「ああ、イラッシャイ」。文学散歩・バスツアーの皆さんです。「文学って?」「遠藤周作先生の、長崎を描いた小説の舞台を訪ねる一日メンバーです」。長崎を舞台にした小説は、有名な「沈黙」「切支丹の里」「女の一生・一部」「女の一生・二部」の3部作がある。この日、皆さんは、大村の鈴田牢屋跡、長崎の善長谷(ぜん・ちょ・だに)教会を周って、聖コルベ館へ来られた。「まず、ホールへ入って、ゆっくりしてください」と、ビデオと、お話し少々。コルベ神父と遠藤先生は、作品でご縁ができた。「女の一生・二部」は、コルベ神父やゼノ修道士が長崎へ上陸する場面から始まる。大浦天主堂の前で、コルベ神父の印象は、やや暗い。ゼノさんは、おもしろい。どうやら遠藤先生のイメージは、コルベ神父は、首をうなだれた面持ちがあるようです。人生には、いろんな困難や、苦しみが沢山ある。苦しい現実のなかから、逃げるのか。いや、逃げるのではなくて、その苦しみや悲しみを、進んで引き受ける。それがコルベ神父だった。神父は自ら進んで、「ハイ、わたしを、この人の身代わりに、させてください」と、一歩、進み出る。その勇気なんですね。遠藤先生は、書いている。「地上のものを捨てないことが、彼の場合、『愛』という意味だった。なぜなら『愛』とは、捨てないことだから」(契約と脱出)。遠藤先生と対談したときに、私は愚かなセリフを言った。「女の一生・二部」に、「愛がなければ、愛をつくろう、と書いてあるが、それがコルベ神父の本当の心でなかったか、と思うんです」と、そこまでは良かったが、「彼は、そんなセリフは言わなかったかも知れませんね」。すると遠藤先生は「いや、言っていないでしょう」。いま思い出して、恥ずかしいですよ。
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