
長崎のカトリック修道士。17歳の時、原爆を受けて、この道に入る。 生かされて来た数々の恵みの中で、今年の1月、最大の試練「すい臓がん」を告知された。 「みむねの・ままに」。孤独と苦痛に耐え得るチカラを日々、祈る。 毎日、日記を書き続けて13年。今、長崎市の病院・ホスピス病棟で暮らす。 追記 2021年4月15日 午後6時48分 帰天されました。享年93歳
2012年5月31日木曜日
5月、聖母月も終わる。母親が懐かしい。祈る姿が残る

2012年5月30日水曜日
長崎を愛した作家・遠藤周作さん。文学館で2年間、展示

2012年5月29日火曜日
岡山から見学の金婚夫妻。騎士誌の愛読者です。お幸せに
2012年5月28日月曜日
新聞記者が「マリアの信仰」。6月3日の記事、お楽しみに
2012年5月27日日曜日
ルルド祭。聖母マリアは多くの人を恵みに包み込んだ
今朝は、快晴です。10時30分から、ロザリオが始まり、ルルドへの坂を、祈りながら登りました。コルベ神父がルルドを開いたのは、1932年(昭和7年)5月1日、80年前になります。いろいろな歴史があります。戦前はルルドのマリア像が度々壊された。戦争中は憲兵隊から監視され、ポーランド修道士たちは苦難でした。原爆後、被爆医師・永井隆博士は、負傷した傷をルルドのお水で癒された。永井博士は「ルルドの奇跡」の原稿を書いた。戦後の繁栄の陰には、心に苦しむ人も多かった。ルルドの聖母への祈りで力づけられた。ルルドは時代を超えて、変わりません。多くの信徒が集い、聖母マリアへの賛美歌と祈りが捧げられた。聖コルベ館にもお客さんが多かった。アメリカ軍の陸軍大佐夫妻、ポーランド出身の大学教授、大阪・境から30年間、年に2回、必ず参加している80歳の男性、心臓に器械を入れているので、5、6回休まないと登れないと嘆いていた。マリアさまは優しくこれらの人を皆、包み込まれていた。約200人の信徒が祈った。
2012年5月26日土曜日
話の裏に隠された基本的な項目に、興味がある。沢山知りたい
オバマの温泉へ行ったとき、左側の女性(先生)が色々な話をしました。その話のなかで、2つのことが心に残りました。①信仰が、有るか、無いかで、違うこと。②いま苦しくても、その苦しみには、意味があること。①の話。純心の会長さん、江角先生。亡くなる2週間ほど前、病気のため苦しかった。見舞いに来た人が「先生、苦しいときは、苦しいと言った方が、楽になりますよ」。江角先生は、「ありがとう」と感謝されて、「どうしても天国へ行きたいので、がまんします」と。私はこの話を聞いて、これこそ信仰者の言葉です、と思いました。なぜなら、以前、私が病で苦しんだ経験から、病人に対して、10の苦しみがあれば、7ぐらい忍耐して、あと3は文句を言ってもいいのだよ、と言っていたからです。やっぱり全部忍耐するのが信仰者です。②の話。この女性先生は、県立女専を出たあと、女専に残って助手を勤めた。あるとき校長と意見の対立があって、解雇になった。傷心の先生は、学校の坂を下っていると、下から初めて見るシスターが来られて、ぐう然出合ったのが、きっかけで、純心の英語の先生を30何年勤め、信仰にも入った。神さまのお恵みではないですか。本当によかったですね。あの校長さんが解雇にしなければ、また人生は変わっていたかも。私は話を聞きながら思うんです。★信仰が有るか、無いかの違い。★苦しみにも意味がある。その基本が私には、いま興味がある。話しは、あとで、付いてくる。
2012年5月25日金曜日
リフレッシュ、深呼吸をしよう。さあ、また始めよう
海風に吹かれて、さわやかな気分になった。天草灘を渡ったときの写真だ。リフレッシュだよ。ニンゲンって、現実を離れて、自然の恵みに接すると、身も心も清らかになる。気持ちも落ち着く。5月16日、泌尿器科の主治医は書いた。「平成21年(2009年)以後、膀胱ガン再発は認めない。再発確認の定期検査は必要と考える」。お医者さんも「治った」と書いてくれた。あてから3年が経っている。新しい診断書を、市役所の原爆対策課に出した。ボウコウばかり気にしていたら、今年は腎臓で3回入院し、苦慮した。だが、その後は、安定し、今は、尿もきれいになった。この分だと、今年はゲンキになるぞ。そんな気持ちが湧いてくる。聖コルベ館での出会いを楽しもう。妻子さんが来て言った。「深呼吸をしなさい」「ああ、それは賛成だな。少年の頃、肋膜炎で水が溜まったから、肺活量が低下している。やってみよう」「小崎さんは、小崎さんで、いいんです」とも言う。それも賛成だ。私は、私だけのジンセイだ。今朝の祈りました。「病気に苦しむ人、からだの不自由な人を慰め、力づけてください。ニンゲンの弱さの中に示された、あなたの力を知り、希望をもって試練に耐えることができますように」
2012年5月24日木曜日
男はつらいよ、寅さん大好き、人情あふれる生き方がしたい
3日間、クルマの運転担当だった李神父さんを紹介します。15年前に、23歳のときに東京へ来て、2年間日本語を学び、4年かけて大学を卒業した。日本へ来て、好きになった映画は、『男はつらいよ』。自分を犠牲にして、お節介をやく寅さんの人情味あふれる生き方に心を引かれたそうだ。お金やモノの追求ではなく、人間と係わり合いが持てる仕事をしたい。司祭になりたいと、気持ちが高まった。お母さん(オモニ)は、いつもロザリオで明け暮れる熱心な信徒で、応援した。お父さんは、やや不満。結婚して、家庭を築いてほしい。それでも東京のコンベンツアル会に入会した。29歳だった。再び勉強が始まる。入会後に、3回、ソウルへ帰った。その度に、父に変化が起こっている。「息子が司祭の道を歩む以上、今の信者生活では申し訳ない」。父は教会のミサにも一緒に行くようになった。いまは李さんは、司祭になって、活躍している。この度は、多忙なのに、無理いってお願いし、快く応じて、私たちを処々方々へ連れて行ってくれた。やさしい心のお若い神父さんだった。お母さんは、あるとき言ったそうだ。「普通の神父でなく、聖人の神父になれ」
2012年5月23日水曜日
天草の教会は、静かな丘にあった。キリシタンの信仰を今に
オバマ温泉・富士屋さんから、天草へ向かった。日帰りの巡礼だった。天草には、3つの教会がある。本渡、大江、崎津。写真は大江教会です。ガルニエ神父(フランス人宣教師)が造った。私が初めて天草へ行ったのは、昭和32年(1957年)秋だった。ガルニエ神父の賄い男性は、茂助です。茂助の養子が、森口等さん。等さんから、ガルニエ神父の思い出を聞いた。「お前たちが、山へ行って、危険に会うたとき、カカ来てくれ、とオラブように、罪に落ちそうになったとき、天のカカ、来てくれと、頼むのじゃよ」「儲けても、いいが、チキリの目はゴマカスナ」「ヒトのものは、盗むなよ」。神父は分かりやすい言葉で説いた。ドイツとフランスが戦争をしたとき、「新聞はどうなっているか。フランスは大丈夫か」。フランスが無条件降伏する。等さんが「神父さま、お気の毒なことになりました」「ああ、負けたか」「いいえ、負けたことじゃありません。パリの有名な建物を破壊しないために、手をあげました」。その傍で、学校の生徒が「フランス、負けた」と、はしゃいで通った。神父は「この歳になって、恥かいた」と、オイオイ泣いたと、等さんは言った。昭和16年、太平洋戦争前に、ガルニエ神父、82歳で神に召された。あの森口等さんはどうなったであろうか。消息を聞くのを忘れた。
2012年5月22日火曜日
島原半島へ。雲仙のツツジが見事。オバマ定宿、2泊3日
今朝は、幸いに快晴。最近は外出するとき、軽は運転しない。李神父さん(東長崎・教会の助任)の運転で、出かけた。2ヶ月ぶりの温泉・富士屋さんへ。途中、雲仙に登る。いま、ツツジ(ミヤマキリシマ・赤色)が見ごろです。風にも吹かれて気持ちが、いいね。連れの女性2人は、浦上教会の信徒です。女性たちに急(せ)き立てられ、後ろに見えますロープウエイ乗り場まで、ゆっくり歩いて行った。もう、足が前に進まんよ。私が初めて雲仙へ来たのは、1949年(昭和24年)秋、小神学生の卒業の修学旅行で来た。交通の便利は良くないし、乗合バスで長時間かかった。宿からこの丘まで歩いて登った。途中で、大雨に会う。雲仙の雨は、とにかく大粒だった。ほうほうの体(てい)で旅館に戻った。一緒に来た舎監のポーランド修道士は修道服の着替えがなく、浴衣を着せられ、ダルマが浴衣を着たように、奇妙に見えた。物資がない時代で、枕には紙を巻いていた。その紙に「みこころ安らかにお眠りください」と書いてあったが、韓国人のノウ神学生が、みんなの紙を集めて、鼻紙にした。彼は蓄膿症だった。神学校の炊事、カシアノ修道士さんが持たせたポーランドのお菓子『フルスチイ』が残ったので、宿の仲居さんに上げようとなった。上げる係りが韓国人のノウ神学生に当たった。彼は「恥かしい」という。フスマの所で予行練習をした。「こう、仲居さんが入ってくると、このように上げるぞ」。突然、仲居さんが入ってきた。ノウさん、ひっくり返った。ノウさんと私は特に仲良しだった。あの頃は、何をしても笑った。こんなこと書いても怒らないだろう。その頃は幸せだった、苦労はなかった、と思うよ。ノウ神学生はローマに留学して、司祭になり、韓国で宣教した。朝、独りで運転して、畑に突っ込んで、亡くなった。老人は、いろんな事を思い出すよ。
2012年5月21日月曜日
病気、苦しみに、意味がある。実例をもって教えるのが信仰

2012年5月20日日曜日
苦しみ、病気は、神のみ旨と受諾するなら、意味がある
2012年5月19日土曜日
信仰の友の遺影を抱いて、聖コルベ館へ。「来ましたよ」
東京から、2人の女性が来た。手に遺影を持っている。遺影の写真は、故・伊藤武子さん。左の武田佳代子さんと2人で、2年前の春、桜の咲く頃にいっしょに来た。亡くなった伊藤さんは、聖母の騎士のルルドへ登る坂道に、大きな、見事な桜が満開の姿を見て感動した。コルベ神父のルルドの聖母も美しかった。「毎年、桜の時期に、長崎巡礼に行こうね」。旅の仲間に、同じ教会の友人、橋本晴子(写真・右)も誘った。3人は毎月集まって、長崎の旅の学習会を開いて、準備していた。夢があった。希望もあった。3人は心待ちに、1年を過ごした。長崎の桜の開花は、3月下旬である。あと2週間で、巡礼旅行実施か、と思われたとき、あの3・11の大震災が起こった。3人の住む町も、大揺れに、揺れた。あまりにも災害の深刻さに、この年の巡礼は中止した。あと1年、学習しながら待とう。ところが、4月になって、写真の伊藤さんにガンが発症する。6月、武田さんは、聖コルベ館に、「ルルドの水を送ってください」と願った。私は早速、お送りした。8月、伊藤さんは大手術を行なった。みんなは心配する。快復を祈った。秋になると、伊藤さんはゲンキを取り戻した。「これなら長崎へ行ける。聖母の騎士のルルドへ行ける」。夢も、期待も失わなかった。2012年正月、伊藤さんから私に年賀が届いた。2月まで、3人は学習会を開いた。しかし伊藤武子さんの体力は弱っていた。それでも伊藤さんは長崎行きをあきらめなかった。3日後、入院した。灰の水曜日と、復活祭の翌日、武田さん、橋本さんの2人は伊藤さんを見舞った。「長崎へ行きたい」。それが伊藤武子さんの遺言だった。闘病のすえ、今年の4月21日に神に召された。残された2人は遺影を大切に抱えて、聖母の騎士へ姿をあらわした。「武子さん、コルベ神父さまのルルドですよ」
2012年5月18日金曜日
ワインは、もう飲めないか?肝臓か、腎臓か、お酒の行方は
2012年5月17日木曜日
今朝、静かな時間に、考えたこと。
①5月も早や、半ばになった。今年になって、3度、入院した。腎臓の結石に振り回された。一応、落ち着いたので、これからゲンキになるだろう。期待している。②ブログ(日記)を書き始めて、4年目に入った。2009年4月だった。ガンと病院で言われて、人間、どのように落ち込んで行くのか。書き留めておきたい。そのような短絡的な気持ちで、毎日、書きつづけた。考え方の変遷が、記録されてきたと自分では思う。オバマ温泉宿にも通ってきた。③今年になって、入院がつづいたので、軽は今のところ運転はしない。「もう運転は歳を考えて、やめた方が、いい」と周りの者にも言われる。だが便利性はある。④「祈りを忘れるな」「自分を捨てて、人のために尽くせ」「キリストの使命に生きよ」「その場にあって誠実に生きよ」など、いろいろ言葉では挨拶のように聞かれる。だが実際は難しい。言葉よりも、行ないが欲しい。「言葉は、もう、いいです。見せて、ください」。⑤いま、チカラを入れているのは、(1)グログ(日記)を毎日、書く。(2)騎士誌に毎月、書く。(3)聖コルベ館での出会いを大切にする。昨日は、韓国から大司教さま(89歳)が来られた。杖なしで、ゆっくり歩かれる。「祝福をお願いします」。アタマを下げた。⑥尿がじょじょに綺麗になっていく。喜びが湧いてくる。ゲンキも出る。⑦若い頃、生活や修徳面でお世話になったポーランド人司祭、ミロハナ神父。彼の「語録」を書き留めておけばよかったと今、後悔する。信仰面で役に立ったであろう。⑧お年寄りが語る、昔の信仰の実話を、聞いて、書き留めたいと思う。シスター経営の老人ホームへ行くと、聞かれそう。こんなことを考えている。
2012年5月16日水曜日
高校生たちに、もまれて、ゲンキだぞ、の叫び。よかったな
2012年5月15日火曜日
からだの調子はどうですか?サッパリと、なる。希望が出る
泌尿器科の予約診察日。タクシーで病院へ。尿を検査にまわして、廊下でしばらく待っている。この時が、いちばん気持ちが重い。からだも、心も、小さくなっている。「誰の、言うことも、聞きます」という感じになる。呼ばれて、診察室へ。「バイパス(管)を抜きましょう」「ボウコウも診てください」。ふくらみのある奇妙な椅子に、下半身、裸になって、座る。椅子がくるっと、回って、そのままベッドになる。何十回、こんな姿になっただろう。子供の頃、いたずらしたカエル、そのカエルがヒックリ返って、天井を見ている姿を、いつも思い出す。「カメラを入れますからね」「ウムーン」「管を抜きますよ。少し痛みます」「ああ、イ、テ、イテテ」。あっと言う間に、終わった。取り出した黒いゴム管を見せてくれる。「ボウコウはどうですか」「いまのところ、変化ありません」。看護師さんに、騎士誌の6月号を2冊、渡した。「お医者さんにも、見せてください」。病院を出るとき、なんだか爽やかだった。これでゲンキになるぞ、そんな希望が湧いてきた。帰りに、行き着けの理髪店で、タクシーを降りた。アタマも、さっぱりとなる。
2012年5月14日月曜日
み旨のままに。問いかけに、まことを尽くすのが人生だ

2012年5月13日日曜日
京都から来た家族。いつまでも絆を大切に。信仰が幸せ
一団が、入館した。急に、大人数が入ってくると、つながりや、区切りが分からない。それで、とまどってしまう。圧倒されることもある。「どこから来ました?」「京都から」。しばらく様子をうかがいながら、「皆さん、カトリック?」「ハイ、そうです」。その中の1人の男性が、「私の洗礼名は、コルベです」と言った。コルベが居るならと、説明にも一層の熱意が入る。コルベ神父の部屋では、特別に祈った。ビデオを見せた後、「どういう関係?」。私の右に居るのが、お父さんで、5人は姉、弟たちだという。「それはお揃いで、めずらしい」。こんなに5人揃うことはないのだそうだが、この度はみんなで長崎へ来た。お父さんが16歳のときに洗礼を受けて、お母さんもカトリックで、5人も皆、洗礼を受けた。こういう家族は、つながりがあり、温かさを感じる。私は原爆の日、母親と別れた思い出を聞かせ、コルベ神父は家族思いだったことも聞かせた。私みたいに、兄弟が全く居ない、一人っ子からすれば、兄弟が多いのは、うらやましい。仲良くしてほしいと願う。なんだか、さわやかな気持ちが残る入館者たちだった。
2012年5月12日土曜日
エリザベットさん、ご縁が深まる。日記にコメントを
2012年5月11日金曜日
神さまは常に、そばに、付いておられた。1歩、1歩に恵み
2012年5月10日木曜日
元日のエリザベットさん、千草さん、外海巡礼。山崎さん宅へ
2012年5月9日水曜日
元日のエリザベットさん、「来たーッ」の感じ。再度、面会
2012年5月8日火曜日
子供の日。いい写真でしょう。めったに撮れない1枚
2012年5月7日月曜日
1年ぶりの再会。津和野の清さん。教会・資料館の案内人
2012年5月6日日曜日
子供の日。山の養護施設で過ごす。顔なじみに出会った
2012年5月5日土曜日
岡山の青年は、大晦日、閉館まえに滑り込みのパウロだった
2012年5月4日金曜日
日曜ミサ説教で、小崎修道士の話が出たと教えた訪問客
2012年5月3日木曜日
憲法記念日。ポーランド国も憲法記念日だった。平和の教え

2012年5月2日水曜日
ふしぎなこと、考える。なぜ、なんだ?ああ、生かされている
