テレビの画面で、哲学者が言った。「いま、自分は、この時点で、何を、成すべきか」。自分への問いかけである。そのことは、いつも私も考えている。自分は何を成すべきなのか。残り少ない人生に、後悔しない生き方とは何か。成すべき何かは有るのか。知りたい。哲学者は、「その問いに対する答えは、自分の内から出てこない」という。何を、すべきか。「問いかける者がある。その問いかけに、まことを尽くして、答えていく。それ以外にない」と。問いかける者とは、私たちの信仰でいえば、神であろう。その声に、「み旨のままに」と応える受諾であろう。進めるか、退くのか。「心を騒がせるな」と、その問いかけは、まず語りかけているように思う。「み旨のままに、まことを尽くして、応じていくのが、私の人生だ」。とは言うものの、現実は、そう甘くはない。騎士誌の6月号に「み旨のままに、春」という記事を書いた。いつも思う。「問いかける者」を、もっと強く感じたい。それなのに、自分は何を成すべきか。後悔しない生き方は、何か。いつも問いかけで終わっている。いまを、セイ一杯、生きること。現実は難しい。膝は、むくんで、まともに歩けない。耳も遠くなったので、食卓での会話も聞き取れない。不便さ、いっぱい。今を生きているのは、惰性でないのか。それでも、生かされているのは、ありがたい。目をさましたい。遅々と進まぬ、か弱い行動であっても、見ていてくださる御者がいる、と信じたい。問いかける御者は、私の名前をご存知だ。希望をもって呼吸しつづけたい。足腰、痛んでも、歩むしかない。きっと、輝くものが前方には、ある。今日も1日、喜びのなかで生きていけそうだ。
「聖母の騎士」6月号「み旨のまま、春」拝読。涙が出ました。私は痛いことが嫌いなので(誰でもそうですね!)よ~く耐えられたと思って…神様からまだまだご奉仕を託されているんだなぁ~と思いました。ご自愛下さい。
返信削除騎士誌6月号、私も読みました。
返信削除10年前、洗礼を受けた時の、神父様の言葉を思い出します。
「み旨のままに・・・一見、受動的で弱い者のように見えるが、神を信頼してそういう生き方の出来る者は、実は強い。
カトリック信者には、そういう底力がある。」
日記を通して、また先日実際にお会いして、
修道士さんの中に、本物のカトリック信者の底力を感じました。
私も、いつの日か、
周囲の人にそう感じてもらえるようになりたい。