ばかりは、本当に、ヤバイと思いました。お医者さんから、「人工透析に」の言葉も出るし、この歳で、どうなるんですか。でも教会は有り難いと思いますよ。人生に応じた秘蹟がある。(秘蹟は、7つ、ある)。振り返れば、①まず洗礼。幼児のときに授かった。②堅信の秘蹟。少年時代に授かり、信仰の堅めになる。③ご聖体の秘蹟。修道士の道に入って、ほぼ毎日のように、受けて、養われた。④いやしの秘蹟。告白です。定期的に度々受ける。特に、修道士は大切です。ニンゲンですから、なガーイ人生には、色々な誘惑もある。落ち度もある。それは本当です。しかし快復の道がある。それが「ゆるしの秘蹟」です。落ち度があっても、弱さがあっても、正直に、司祭に、告白する。これを実行すれば、修道士の道を終わりまで行くことができる。告白が最も大切です。司祭に正直に告白するのは、勇気が要ることです。でも、この秘蹟が有るのが、ありがたい。もう1つの秘蹟。⑤今年、6回目に入院で、病者の塗油の秘蹟を受けた。この秘蹟の前に、告白しました。病者の塗油の秘蹟は、病気のときに受けることができる。いったん、良くなれば、また同じ病気でも受けることができると聞いた。この秘蹟を受けて、安心し、心が穏やかになった。幸い、復帰しました。これもお恵みです。あと⑥と⑦の、2つあるが、司祭叙階と、結婚です。これには、ご縁がなかった。

2012年9月20日木曜日

聖コルベ館も、韓国にご縁がある。平和を祈りました

何年か前に、韓国の「テ・グ」へ行った時、撮った写真です。後ろの方が誰であるか、分かりません。今日は、ミサのとき、韓国の殉教者・聖アンデレ金と同志殉教者の記念日を祈りました。コルベ神父と、韓国とも、ご縁があるんですよ。日本へ来るとき、韓国も汽車で通過しました。沢山の騎士誌を韓国へも発送しました。騎士誌を読んで、何人かが、長崎で学びました。その中の1人は、司祭になって、韓国の神学生の養成のため、活躍しました。そんなことを思いながら、ミサで祈りました。すると、パウロの言葉のなかに、「グ、グーッ」と、胸にくるヒラメキがありました。「神の恵みによって、今日(こんにち)の、わたしが、あるのです」。この言葉に、感動しないのですか。「そうーです。そうです」と頷かないのですか。いや、わたしは、充分に思います、自分のチカラじゃ、ない、って。それに、もう1つ、あった。「働いたのは、実は、わたしではなく、わたしと共にある、神の恵みなのです」。ここでも、ピッタシ、です。生きているのは、もう、自分のチカラじゃ、ない。そう、心底、思いたい。(Ⅰコリント15-10)。聖アンデレ金と、同志殉教者の列聖式は、1984年と書いてあった。いつだったか、大挙して韓国に巡礼し、大広場で、教皇さまをお迎えしてお祝いがあったが、あの時だったのでしょうか。韓国の人たちと、平和を、祈りました。

2012年9月19日水曜日

自然の景色は変わるとも、ニンゲンの精神は変わりません

昨日は、コスモスでしたが、同じく、2年前の、今度は、もっと秋が深まった紅葉の写真を載せました。多分、オバマ温泉へ行ったときの写真と思います。最近は、オバマ温泉・富士屋さんにも、行けなくなりました。こうして自然は変わって行くんですね。ニンゲンの身体も変わるけど、精神は変わりません。ヨチ、ヨチ、歩いても、精神は、ハッキリしているから、ふしぎです。昔から、ニンゲンは「不老不死」を求めてきたそうです。中国には、不老不死のクスリを探し求めて、さまよった話があると、聞いたことがある。不老不死は、万人の願いかも、知れませんね。でも、カトリック信仰から言えば、それは夢物語では、ないでしょう。「人間は、新しく作り変えられたカラダで、復活する」と教えられている。希望が、あるんです。生かされている間は、痕跡を残そう。いまの人生は、2度と、ないのだから。

2012年9月18日火曜日

2年前のコスモスは、今年も咲いているだろう。ヒトも生きる

こんなゲンキな時もあったよ。2年前の写真だね。コスモスに囲まれて、2年後の苦しみなんて、知らなかった。今年になって、(1月から、9月まで)、6回の入退院は、ただ事でないよ。「トマさん、見れば」ちょっと、カラダが良くないイメージを与えている。まあ、歳もあるけどね。1つの腎臓で、60年も、良くぞ、働いてくれた。おどろきも、ある。今度の退院のあと、カラダが前に進まないのを感じる。幸い、尿の状態が、調子がいいんです。このまま、行ってくれるといいがね、願います。6回目、お医者さんは、手術着のまま、迎えた介護の千草さんに言った。「ステントの交換は、10分から15分でした。尿が、うまい具合に出てくれたら、いいんですけど、出なかったら、一時的に人工透析をします。最悪の場合は、他のことをします。最悪の場合も考えていてください」。また術後室で、お医者さんが「病原菌を殺す一番、強い点滴を使います。クスリがあるのを知っていたけど、自分も未だ、使ったことがない」と。実は、それが、効けたんです。ゲンキの時間を、もらいました。じょじょに、気力を快復しています。また、あのコスモスのところへ、行きたいな。自分で、運転は、ムリかな。「この世に、生を、受け、生き方の問題です。君は、どの道を生きるか。ボクは、信じ、希望し、祈って生きる。どの道を行くのか、全く、自由です。選んだ道で、幸せを、つかみましょう」

2012年9月17日月曜日

アシジの聖フランシスコの聖痕の祝日です。ミサで祈る

昨日の、教会のなかでの、敬老のお祝いと、祝福です。手前にあるのが、プレゼント。一番、前の席で、参加しました。「ゲンキですよ」の、アピールです。病院から、修院へ帰って、ペースに乗るために、時間がかかりました。寝汗をかいたり、カラダが熱くなったり、それが、やっと治まったようです。今朝は、この教会で、アシジの聖フランシスコの聖痕の祝日を、ミサのとき、祈りました。十字架で苦しむキリストを熱望するあまり、聖フランシスコも、5つの十字架の傷(しるし)を受けたのですね。私は今朝、思いました。病気のとき、考えていた。あるいはニンゲンは不安のとき、死ぬかも知れないと思うほどの恐怖のとき、考え、祈る。「主よ、あなたは、ここに、ソバに居られましたか?」と。今朝、まだ、こだわりの思いが浮かびました。確かに、主が、共に、居てくださったら、いちばん、心強いのです。恐れるものは、ないでしょう。それが信仰でしょう。主は、確かに、あなたと共に、ソバに、居てくださる、と言われます。ところが、今朝の、聖痕の福音で、次のように理解する文章を読みました。「わたしは、キリストと共に、十字架につけられた」「キリストこそ、わたしのうちに、生きておられる」(聖痕の祝日ミサのアレルヤ唱・ガラティア2・19・20)

2012年9月16日日曜日

いつまでもお達者でね。敬老の日の集い。参加したよ

敬老の日です。教会に集まりました。75歳以上の男性、女性、皆さん、お祝いをしていただきました。私は一番まえ。左側です。プレゼントや、手紙や、励ましの言葉など、歌もありました。言葉の中に、「長生きのヒケツは、なんですか?」が、ありました。「そうだね、おいしいものを沢山、食べることかな。一番、食べたい盛りのときは、戦争で、食事がなかったからね。いまは、幸せだよ。家族の愛が、いちばんの幸せです」。やっぱり、皆さんと、こうして写真が撮れるのは、うれしいです。気持ちが、もう、単純になりました。「神さま、守ってください。導いてください。平安で、喜びに満ちたアシタも、ありますように」

2012年9月15日土曜日

知人が、アンネのバラ写真を送ってきた。深い歴史を

きれいなバラの花ですね。アンネのバラです。知人が、慰める意味からか、送ってくれました。じーっと、見詰めると、花にも、歴史がある。悲しい記憶もあれば、ささやかな喜びも秘めている。特に、アンネのバラには、深い歴史が刻み込まれている。さて、入院から帰って、まだ、カラダが『定まりません』。病院と、修道院では、環境が違う。周囲も違う。今度は、よく、わかりました。若いときは、なんでもないが、老いて来ると、カラダ全体に老いが来るんですね。足元も、アタマも、ふらふら、します。だいぶん、体力が落ちたな、そう思います。しばらくは自室で、静かに、自粛しましょう。

2012年9月14日金曜日

新しい朝。祈りの雰囲気で、また生き返る

聖コルベ館に戻ってきて、ホットしました。まずは、帰ってきた、感謝です。皆さんの、沢山の、お祈り、見守りは、ありがとう。「よかったね、トマさん」と、皆さんが、温かく、喜んでくださった。「もう、ムリするなよ」と言われます。自分では、そう、ムリなどしていないつもり、ですが、温もりの言葉が、うれしいです。この度は、危険も感じましたが、イノチをいただきました。自分は無力であるのを感じます。置かれた場所で、咲きなさいと、祈りました。病気に負けたら、アカン。そう言われます。信仰も、一歩、一歩、成長しつづけて行きたいです。いまは自室で、休んでいます。

2012年9月13日木曜日

入院16日目。退院の朝。新しい感謝の人生が、また始まる

廊下の遠く、2人の人影。ご聖体を捧持した神父さんと、カンテラを下げた看護師部長のシスター。廊下で待って、ご聖体を受けた。退院の朝です。ご聖体にも、神父さんにも、先生にも、看護師さんにも、介護した人、皆さんに、また日記を見守ってくださった多くの皆さんにも、心から感謝を申しあげます。ありがとう。またイノチをつなぎました。病苦のとき、祈ることは出来なくても、愛することは出来るでしょう。苦しみ、痛むとき、神のご意思は、何ですか。少しでも、いいから、果たしなさい。若いときに憧れた、豊かな内的生活。自分の召命である成聖の道。今、なお修道者であるのを、忘れるな。『今』という瞬間を、セイ一杯、生きるとき、内的な喜びは、きっと、じわーっと、湧いてくるでしょう。★退院まえの祈り。「主よ、あなたは、いつもソバに居られましたか」。介護した人、看護した人、見舞った人、よきサマリア人のなかに、主は、居られた。「わたしも、そのような人に、なりたいです」


2012年9月12日水曜日

入院15日目。あなたに、とって、隣人とは、だれか?

今度は、長がーィ、入院でした。でも、あっと、言うまの、病院生活でした。最初は苦労しました。高熱が、あり、悪寒が、あり、尿が、出ず、透析を告げられ、苦難のなかでしたが、最初の日から介護してくださったのが、千草さんです。不具合のときの介護は、大変でした。人の心を動かす基本は、やはり家族的な心情です。千草さんは言う。「お父さんや、家族の介護をしてきたから、馴れているのよ」。だれが、サマリア人なのか。聖書に出てくる、看護された怪我人の目は、どんな目をしていたのだろう。何も言えない。ただ目は、ありがとう。だれでも、願うのは、言葉よりも、暖かい手です。千草さんの家は、病院から徒歩2分にあるそうです。訪ねた事は、ありません。毎日、朝食まえに来て、小まめに動き、片付けが終わると、いったん帰り、昼食まえに、2度目、晩食の前に3度目も、それぞれ笑顔を出して、奉仕してくださった。夕食後は、毎晩、2人で、声をあげて、ロザリオと、聖母マリアの連祷を唱えた。最初は息も辛かったが、快復した。「もう、あした、退院、ね」。しばらく、この笑顔は、見られない。

2012年9月11日火曜日

入院14日目。お客さん、明るい気持ちで、イラッシャイ

バプテスト・キリスト教会の皆さんが、お見舞いに来られる。ゲンキをやっと快復して、快く応対ができました。皆さん、手をつないで、女性の牧師さんが、心をこめて、やや長い祈りをささげてくださいました。祈りにつながれた心は一緒です。バプテスト教会とのご縁は、数年まえに、教会の九州大会で、ご一緒に参加させていただいたのが最初です。入院の度ごとに、必ずお見舞いに来て、慰めてくれます。小さな心遣いが、大きな慰めになります。道は違っても、なぜ、喜びや、笑いや、希望はいっしょなのだろう。きっと、人の心は、基本で、根本で、1つの束(たば)になっているに、違いない。ベッドで得た教訓、『主よ、あなたは、私のソバに居られますか』を語りました。病気のとき、痛むときは、本当に苦しいんです。誰かが、主が、ソバに居てくださったら、もう、申し分のない喜びでしょう。今夜は、ゆっくり、休みます。

2012年9月10日月曜日

入院13日目。早く帰りたい。夢を見たよ。一時の楽しみ

ああ、いつ、聖コルベ館に帰れるかな。ゲンキな『コウタ』くんと、ピースしている夢を見たよ。やっぱり、聖コルベ館が、いい。病室で、ひとり、ポツンと呼吸するのは、ほんとうの自分じゃない、気持ちがする。やっぱり、「パーッ」「パーァ」っと、忍者みたいに、自由自在に、動き回るのが、いい。ああ、夢の中だから、できるんだな。今朝、8時半ころ、外来・診療前の、お医者さんが見えられた。「どうですか?」「ハイ、すっかりゲンキになりました」。この後、お医者さんと、2人だけの会話がつづいた。「フ、フ、フ」。ひとりで、笑う。9時30分、赤尾院長さんに、電話をかける。「ご心配を、かけています。申しわけ、ありません。いま、お医者さんの診察がありました。今週の、木曜日に、退院してよいそうです。それまでリハビリ、つづけます」「よかったですね。ハイ、わかりました」。院長さんに、真っ先に、報告した。「気持ちが、すーっと、楽になった。ああ、夢が、叶いそうだぞ」。日曜日、朝の体重測定で、びっくり、体重が、2Kg、減少していた。1Kg減らすのに、四苦八苦していたのに。

2012年9月9日日曜日

入院12日目。イノチは神さまの事。今度は、ピンチだった

今年になって、入院は、6回目です。慣れたとはいえ、やっぱり入院は、つらい。イノチが掛かっていますからね。幸いにも、カラダの調子は、いいようです。尿の袋が取れた2日目(9月5日・水曜日)から、尿のなかの浮遊物も出なくなり、希望が出てきた。80代半ばの老人は、思う。「ほんとに、長く、生きたな」。ずーっと昔、まだ結核のクスリがなかった時代、若者たちは次々と肺結核やカリエスに罹り、沢山の人が苦しみ、亡くなった。良くなった人もいる。しかし腎臓結核は、困難な病気で、罹ると、すぐに摘出した。数年たつと、もう1つの腎臓も結核に冒され、ほとんどの人が亡くなっている。幸いに、この老人の場合、当時は未だ珍しかった結核の新薬が幸いにも手に入り、それを飲んだおかげで、腎臓結核は、快癒したのです。その証拠は、CTのレントゲンで見れば、石灰化して、はっきり腎臓の中に残っている。素人でも、わかるんです。おそらく腎臓結核で、片方を切除し、残る片方も結核で病んだ人は、ほとんど亡くなっているのでしょう。だから、80代半ばの老人の、この病状は珍しく、今の時代の専門医のお医者さんにも、ほとんど診た経験がないのではないか。「ああ、これまで、生かされて、ありがとう」。それしか、言えません。写真は、病者の塗油の秘蹟の後で、写した。

2012年9月7日金曜日

入院11日目。聖母マリアのご誕生日。いい事あるぞ

介護の千草さんが今朝、言った。「トマさん、三橋理江子さんからメールが来てね。マリアさまの誕生日って、書いてあったよ」「ああ、そうか。今日は、8日の誕生日だ。すっかり忘れていたな」。それから、ずーっと、「マリアさまの誕生日、そうだ。何か、思い出になる事は無いかな?」と考えつづけた。昼食後、入浴したときも、湯船のなかで、考えつづけていた。幾つかの、ヒントはあった。高木仙ヱ門の孫、高木寛(ひろし)さんは、シスターや司祭などの聖職者に知り合いが多く、それらの人の誕生日を手帳にメモして、いつもお祝いのハガキを出していた。小崎修道士にも届いていた。そんな事を考えながら、湯に入っていると、風呂場の扉を「トン、トン」とノックして、「トマさん、お客さんが、いま来たよ」と、知らせるではないか。「え?だれ?」「愛野教会の、ポーランド人のブリ神父さんが、来ている」「え?」「ポーランドからのお客さんを連れて来ています」「ちょっと、待ってね。談話室で、待って、もらっていてね」。風呂から上がって、迎えたのが、写真の皆さんたちで、「何か、話してください」と言う。幸いに、ポーランド版『焼けたロザリオ』が出版されたときなので、マンガにまつわる「原爆」や、「コルベ神父」や、「ゼノ修道士」や、現在の教会や、我が人生の歩みなどを語った。ビデオに収録した。「ポーランドで、『焼けたロザリオ』を宣伝してください」。それが願いだ。ブリ神父さんが通訳した。彼らが帰った後、「マリアさま、御身の誕生日です。おめでとうございます。今日は、すばらしいお客さんを送ってくださいました。もっとも意義ある恵みの日になりました」と感謝した。★夜になって、長崎市内のポーランド人シスターが見舞いに来た。シスターの話で、初めて彼らの取材が分かった。ポーランドから来た2人は、クラクフの大神学校の神学生です。いま大分に、サレジオ会の司祭で、ご高齢のピサルスキー神父さんが居られる。その神父さんの映画製作のために来日し、取材を始めているそうです。「いっしょに、ポーランドで、宣伝してもらえば、ありがたいよ」

2012年9月6日木曜日

入院10日目。カオは、いい。頭の毛が、ボサボサ

ホラ、ホラ、この通り。元気になりました。今日の日付が入った写真です。「やあ、それでも今度は大変だったよ」。しかし人間のイノチって、ふしぎですね。皆さん、沢山のお祈り、有り難うございました。祈りが、胸に、ぎゅっと、通じました。両脇の、こわそうな男性は、看護師さんです。やさしい人たちですよ。彼らに甘えています。シーツ交換の後で、撮りました。やや、背中が老いたかな。顔の「むくみ」も取れて、今日から、スッキリ、普通の顔になりました。お腹も、顔も、手も、大層、浮腫(むく)んでいたのです。外来診察を終えたお医者さんがベッドのそばで、言った。「すっきり、なりましたね。今週は、ゆっくりして、来週、あなたが、いいと思うときに、退院は考えましょうね」「おかげで、尿は、いまは最も、きれいになっています」。赤尾院長さんが、夕方、パソコンを抱えてきてくれた。「楽しみが、また1つ、ふえたぞ」。病院の夜は、長がーイ、けんね。


2012年9月5日水曜日

入院9日目。鳥取から夫妻が見舞いにきた。20世紀の梨

鳥取に、毎日、日記をみてくれる『みどり』さんがいる。「読者になる」の第1号でもある。いつぞや、鳥取に旅して、お世話になった。砂丘にも、案内された。また鳥取には、泌尿器科のお医者さんで、中村先生がいる。熱心なカトリックの医師だ。先日、ベッドから、中村お医者さんと、40分も、病状について話した。鳥取には、他に、土橋夫妻がいる。『みどり』さんから電話があって、「近々、土橋さん夫妻が、九州へ行くそうよ」と教えた。心待ちにしていたら、土橋さん夫妻が、『20世紀の梨』を、重たいのに下げて、見舞いに現れた。この夫妻との出会いは、こうだ。鳥取の教会でミサで祈ると、白い修道服を着て、リズムに乗せながら、大きな体で、オルガンを弾くベルギー人修道士がいた。その姿に、妙に、心引かれた。鳥取には、珍しく、3人の、福祉で活躍する修道士(2人は、ベルギー人)がいるそうだ。「遠い異国から来て、修道士たちが、よくぞ、がんばるなあ」と感心した。「彼らの、修道院を訪問したいな」と、思っていたら、「いい、ですよ」と、連れて行ってくれたのが、土橋さんだった。彼の車にお世話になる。小さな修道院に入ると、オルガン修道士とは別に、ベルギー人修道士が案内してくれた。修道院の壁に、ラテン語で、「与えよ、されば、与えられん」と書いてあったのを、忘れない。「長崎には、修道士も多い。見慣れていますよ。それが鳥取の、日本海に面した、人の目に触れない場所で、ひっそりと、神の愛を実践する。キリストの心で生きている。すばらしいことじゃ、ないですか。感動ものですよ」と言いつつ、あの時は土橋さん夫妻に、別れた。「おお、久しぶりだね」と、しばし語らい、「旅する夫妻よ、長崎・信仰の心を、みやげに持って、帰りなさい」

2012年9月4日火曜日

入院8日目。初体験・病者の秘跡。タマシイが安らぐ

午後3時、修道服を着た赤尾院長さんと、若い司祭、李神父さんが見えた。今度の入院で、「イノチの、ともし火」を感じる。いよいよ、病者の塗油の秘跡を、受ける。まず、李神父さんと、2人だけになり、告解を果たした。定期的に、李神父さんには、告解をしているので、ゆっくりとした気持ちで、心中を述べた。李神父さんの、言い聞かせも、あった。カトリックに、こういう秘蹟があるのは、ほんとうに有り難いと、感謝した。心は、安らかになった。生きている恵みが、わいてきた。その思いで、病者の塗油の秘蹟は、始まった。お祈りや、聖書の一部が読まれる。神妙に、ベッドの上で、ひたすら、祈った。ニンゲンは生まれ、育ち、才能を発揮して、成熟を向かえ、やがて老いて、枯れていく。ニンゲンって、ほんとうに、小さな存在に過ぎないと、思った。「長いあいだ、お世話になりました」。だれに、お礼をいえば、いいのか。神さまか。自分のカラダか。そんな単純な気持ちだった。安らかな気持ちになった。終わった後で、記念にと、写真を撮った。そうそう、撮れる写真じゃ、なかった。

2012年9月3日月曜日

入院7日目。クダも取れて、やっと歩ける。皆さんのおかげ

最近、改心して、コルベのルルドの水を飲んでいる。水は、まろやかで、口の、当たりが、違う。はっきり、分かる。もちろん飲んではいたが、常飲はしていなかった。それが、いまは、ルルドの水、1本。千草さんが度々言う。「こんど、いちばん、びっくりしたことは、トマさんが、ルルドの水を飲んでいることだよね」。聞いている本人は、全く、何も、答えなかった。意味は、あるのだが。朝、8時半すぎに診療があった。「尿管を取りましょうね」とお医者さん。「すーっと」抜いた。「鼻のサンソも、いいでしょう」「夕方で、点滴も、終わりです」。あのクダ。このクダ。みんな取れて、スッキリなって、気持ちも嬉しい。快適だ。イノチを下さった神さま、ありがとう。そして、祈ってくれた皆さん、ありがとう。ところで、お医者さんがステントを入れる前に、(多分、8月30日、木曜日に)、「尿が出なければ、『一時的に、人工透析』を考えてください」と言っていた。そこで私は、『病者の塗油』も考えてください、と周りに言ったが、この一言が、思わぬ影響を与えたらしい。「トマが、透析に」「トマが、病者の秘蹟を」「ああ、もうトマは、オシマイか」などなど。どうやら広がったらしい。午後、教会の主任神父さんが来て、「トマさん、あした、病者の塗油の秘蹟をする、ね」と告げられ、内心、びっくりした。でも病者の塗油は何度でも受けられるので、「ハイ、分かりました」とありがたく、受け止めた。秘蹟を受ける前には、告解をする。告解を聞いてもらう司祭は個人的に決めているので、電話で、その司祭に塗油の件を告げて、告解をお願いした。これで気持ちも、すっきりとなる。尿も、順調に出始めた。昨日の尿量は、3.000ccだった。今日は、3.700cc。びっくりする尿量である。しかし、あまり、はしゃぐと、夕方、夕食後になると、7度2分ほどの熱が出た。「あんまり、はしゃぐな」

2012年9月2日日曜日

入院6日目。人生に、必ず、良きサマリア人は、いる

介護に来ている千草さんが言う。「トマさんは、お母さんに結ばれているのよ。戦前、お母さんが聖母の騎士のルルドへ連れて行って、ゼノさんたちに、わたりを、つけていた。コルベ神父さまから、招かれていたのよ」と言いながら、長崎・光源寺の『飴やの、ゆうれい』の話をした。よく覚えていないが、確か、幼い子どもを残して死んだ母親が、飴やに、飴を買いに行き、幼子を育てる話だった。その話をベッドの上で、天井を見詰めながら、聞きながら、こう、思った。「そういう話が、世の中を、救い、光を当てる。希望を与える。それが、ストリーだ。内容が、どうであったか、本当に、そうであったか、そんなことは、どうでも、いい。その中に、秘められた『神秘性』に、ニンゲンの心がつながる。それは、それで、いいんだ」と。『人は、人生の途上において、沢山の人に、出会うでしょう。しかし、それらの人は、みな、裏側を、通り過ぎた人たちだった。最後に、誰に、出会うか。それが、良きサマリア人。必ず、人生に、そういう人は、いる』

2012年9月1日土曜日

入院5日目。調子が、いい。しゃべり過ぎて、8度8分

現在の病状をお知らせしますと、まず肺呼吸の減少で、鼻にサンソのクダがつながれている。次は、点滴です。特別に、炎症を抑えるクスリを入れる。点滴のクダにつながれる。それから、尿です。起きて、トイレに行かないように、尿袋のクダにつながれている。最後は、目には見えないが、腎臓から、ボウコウへ、ステントのクダでつながれている。そして、まだ最後が、あります。これが大事です。「神さまの、愛と、イノチのクダに、つながって、おります」。日中、少々しゃべりすぎて、夜には、8度8分の熱が出て、反省しております。私は思うんです。ベッドという、動けない十字架にしばられて、自分を省みれば、2つだけ、大きな体験をした。第1は、原爆です。あの廃墟と化した原爆の丘にたたずむ少年のソバに、主は居られたのでしょうか。少年は老いても、問いかけます。第2は、アウシュヴィッツのガス室の、(私は、そこに、10回も行きました)、ガス室の中じゃ、ないんです。ガス室の、10歩手前、20歩手前、50歩手前、そこを、前を向いて歩く群衆、幼児がいる、女性がいる、老人たちも、まだ彼らは死ぬことを知らない。シャワーを浴びると、だまされている、その中に、もし私が居たら、主よ、あなたは私のソバに居られますか。ここまで考えてくると、ベッドの上でナミダが出てくる。『主よ、居られますか』。老いても、問いかけます。余りにも厳しい現実です。本には書いてある。居られます、と。言葉でも簡単に言います、居られます、と。ごめんなさい。私には、もう素直には、問いかけられません。まだ死ぬと分かっていないから、です。そこに、コルベ神父が出てくるんですね。コルベ神父は、自分が『必ず、死ぬ』と分かっていた。だから、コルベ神父のソバには、主は確かに居られたのです。主と共に死ぬと分からない者には、この道理は理解し得ないと、いまは思う。原爆の丘で、パウロ永井隆先生は、(私は、小神の中学で理科を習った恩師です)、放射線医師として、被爆者として、自分は必ず死ぬと充分に分かっていた。それなのに、原爆救助に奔走した。死ぬと自覚していたからこそ、主は、共に居られたのです。信仰とは、本じゃ、ない。話じゃ、ない。肌で感じる体験なのです。だからベッドの上の、弱い私は、助けを、求めます。「主よ」「コルベ神父さまよ」「永井先生よ」