長崎のカトリック修道士。17歳の時、原爆を受けて、この道に入る。 生かされて来た数々の恵みの中で、今年の1月、最大の試練「すい臓がん」を告知された。 「みむねの・ままに」。孤独と苦痛に耐え得るチカラを日々、祈る。 毎日、日記を書き続けて13年。今、長崎市の病院・ホスピス病棟で暮らす。 追記 2021年4月15日 午後6時48分 帰天されました。享年93歳
2012年5月22日火曜日
島原半島へ。雲仙のツツジが見事。オバマ定宿、2泊3日
今朝は、幸いに快晴。最近は外出するとき、軽は運転しない。李神父さん(東長崎・教会の助任)の運転で、出かけた。2ヶ月ぶりの温泉・富士屋さんへ。途中、雲仙に登る。いま、ツツジ(ミヤマキリシマ・赤色)が見ごろです。風にも吹かれて気持ちが、いいね。連れの女性2人は、浦上教会の信徒です。女性たちに急(せ)き立てられ、後ろに見えますロープウエイ乗り場まで、ゆっくり歩いて行った。もう、足が前に進まんよ。私が初めて雲仙へ来たのは、1949年(昭和24年)秋、小神学生の卒業の修学旅行で来た。交通の便利は良くないし、乗合バスで長時間かかった。宿からこの丘まで歩いて登った。途中で、大雨に会う。雲仙の雨は、とにかく大粒だった。ほうほうの体(てい)で旅館に戻った。一緒に来た舎監のポーランド修道士は修道服の着替えがなく、浴衣を着せられ、ダルマが浴衣を着たように、奇妙に見えた。物資がない時代で、枕には紙を巻いていた。その紙に「みこころ安らかにお眠りください」と書いてあったが、韓国人のノウ神学生が、みんなの紙を集めて、鼻紙にした。彼は蓄膿症だった。神学校の炊事、カシアノ修道士さんが持たせたポーランドのお菓子『フルスチイ』が残ったので、宿の仲居さんに上げようとなった。上げる係りが韓国人のノウ神学生に当たった。彼は「恥かしい」という。フスマの所で予行練習をした。「こう、仲居さんが入ってくると、このように上げるぞ」。突然、仲居さんが入ってきた。ノウさん、ひっくり返った。ノウさんと私は特に仲良しだった。あの頃は、何をしても笑った。こんなこと書いても怒らないだろう。その頃は幸せだった、苦労はなかった、と思うよ。ノウ神学生はローマに留学して、司祭になり、韓国で宣教した。朝、独りで運転して、畑に突っ込んで、亡くなった。老人は、いろんな事を思い出すよ。
やっと休暇、よかったです。
返信削除ゆっくり休んで、楽しんできて下さい。
かわいそうなノウ司祭さん。ご紹介のおかげでこれからお祈りの友人になります。実は韓国語を勉強してみますからノウさんのご指導を願いたいと思います。もう言葉を暗記する才能が少ないです。あまり進歩しないだろうと思います。しかし、学びたいです。雲仙の思い出が浮かびました。そちらのジャガ芋(フライ、2個)、卵も覚えています。ツツジ(ミヤマキリシマ)の花を探してみました。見つかりました。きれいですね。カシアノ修道士にお手紙を書いたことがあります。ご返事も送っていただいたこともあります。お墓は小長井の修道院の土地にあるでしょう。
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