★小さな旅は、長崎を出て、広島へ。さらに鳥取へ。一週間の旅は終わりになった。★広島で、お世話になった、エンゼル・キャブの八智子さん。写真は、自宅で写した。後ろの掛け軸は、登明修道士の作。ブドウの墨絵です。八智子さんは、ご主人と、大きな会社を抱えて、その背後には沢山の社員の家族も抱えて、大変なご苦労がある。その八智子さんに問うた。「人と人と、うまく、やっていくには、あなたの経験から、どう生きたら、いいのか?」。八智子さんは答えた。「ギブ・アンド・テイク」と。つまり「与えて、そして、いただく」。与える姿勢、何でも、いいのです。従業員も、事業主も、お友だち。その時々によって、その人が欲しい、親切、時間、お金も、物資も、与えます。結果的に、戻ってくる。自分も幸せになる。自分が困ったとき、なぜか、うまく事が運んだ経験があるでしょう。自分だけが、トクしようと、思うな。母(ヨシエさん)は、「ママを、だましても、だまされない御者(神さま)が居るのよ」と教えた。難しいことの中でなく、やさしい言葉のなかに、人間の生き方があるような気がします、と八智子さんは語った。広島で得た教訓だった。★ところで昨日、鳥取で、愛徳修道士会のベルギー人、日本人の修道士の小さな修道院を訪ねた。親しく会話をした後、廊下の壁に、修道会の紋章があり、ラテン語で、「DATE, ET DABITUR VOBIS」と書いてあった。これぞ「与えよ。さすれば、汝ら、与えられん」。この言葉じゃないですか。このラテン語を見たとき、「ギョ、ギョ」っと、心に衝撃が走った。広島の八智子さんと、鳥取で見事に、つながった。人生には、こういう思いがけない、つながりがある。「出来事を、つまみ取って、つなぎ合わせて、1つの流れをつくる。その出来事が面白いのです」。トマの文章は駄文ですけど、文の本心のは、それがあるのです。つなぎ、を書いているのです」。★この度は、広島と、鳥取の小さな旅だったが、沢山の人から多くの恵みを与えられた。人生に最も大切なものは、何か。あなたのホホエミ、あなたの手の温もり、それを「与えること」。さすれば、恵みは必ず、あなたに戻ってきます。この旅で得た人生の教訓でした。それを実感、まとめた旅でした。86歳、あら、そうなの。若いよ、言われる。それが一番、嬉しい。旅で出会った皆さん、ありがとう。与えてくれた人びとよ、ありがとう。「ホホエミ、温もり、与えられる宝」は、これです。いま、旅の終わりのモットーは、「無償で、与えよ、さすれば、あなたも多くの恵み、幸せを受けられる」。心に秘めました。★朝、7時5分に、鳥取を、特急で出発しました。みどりさんが1人、見送ってくれた。「さよなら」。小さくなるまで見守った。岡山で新幹線に乗り継いで、九州へ入る。午後1時50分には、長崎へ着いた。「人生には、多くの困難、悲しみ、辛さがある。いまは暗い道だが、祈りつつ、捧げつつ、耐えて行けば、道の向こうに、必ず、幸せが、ある。希望をもって、あすから、また始めよう。★無事に、念願の小さな旅を終えて、聖コルベのお姿を仰ぎ見た。応援してくださった読者の皆さん、ありがとう。
長崎のカトリック修道士。17歳の時、原爆を受けて、この道に入る。 生かされて来た数々の恵みの中で、今年の1月、最大の試練「すい臓がん」を告知された。 「みむねの・ままに」。孤独と苦痛に耐え得るチカラを日々、祈る。 毎日、日記を書き続けて13年。今、長崎市の病院・ホスピス病棟で暮らす。 追記 2021年4月15日 午後6時48分 帰天されました。享年93歳
2014年6月30日月曜日
2014年6月29日日曜日
小さな旅⑥鳥取の日曜日。ミサで祈る
★鳥取の教会で、皆さんと、ミサで祈りました。ミサの終わり、主任神父さんが、紹介してくださった。「長崎の聖母の騎士です。聖コルベ館につとめております」。コルベ神父の身代わりの愛を少し語りました。ミサが終わって、皆さんと交流が持てました。おみやげに、大きなカステラを持参した。シスターの1人は、「入会の前から、ずーっと昔から騎士誌の愛読者です」と、嬉しい報告でした。「長崎のカステラは、おいしい」と喜んでもらえた。色紙を20枚を持参して、皆さんに購入してもらった。「お金は、いま鳥取教会を改装しているので、献金します」と捧げました。「五島に行ってみたいです」と切望される男性もいた。「ぜひ、来てください」。和気あいあい、でした。★午後から、愛徳修道士会を訪問した。2人のベルギー人修道士と、1人の日本人修道士が祈りながら、宣教している。1人の修道士は、耳が遠くなって、旅行が難しく、休暇でも故郷へ帰れません。日本の地に眠ります」と言いながら、日曜日、教会ミサでは、オルガンを弾いているのです。1930年生まれ、6歳のとき、修道士会の学校で学び始めて、修道士の先生に心を惹かれて、そのまま修道士になった。訪問したとき、ベルを鳴らしても、誰も出ない。修道士は、小聖堂で、ひとり祈っていた。窓から、祭壇の灯が見えた。「なーんだ。いるじゃないか」。気がつきて、中へ入れてくれた。介護で働く修道士も帰ってきた。3人の修道士が揃って、皆さんと語り合い、慰められた。「えらい、なあ、の一言です」。こういう人の祈りが、世の中を、社会を、世界を支えていると、確信しました。ありがとう、修道士さん。「ああ、オレも、修道士だった、な」。★夜は、最後の会食でした。主任神父さんとご一緒に、9人の皆さんが居酒屋に集まり、大いに会話が盛り上がりました。中村医師お夫妻も居られた。長崎での出来事や、信仰の秘話など、熱心に聞いてくださり、気が付けば、楽しく3時間が過ぎていた。毎回の、毎日の日程を計画実行してくださった、みどりさんご夫妻、大変、お世話になりました。いい思い出がイッパイ出来ました。ああ、本当に、よかった旅でした。あすは、お別れか。惜しまれます。長生きすれば、いいことも、あるよ。写真は、愛徳修道士会の修道院で、皆さんと、写す。
2014年6月28日土曜日
小さな旅。鳥取⑤カラダを調べる。休養。
★鳥取には、カトリック信者さんで、泌尿器科の専門医、中村先生がいます。何度か、お会いしている先生です。1度、現地で、カラダの相談をうけるのも、目的の1つでした。医療法人のクリニックなのに、その規模の大きさに、おどろきました。午前中、みどりさんが付き添えで、診察に行きました。尿の採取、血液の採取、中村先生の診察、エコーなどと合わせて、病状を伝えた。「いま1番の心配事は、これまで維持した腎臓の機能が低下しないことです。60年、左の腎臓だけで働いているのですから、ね。腎臓も疲れます。でも、よく頑張っています」。中村先生の見立ては、年齢を考慮しても、あなたの腎臓は、十分、働いています、と言われた。安心しました。中村先生と、鳥取教会で写真を撮りました。左は、主任の野嵜(のざき)神父さん。★鳥取での宿は、3年前と同じ、JR鳥取駅の構内にあるホテルです。歩かなくてもいいので、利用しています。午後は、ホテルでゆっくり休みました。フロントからパソコンを借りて、この文章を打っている次第です。その後、しばらく休養しました。夕食は、また何人か集まるみたいですよ。皆さんに、支えられています。ありがたいですね。★夜の食事処は、「いわしや」でした。3人だけの夕食でした。毎度、食事の世話になっております。トビウオ(あご)の卵が旬で、おいしいでした。国産・ウナギもあった。午後7時には、ホテルへ帰った。隣は、コンビニ。その隣は郵便局。便利なところです。
2014年6月27日金曜日
小さな旅④鳥取の海岸を船で遊覧。施設を訪問。
★鳥取では、協力者が多い。我も、我もと助けてくれる。日中の担当は、洋一さんの運転だった。どうしても鳥取の海岸を見せたいという。みどりさんも同行した。鳥取の東部の浦富(うら・どめ)海岸にむかった。遊覧船がつないである。「これに乗る」という。「え?初めてだよ。こんな船、乗るの?」。潮風に吹かれて、船は出ていく。海から見る島々、岩石など、確かに、五島列島の海岸の岩とはちがうよ。鉛筆を重ねあわせた岩が、横倒しになって、豪快さを表している。さすがに海に慣れた長崎人も感心したよ。50分ばかりの航海だった。★浜辺の食事処で、おなかを満たした後、みどりさんが、薬物依存症者の回復支援施設に案内するという。草しげる山手に、2階建てがあった。ちょうどミーチングの時間で、皆さんが円になって話し合いがおこなわれていた。奥の部屋で、施設長さんから説明をうける。これも勉強の1コマです。聖コルベ館にいたら、ここへ来るなんて、想像もしないでしょう。施設長さんのご苦労に、アタマがさがる思いだった。アルコール依存や、薬物の依存からの脱出は、現実はきびしい。いくばくの献金をさせていただきました。★みどりさんのお宅で、休養をとる。しばし眠りました。カラダは大事な資本ですからね。★夜は、鳥取の西南にあたる、湖山(こやま)池のほとりにある吉岡温泉へ向かいました。1千年からつづく素朴な湯治場です。お湯の熱い温泉です。夜は、宿屋で会食があった。鳥取の主任神父さんもお出でになり、みどりさん夫妻と、みどりさんの家のお隣さんの男性・登さんと、5人の集いで、楽しく笑い、飲みました。鳥取に来たら、気持ちが、心境が、ガラリと変わるんですね。とにかく、毎日、皆さんの温かい支えに、感謝しております。「疲れなかったか、って?。どーやら、カラダが、慣れたみたいです」。島めぐりの船上で、右が洋一さん。
2014年6月26日木曜日
小さな旅③ 広島から鳥取へ。砂丘のラクダ。
★朝、広島から新幹線で一気に岡山へ。特急に乗り換えて中国山脈を、10以上のトンネルで越える。午後2時前にJR鳥取駅に着いた。旅の終わりの目的地だ。鳥取教会のみどりさんと洋一さんが出迎えてくれた。3年ぶりの再会だった。★鳥取といえば砂丘でしょう。みどりさんの自宅(電機店)で休養をとった(写真)あと、砂丘へ向かう。見事な砂丘。圧倒される。3年前にも来たが、ラクダはいなかった。今度は、居るよ。「じゃ、記念に乗ってみよう」。ラクダ(栄吉君・10歳・若いので人気がある)に乗って、砂丘を一巡する。けっこう、揺れるんですね。ゆられ、ゆられると、胸のおくに眠っていた闘心が燃えたよ。長崎を出るときは不安がイッパイで、旅は大丈夫かと、ためらう気持ちもあったが、ラクダにも乗れるじゃないか。いい気になって、「シャシン、とって」と、 昔の元気が湧き出てきたよ。★長崎を出るときのモットーは、「行動しなければ何も生まれない」気丈さがあった。旅に出て、ラクダに乗った後のモットーは、「やせても、枯れても、老人とは言われない」。活力がもどって、平常になった感じがした。★洋一さんが、「砂丘と、日本海が一眺できる、山頂のレストランへ行こう」という。山に登った。眺めが、いい。日本海の先に北朝鮮がある。父はその地で眠っている。青い海を見ながら祈った。父の墓は、骨はどうなったであろうか。あきらめしか、ない。★この度、小さな旅へ出る時、「どこへ行く?」と聞かれる。「鳥取だよ」と言えば、「なんでトットリなんだ?」と不思議がる。海があるじゃないか。何か引かれるものが有るんだよ。みどりさん夫妻も居る。みどりさんが女子高生のときから、騎士誌を通じて交流があった。歴史は長い。★夜食は港の汐見亭で夫妻と3人で会食。時期遅れの、松葉ガニの御ちそうになり、会話がはずんだ。夜、8時半にはJR鳥取駅構内のホテルへもどった。「ラクダに乗ったとは、オドロキだったよな」。みどりさんが、介護の役だった。
2014年6月25日水曜日
小さな旅② 広島に滞在。カトリック墓地参り。
★広島エンゼル・キャブの会長、ヨシエさんが亡くなって、1周忌を迎える。お墓参りを望んだ。午前11時に、娘の八智子さんが車で広島JR駅構内のホテルへ迎えに来た。「母はこの花が好きだったのよ」。車中にカサブランカの生花があった。★広島カトリック墓地は廿日市の山手にある。四角い石碑が幾重にも山全体に重なっている。お父さんと、お母さんのヨシエさん、 20才で亡くなった妹さん、3人の名が一緒に刻まれていた石碑に、花をかざり、心をこめて祈った。墓碑には、知っている神父さんの名前もあった。写真は、家族のお墓と、八智子さん。★広島に来たからには1つの実話を思い起こしてみよう。敗戦で、原爆の廃跡に立つ若い父と母ヨシエさんは、これからは車社会が来ると、2台のタクシーから会社を立ちあげた。その後、娘(八智子さんの妹)の死と、父の死という、大きな苦難はあったが、苦しみのおかげで、家族はカトリックの洗礼を受けることになった。信仰が、人生と、経営の支えとなったと八智子さんは言う。★八智子さんはムコさん・憲嗣さんと一緒になって2代目を継ぎ、名称もエンゼル・キャブと改名して、タクシーの他に、各種のバスを含めて、いまでは大世帯となった。母ヨシエさんは91才まで会長をつとめ、会社を見守った。昨年7月、七夕が近づいたとき病床にあり、看護婦さんが、「何か願いごとをつけて下さい」と頼んだ。ヨシエさんは、 「何んにも、ございません」 と、すべては、おまかせして、神の御心にゆだねた。安らかに、七夕の前日亡くなった。★トマは、ヨシエさんと40年来のご縁がある。いろいろお世話になった。ポーランド巡礼も2度ご一緒した。墓参りは、小さな旅の1つの願いだった。★お参りの後は、JR広島駅構内のホテルに、早々と、午後3時には帰った。ゆっくりとした夜の時間をホテルで過した。★体調に配慮して、良好に、快適に旅をつづけております。
2014年6月24日火曜日
小さな旅へ出る① 長崎から広島へ。
★小なさ旅に出る。大きな冒険だった。正月は、沖縄へ出かけた。しかし3月、4月になって、急に体力の衰えを感じた。このままでは暗い未来しかない。体力、気力を試すために、小さな旅に出てみよう。いよいよ、その旅の実行だ。午前9時50分、長崎をJR特急で出た。博多で、新幹線に乗りつぐ。早やーイ。午後1時30分には広島に着いた。「なーんだ。こんなに、ラクなのか」。★旅に出る前は、不安や心配が山ほど有ったが、列車に揺られ風景を見ると、心のおくで眠っていた旅への意識が湧いて来るのを覚えた。元気が出てきたわけです。★広島では、駅の構内にホテルを取った。歩かないためだった。2時間ほどホテルで休んで、携帯を取って、広島の知り合いの家族に知らせた。★夕方、広島エンゼル・キャブの社長・憲嗣さんが、ご自分で車を運転して迎えに来た。自宅に招かれた。奥さんの八智子さんが待っておられた。木造の立派な家で、構えた床の間に、登明修道士画の墨絵「ブドウ」の掛け軸がかけてあった。客人を迎える心の「おもてなし」に感激した。なつかしく作品を見る。「よー、書けているな。その頃は筆力があった」と自画自賛した。★夕食は薬研堀で、夫妻に、ごちそうになる。鉄板焼きの老舗だった。★その夜は疲れもなく、ゆっくりと、早めに眠った。★人の気持ちとは、ふしぎなものですね。旅に出る前、何日も、また近づくに従って、「行けるだろうか」「行けるか、やめるか」と、真剣に迷っていた。ジメジメした気持ちだった。それが列車に揺られて実行すれば、何のことはない。「これなら、帰りの鳥取、長崎間も、大丈夫だ」と、気持ちは晴れ晴れとなった。不安も、心配も、何もない。旅を楽しもう。「出て来て、よかったよ」。自宅で、八智子さんと写す。床の間に、掛け軸がかけてあった。
2014年6月23日月曜日
故・水浦久之1周忌。ホンネ語る親友。平和学習。
親しい友人でした。故・水浦久之、亡くなって1周忌がきた。6月16日が命日でした。81歳と11ヶ月。彼を偲びながら、志願院の小聖堂で、ご家族、友人など少人数が集まって、ミサを祈り、彼の思いに浸りました。水浦久之については、思い出はイッパイある。本も数冊出している。なかでも「神父発見」は、いい題目だった。普通、信徒発見と、言いなれているが、そうじゃ、ない。隠れた信徒たちが発見したのは、待ちに待った司祭であり、ローマからの船であった。着想の転換だ。アイデアがよかった。ここには彼の、文学の才能が光っている。★トマが神学校に入ったとき、彼は既に神学生だった。少年の頃から、よく知っている。彼の業績を整理してみよう。五島で生まれて、戦争中、長崎・小神に入って、中学を卒業した。修道士になったが、心を整理して、社会へ戻った。生計を立てるために、浦上天主堂の足元に、クリーニング業を経営した。パパさまが長崎に来られたとき、浦上・小教区の信徒会長を務めていた。パパさまをお迎えするために、浦上天主堂を改装しようと、皆さんに呼びかけて、協力を得て、今の天主堂に美しく仕上げた。毎朝、天主堂から平和公園へ散歩するのが楽しみの彼だった。働きながら、好きな本を沢山読んだ。文学を志した。修道士のとき、騎士誌の編集をしたのも、永井隆博士の原稿係だったことも、自慢となった。彼は、しばらく勤めた聖母の騎士を「たましいのふるさと」と大事にして、縁を切らないように心がけた。家業のクリーニング業は早々に引退し、余生は騎士社の奉仕生活におくっていた。★彼を思うとき、トマには1つの課題が浮かぶ。「信仰生活をしているのに、なぜ人は弱いのか」。彼の小説の文脈にその片鱗がなかったか。彼は亡くなる前に、トマに色紙を頼んだ。言葉の指定は、「仰せの通り、我に成れかし」。その心境で最後の苦難を受け止め、人生を終わった。フランシスコ・ザビエル水浦久之、ホンネを語れる、他には居ない親友であった。安息を与えてください。★中学生たちが平和学習にくる。「コルベ神父を学びたい」と願う。聖コルベを教えることは、愛をおしえること。それは本や資料からではなく、心と心の触れ合いで、少年少女たちに、愛を近づけていく。これは至難の課題です。大きな目標も、だが、周りの人、友人、家族、その人たちを助ける、支える、許してあげる、その小さな行為の積み重ねが、平和につながると、語った。「長崎のコルベ神父」の名前を覚えてほしい。
2014年6月22日日曜日
聖コルベ館の見学者たち。巡礼は祈る心、反省の心。
見学にきた3人の女性たち。お互いに、フランス・ルルドや、イタリア・アシジの巡礼で、お友達になったそうです。久しぶりに、再会して、アシジでお世話になった神父さんとも出会って、喜び合いました。巡礼へ行けば、心が通じるのですね。聖コルベ館で、ゆっくり時間を過ごしました。トマの、「被爆の証言・コルベ神父の心」のビデオも、見てくれた。「いま、心に浮かぶ言葉は何ですか?」の問いに、「出会いは神さまの恵みです」とか、「愛には恐れがない。おそれがあるときは、愛でなし。心にとらわれている。自分のカラに閉じこもる。それは愛ではない」「愛はエネルギーです」とも言った。分かち合いですよ。心の栄養ですね。ルルドや、アシジが懐かしい。お恵みもイッパイ有ります。よい巡礼をつづけてください。★駄文ですけど、書いているのは、説教ではない。一連の物語です。文章として成り立っておれば、それで結構です。出来事を、つまみとって、つなぎ合わせて、一つの流れをつくる、その出来栄えがオモシロイのです。★ほんとうに信仰を持っていたら、生活は変わるか。信仰の薄い者よ、と主から言われる。信仰を持っていたら、不安はなくなる。おまかせします。良くても、悪くても、耐えていける。★人は目で見る。神は心で見る。やっぱり、人の目が気になる。認めてもらいたいからでしょう。立派なものを持っているね。良しと、したい。自信があれば、生活にゆとりができて、前を向いて歩けそうです。
2014年6月21日土曜日
昨夜の、3つの電話の物語。情報は早目が、よし。
6月は、イエスの聖心の月です。聖母の騎士・聖堂のイエスの聖心のご像。①夕方、電話があった。天草の幸男さんからだった。「来週、五島へ巡礼に行きたい。初めてなので、現地で、誰か、いい案内役を紹介してほしい」。トマの答えは、こうです。「そんなに急に言われても、困るな。まあ、考えてみるよ」。以前は、よく行った五島だったが、最近は行かないので、案内役は即座には浮かばない。即答できなかった。②数分して、次に又、電話があった。市内の照美さんからだった。「数日前、ブログに載せていた最後の晩餐(墨絵)ね。作者が分かりました。北海道の小樽の美術館から、作品集のコピーが送られてきた。日曜日に持ってきますから、ね。それを見れば、わかるでしょう」「ありがたい。作者が、もう分かったの?早ーィ」。情報を集めるのが、照美さんは、うまいね、と感心した。時々、メールで励ましてくれる。そこで、(そーだ、あの、案内役のこと、聞いてみよう?)。照美さんに、天草の幸男さんの願いを伝えると、「その人のこと、以前、トマさんのブログで読んだことが、ある。わかったわ。当たってみる」。③その夜、夕食後、3度目の電話があった。市内の照美さんからだった。「五島での案内役が見つかりました」「え?、もう見つかったの?早-ィ」。情報の速さに、びっくりした。照美さんは、情報アンテナを沢山、立てていると感心した。それに、即答するのも、感心や、な。照美さんが言うには、「自分が知っているシスターの両親が、五島に居られる。シスターさんを通じて、そのご両親にお願いしたら、快諾してくださった」。シスターのご両親の案内役なら、安心だし、確実だよね、とトマは喜んだ。そこでトマは、照美さんに聞いてみた。「五島に巡礼に行ったこと、あるんでしょ?」「それが、ないのよ」。トマはちょっと、びっくり。「え、なに、五島に行ったこと、ない?そんなこと、ある?考えられん。確かに、行かない人は居るよ。でも、ね。照美さんが行かないなんて、考えられん」と、なにやら、みょうに(五島へは、行きなさい)と燃えてきた。すると最後に、照美さんの言葉。「トマさん、お酒に、酔っているの」
2014年6月20日金曜日
聖コルベの遺髪。43年展示。今朝から、旅への準備。
聖コルベの小聖堂に、コルベ神父の遺髪が展示されている。コルベ神父が1971年に福者の位にあげられたとき、ローマから贈られた。大切にされてきた。43年です。小さなケースに入っている。「上のほうに、赤い○、3つある。それに、つなぐように、黒い毛が、1本だけ、横に、のびる。これが遺髪です。見ても、わかりにくい。ケースは代わってはいないが、もう少し、わかるように、会計の修道士が苦労して、光が当たるようにした。コルベ神父の遺体は、アウシュヴィッツ強制収容所の焼却場で、すべて燃やされたので、遺髪は、ごく少ない。これからも貴重な遺髪を、見守っていく。★朝から、旅行へ向けて準備へ。まず医院へ、1ヶ月のクスリを受け取りに行った。次に、駅前の旅行店・JTBで、「長崎から、広島、鳥取までの往復のJRキップ」を求めた。ホテルも決めた。いずれも、駅のそば。気持ちは、じょじょに旅行の雰囲気に高まっているが、いくばくの不安も残る。「でも、書いたでしょう。行動しなければ、何も分からない。結果は出ない。がんばって足を、腰をあげてみよう」。その気持ちで、理容店へも入った。散髪して、気分も爽やかになりました。来週の火曜日に、出ます。
2014年6月19日木曜日
入浴の介護。ヘルパーさんの助け。週2の楽しみ。
毎週、2日、入浴の介護に来てくれるヘルパーさん(男性)です。親切で、作業が丁寧な、若者です。入浴の時間は決まっている。午後2時30分から、1時間だけです。介護を受けるようになって、2年が経過しました。入浴介護と、部屋の掃除をしてくれる。今では入浴が楽しみになった。★先日は、フィリピンから司祭と観光社の1団が、聖コルベ館へ見学に来ますと、予約が入った。フィリピン人のため、ビザが解消されたので、旅行者が増えるだろう。その先発隊として、見学に来るそうです。予定は午後2時頃、ああ、ちょうど入浴に重なっていた。見学者はいつ来るのか。予定がずれると困ります。心配していたが、予定よりも早く来られたので、案内して、無事終わりました。ホッと、しました。入浴時間には、差支えがなかった。よかったよ。★ヘルパーさんとの語らいが楽しい。健康状態や、ブログによる近況など、聞いてくれる。ヘルパーさんは、男性が2人いて、交代で来てくれる。2,3年前は、体調が不具合で、1人では入浴ができない状態でした。仲間の修道士から、介護を受けていた。その修道士が転任になったので、その延長として、介護を頼むことにした。要・支援2、です。定期的な入浴のおかげで、カゼもひかず、この2年間は体調も安定して、感謝の日々を過ごしております。
2014年6月18日水曜日
ジッと座って、ダリアを見つめて、思いました。動け。
2014年6月17日火曜日
聖コルベ館の墨絵『最後の晩餐』。今日の日付・作。
聖コルベ館で、新しい発見があった。訪ねてきた東京の神父さんから、声をかけられた。「ホールの入口に、墨絵が掲げられているね、今日だよ、ね」「え?なに?最後の晩餐の、墨絵があるけど」「あの絵、今日、描いたんだよ」「え?何んで?」「6月17日、と書いてある」「ホントウ?」。ふしぎに思って、2人して見に行った。いつもホールに出入りするとき、この墨絵の大きな額の前を通る。そんなこと、全く気にしていなかった。言われて初めて、いま確認した。「一九九○・六・一七作、聖丈」とあった。絵のおおきさは、縦が、90cm。横が、150cm。24年前の今日じゃないですか。大きな発見でした。トマ修道士がここに着任したのが、1991年4月からであった。その前から架かっていた。誰が、どのようにして、ここに掲げたのか、分からない。何気なしに、ここを日々通っていた我を反省した。この日付を見つけ、急に、この絵が脚光を浴びた感じがした。まじまじと、あらためて眺めた。見慣れた晩餐の絵の通りに、配置している。キリストの両の手のひらが、天を向いている。表情が悲しそうだ。これから始まる受難。「この重荷を・・・み心のままに」。覚悟を祈られたに違いない。この絵を見ながら、さまざまな願いも浮かんだ。「も旨を求めて生きる」「人びとと共に喜び、共に苦しむ」「キリストの心で人びとに仕える」などなど。いずれも実行は、難しいことばかりだ。絵を大事にしよう。聖丈とは誰だろう?作者を知りたいと思った。記録に留めておくことも必要だろう。人の記憶はいつしか忘れてしまう。トマも墨絵は描くが、このような大作は描けない。最後の晩餐の風景を、墨絵で、表現した大胆さ。あらためて、見直した作品でした。大事に守っていきたい。教えてくれた神父さん、ありがとう。
2014年6月16日月曜日
映画の中の嵐。人間の心にも嵐はふく。安らぎを。
聖コルベ館で座っていると、1人の神父さんから声をかけられた。「いま、市内の映画館で、『ノアの箱舟』を上映している、いっしょに観に行かない?」。「ウムー、そうね」と一応ためらったが、「よし、行こう」。誘ってくれた神父さんと個人的に語りたい気持ちもあった。★ひさしぶりに、大きな色彩・画面に、心が揺さぶられた。高音の音楽で、耳が痛くなったよ。2時間15分。長い映画だった。★この映画を見て、ふと我に帰ったとき、胸に浮かんできたのは・・・・それは、愛と、イノチ。そして、清さと、改心だった。ジンセイって、究極は、この4つではないかとも思います。愛とイノチは最も大切です。何事にも、このテーマがでてくる。映画にも、根底には、愛とイノチがあった。更に、自分の生き方でいえば、清さと、改心でしょう。清くありたいと願うものの、人間は弱い。誰もが落ちる。悪い結果になっても、決して悪いのにと思ってしている訳ではないでしょう。良いことと望んで、行なっているが、結果は良くないことも、ある。人間を立ち直すのは、改心です。素直な、改心、そう思います。★それに、もう1つ、付け加えるとすれば、「この1日、平穏に過ごした、感謝して生きよう」。この願いがあります。
2014年6月15日日曜日
アジサイのそばで、少女への思い。声をかける人に。
開館まえに、庭で目についた。アジサイ。全体が、花かと思ったら、そうではない。真ん中に、小さなツブツブがある。色紙にアジサイも描いているので、よく見た。いろいろなアジサイがあるんだな。写真を撮っていると、向こうから、家族の1団が近づいてきた。★アジサイを離れ、ころ合いをみて、こちらから声をかけた。「おはよう。今からミサね。お祈りして、ね」。大人たちは、それぞれ返事をしたが、少女は黙っていた。恥ずかしかったのだろう。すれ違って、ふりむくと、母親らしい人が、なにやら少女に告げていた。内容は聞き取れないが、「返事をしなさい」と諭していたのだろう。少女は機嫌がよくなかった。その仕草が見えた。「おこられて、かわいそうやな。でも、挨拶は必要だし」。これから修道服を見れば、少女は一人のとき、どんな心境になるか。そう考えるのは、思い過ごしだろうか。幼い頃の体験は、長く尾をひくに違いない。今朝のちょっとした出会いが、心に小さなキズをつけた。自分が小さい頃を思い出した。母、1人。子、1人で育った自分。子供の頃は、母の後ろに隠れて、前に出なかった。人見知り、というのか。少女よ、積極的に、前向きに、声を自分から掛ける子になってください。今朝の祈りは、それだった。
2014年6月14日土曜日
旅人よ。女子中学生よ。トマさんよ。前向きに。
午後から、市内の女子中学生20人ほどが、平和学習に来るという。玄関で待っていた。そこへ1人の男性が来た。「五島から。史跡めぐりです」。長崎オラショの旅を見せる。うれしいなあ。「もう1冊、買いなさい」と、西九州キリシタンの旅を勧めた。買いましたよ。でも室内を案内できずに、ごめんなさい。女子中学生が来るから、そっちを待っていた。やがて明るい中学生たちで賑わった。聖コルベの部屋で、「1曲、平和の歌をうたいなさい」。少女たちは素直に唄った。うれしかったよ。「机をさわって、聖コルベのパワーをもらいなさい」。爆笑がおこったよ。少女たちが帰った後、ホットするところへ、1通の手紙が届いていた。茨城の女性からだった。よくブログにも、コメントをくれている。★手紙にいわく、「うちの息子は、去年の夏、東京で、小崎サンにお会いし、握手をして、イノチの尊さ、知りました。自分の手が、コルベ神父さまや、ガヨビニチェクさん(イノチを助けられた男性)へ繋がると知ったからです。次に、小崎サンのブログのコメントに、お仕事中に、あめのきさき、の歌をうたう方がいましたね。わたしも1人で運転中に、よく歌います。最後に、最近、気になっていること、1つ。以前は『老人という言葉は好かん』と書いてあったが、近頃のブログでは、『老人』の文字が多くないですか?」。そういわれれば、ホントだ、と反省する。ニンゲン、孤独であっても、苦しみあっても、前向きに,生きなきゃ、ね。東京での写真が見つかりました。
2014年6月13日金曜日
お米の返礼。ビワが届いた日、誕生日ハッピー。
2014年6月12日木曜日
平川兼夫神父、81歳、神に召される。安息祈る。
この写真を見れば、ああ、あの神父さんですか?と覚えているお方も居られるでしょう。巡礼の旅行グループをお世話して、聖地をまわっておられました。大きなカラダの神父さんですが、こころ優しく、言葉も優しく、あまり大きな声では叫ばず、静かにお話される神父さんでした。81歳ですから、同じ年代です。太平洋戦争のさなかに、小学6年で、五島・福江島から聖母の騎士に入り、市内の小学校、中学校に通いました。戦争が終わって、昭和21年4月、聖母の騎士中学が再開したとき、中学2年になる。トマは、3年でした。中・高のころは、よく知っています。★考えれば、長い人生だと思います。イタリアへ行って、司祭になって、たくさん指導して、司牧して、神さまのため働きました。すばらしい人生だったと思います。おだやかな神父さんでした。車の運転が好きで、遠い所まで自分で運転して、旅を楽しみました。仲間の司祭が、1人、1人と召されていく。寂しいことです。思い出のエガオだけが、残っている。エガオを向ければ、エガオで返ってくる。平川兼夫神父さんの安息をお祈りください。
2014年6月11日水曜日
共同休憩室の「異国の丘」と、復帰のロザリオ。
4階にある共同の休憩室です。夕べの聖務とロザリオが終わり、夕食が終わると、入浴など、自由の時間となる。休憩室に集まって、新聞を読んだり、テレビを見たり、静かに時を過ごします。9時過ぎには散会します。★週1度の夜は、全員が休憩室に集まる。テレビは消して、飲み物、スナックで、語らいの時を過ごします。思い出話や、失敗談、イタリアの話、にぎやかです。★昨夜は、人数も少なかったせいか、テレビがついていた。NHKの歌謡コンサート。終戦当時の古い歌を熱唱している。古い人間は懐かしいのか、テレビは消さない。そのうち「異国の丘」が歌われた。シベリアに抑留された兵士の悲しみの歌だ。しみじみ胸に迫ってくる。「あの頃の人には、悲しい体験があった、な」。誰でも、わかる心境だ。★トマ修道士が、こんな話を語りだした。神の島教会の主任に、岩永神父さんがいた。兵隊に行って、シベリアに抑留されて、大変だった。戦友の多くが亡くなった。岩永神父は、祈りだけは忘れず、指で、ロザリオを唱えていた。苦しみが過酷をきわめたとき、神父は特別に、幼いイエスの聖女テレジアに助けを願った。テレジアは宣教師の味方です。希望をもって、毎日、祈った。7年後、シベリアを開放されて、長崎駅に着いたとき、真っ先に、大浦天主堂へ行った。10月で、信者たちが堂内でロザリオを唱えていたという。感動した。そして、もう1つ、感動する出来事があった。その日は、10月3日、幼いイエスの聖女テレジアの祝日であった。★こういう話を、もっと、もっと聞きたいね。異国の丘の歌と、ロザリオの祈りは、修道士たちの胸に、しみじみ感じるものがあった。その夜は、ゆっくりと安眠した。
2014年6月10日火曜日
本気で、足の衰えを、憂うべし。わが身のためぞ。
院内で収穫したビワです。見た目は素朴だが、陽の光をあびて、甘さは充分、おいしかった。今年はビワのあたり年です。ナガサキじゃモン、たくさん食べよう、かけ声をかけた。幸せを感じる初夏です。★今朝は、絶食する。予約の診察。泌尿器科へ行く。胸のレントゲン、腹部のCT、心電図をまわって、先日の血液検査と共に、お医者さんの判定を受けた。腎臓に大きな白いカゲがある。毎たび見るカゲだが、これが「石灰化」です。どうしようも、ない。カゲを抱きつつ、ステントを入れつつ、生きて行くしか、ない。玄関を出ようとして、看護部のシスターから声をかけられた。「シンパイしていたのよ。どう?足腰をきたえて、老化を防ぎなさい」。1枚の紙を渡される。食べ物、運動、骨折するな、など書いてあった。ありがたく受け取って、「実行を心がけよう」と思う。本気で、足の衰えを憂えた日だった。★今朝、黙想のとき思った。生まれた時から、この道です。導かれて、閃いて、この道(信仰)に入ったのか、実はそうではない。導かれようが、恵みがあろうが、ふつうに生きても神さまに手をあわせたいのです。理由を見つけるのでなく、病気でも、苦境でも、この道、この心境で歩みたいのです。そんな気持ち、よろしいでしょうか。
2014年6月9日月曜日
長崎のサシミは、これだ。修道士の愛が、こもる。
サシミ、1皿。大きなサラだよ。左が、キビナゴ。右は、アジ。こういうサシミを好んで食べます。誰も、モンクは、いいません。聖霊降臨の祭日でした。教会が、誕生した日です。お祝いです。この日は、炊事のお手伝いさんは、お休みでした。オトコ世帯の修道院では、会計さんの修道士が、夕食を準備しました。夕べの祈り、聖務が終わって、食堂に入れば、このサシミ。「おお、おめでとう」。聞けば、会計・修道士さんは、自ら運転して、外海の港へ、キビナゴ、アジ(ゴン・アジ=生けすで泳いでいた)を買いに行った。生きのいいサカナを、自分で裁いたのが、この皿です。ついでに、式見(しきみ)のカマボコも、熱々(アツ・アツ)を買ってきた。これが又、おいしんです。田端教授は、式見のカマボコ研究で、博士になった。有名カマボコです。会計・修道士は、すき焼き用の食材も揃えていた。若い神学生、3人。司祭が、数人。修道士は、2人。盛り上がりました。トマ修道士は、会計の修道士から、大きなチカラと、支えを頂いている。話題は沢山あったが、最後は、いつもながら坂本修道士(故人・炊事係)の料理の思い出に落ち着いた。「巨人が負ければ、オカズは、一品、減る」。笑いのうちに、サシミは全部、品切れとなった。「ナガサキ人の、心をつなぐのは、サシミ、あれば十分だ」
2014年6月8日日曜日
人生いろいろ。一本橋を、わたる気持ち。
いまは、なんと言ったら、いいのか、ね。カラダは、完全なところって、ないからね。痛みは、あるし、夜中は、しょっちゅう、おきるし、アタマ、ふらふら。もう、この歳になったら、いいところって、ないね。当然だよ。それでも、生きる。どうしようも、ないから、受けて、立つしか、ない。一本の丸太の橋の上を、平均、とりつつ、ヨイショ、コラショと、わたる気持ち。「それでも、愉快さ」。輝くものは、あるんじゃ、ないかな。後光が、さす、というかね。★午後から、見学客は、いなかった。閉館、少し前、庭に出て、しばらく太陽にあたる。心をゆっくり、させる。5時30分から聖堂で、フランシスコ会の7つの喜びのコンタツが、ある。土曜日は、これを祈ります。聖母マリアの7つの喜びを黙想します。アヴェ・マリア、10を、7連、唱える。70、です。それに、2、を足す。72、になる。「聖母の御年を尊ぶために」と、しめくくる。伝統で、何百年と唱えてきた。祈りも、歴史があるから、チカラがある。意義もある。★夕日に当たっていると、黒塗りの車があがってきた。県外のナンバーだった。3人の男性が降りてくる。気安く、話しかけた。「ルルドのお水を戴いて、お恵みをもらったので、お礼の祈りにきた」という。ここにも、生きるチカラをもらった者がいた。例の如く、「お恵みをもらったら、感謝を、ね」。庭に居たから、彼らに会えた。「若い、ね」という。「カオだけ、さ」。ジンセイって、誰もが、一本橋を渡っている。「あとは、希望を失わないことだ、ね」
2014年6月7日土曜日
人には誰しも、最後に、「臨終」の一仕事がある。
悲しい日でした。男性の葬儀に参加し、お祈りしました。60代の若さに、惜しむ声が聞かれました。がんを告げられて、余命いくばくも、ない。最後は、力づよく生きて、子供たちに、親の素晴らしい生き方を見せながら、亡くなった。「力づよく生きぬいたと、言われる人生」です。家族は、父親が残した数々の思い出を大切に、慰められ、信仰のうちに希望をもちました。★葬儀ミサで、司祭はお説教のとき、「司祭の両親や、兄弟を失ったときの悲しみを語り、また自分もガンに冒されて、死を意識したことから、私たちも時折、自分の死をも考えるべきです」と語った。それを聞きながら、「ああ、オレも、ガンだよ、な。同じ、だよ」★告別式のとき、学生時代からの友人がお別れの言葉を読み上げ、「力づよく生きた人生だった」と涙しました。みなさんは、涙を、そそわれた。★葬儀が終わって、帰りの車のなかで、思いました。「病気の苦しみや痛みを、神さまに捧げる。すると、その功徳は、罪びとの改心につながる。罪びとは救われる、と教えられてきたが、今でも、その信仰は教会に残っているだろうか。最近は、あまり言われない。例えば昔、コルベ神父は、来客があると、修道院の一番大事な所へ案内しますと、病室につれて行った。ここで捧げる苦しみ痛み、祈りが、修道院に、布教に、罪びとの改心に、大きな恵みをもたらす。コルベ神父は、そう確信していた。祈り、苦しみ、痛みは、改心につながる。そこには信仰の神秘がある。★葬儀の教会まで、片道、40Kmは、あった。午前10時30分に出て、午後3時過ぎに、疲れて帰った。
2014年6月6日金曜日
今朝のパン。シロ・パン。クロ・パン。エガオのパン。
こんな写真をのせて、びっくり、ですよね。40年まえ、初めてポーランドを旅したとき、コルベ神父が生まれた町で撮った1枚です。楽しそうに笑う、少女たちの顔。★きょうは、月の初めの金曜日。初金曜といいます。朝、5時に起きて、昼の12時、アンゼラスの鐘がなるまで、沈黙といって、しゃべりません。心を静かにするわけです。朝食も、10人居りましたが、沈黙で食べました。初金は、チーズも、ジャムもありません。★パン、1枚と、牛乳を飲みました。パンを、シゲ、シゲと見つめると、なぜか、ふと、ポーランドのパンを思い出したのです。黒い、かたい、パンでした。ポーランドの修道院で食べました。200人ぐらいの修道士が居たんですよ。おいしいパンでした。次に連想したのが、ポーランドの、この写真の風景でした。1971年秋の写真です。絶対、忘れない1枚です。あれから、30年経って、同じ町で、左側、3人の女性と再会しました。みな、母親になっていた。あれから、また、10何年ですよ。元気でいるだろうか。思い出だけが、若々しく、残っています。★どこの国の人も、笑えば、幸せになる。愛と、平和が、エガオを生み出す。パンの色は違うけど、エガオは同じだよ。今朝は、それを思い出しながら、食後の、くだもの、ビワを食べるのも、犠牲にした。
2014年6月5日木曜日
梅雨に入り、アジサイが咲いた。予約の診察へ。
雨が降りました。梅雨だから、仕方がありませんね。今朝のアジサイです。みずみずしさのなかに、やさしい色で咲いていました。かわいい、ですよ。他人をうらやんでは、いけません。せいイッパイ、咲いている。きれいだよ。それで、いいのです。「元気で、居ります。修道士を守って、おります。聖コルベ館に勤めて、います。それだけで、リッパ。そのまま、進んでください」。わかりました。自分に言いきかせました。★予約の泌尿器科へ診察へ行きました。どうもシュンパツ・リョクが出ない。全体的に診てください、と頼みました。老人科、というのでしょうか。お医者さんは「やってみましょう」と答えました。★ごご、聖コルベ館へ出ると、1人の若者が待っていました。「浦上に、キリシタン資料館ができました」と言って、名詞をくれました。浦上天主堂の近くだそうです。「協力しましょう」と願いに応じました。活動写真「日本26聖人」のDVDを贈呈しました。★京都のお医者さんが、クララ・てるの子孫の森内さんへ、「銀のサンタ・マリア像」をお渡しください、と送ってきました。親指の大きさの小さなご像です。由緒あるご像でした。語れば、長い物語があります。
2014年6月4日水曜日
3人の教師、山の学校を語る。65年で廃校。
紹介します。場所は、諫早観光ホテル道具屋の4階。眺めのよい豪華な和室。集まった3人は、左から、椿原中学校の藤下(元・教頭)先生。田川(元・校長)先生。寺崎(現・教頭)先生。3人で、夕食をとりながら語り合いました。田川校長が勤めていたのは、1985年から1991年の6年間です。2人の先生には、お世話になった。藤下先生は、38年勤務。寺崎先生は、36年勤務。特に、バレー・ボールの監督で、よく頑張ってくれましたよ。成績も、上々だった。残念ながら、椿原中学校は、今年の3月で、廃校になった。「ご苦労サン」という、ねぎらいの会食、語らいでした。楽しく過ごしました。
2014年6月3日火曜日
蟻の街のマリア、北原怜子の列福申請はじまる。
怜子と書いて、「さと・こ」と読む。聖コルベ館の資料室に、怜子の小さなコーナーがある。彼女は、誰だろう?ゼノ修道士さんと関係があるのです。彼女は大学教授の娘さん。なに不自由なく暮らしていた。そこへゼノさんが訪ねてくる。貧しい人の街は、どこですか?初めて、その街のことを知った。外国人のゼノ修道士が、日本人の貧しい人たちを助けているのに、日本人である自分は何もしなくても、いいのか。彼女は家を飛び出して、貧しい人たちの街に住み着き、いっしょに苦楽を共にする。「アリの街のマリア」さんと呼ばれた。「竹トンボ」は彼女が小学2年生のときに書いた字である。残念ながら、結核の病のため、28歳の若さで亡くなった。ゼノ修道士に出会って、8年たっていた。彼女の着物が展示されている。★ローマからの連絡によると、ようやく彼女の列福申請が、6月12日に、申請担当者と、8人の神学者によって、取り扱われることになった。神のはしためエリザベト・マリア北原怜子の「聖性を讃える崇敬」と「奇跡を通して広まる崇敬」が提示される必要があります。★騎士誌の8月号には、北原怜子を書こうと思います。「愛は、石の心をも、やわらげる」
2014年6月2日月曜日
長崎・びわ物語。色紙に添えて、仲を取り持つ愛。
いま、長崎では、くだもの・ビワが、最盛期です。ビワで有名なのが、茂木(もぎ)ビワです。暖かい海岸の近く、山手にイッパイ咲きます。今年は、新種のビワ、大きなビワが成りました。ビワ農家も大喜びです。「なつの・たより」と名づけました。普通のビワは、右側(Mサイズ、Lサイズ)の大きさですが、「なつの・たより」は、ごらんの通り、左側(3Lサイズ、5Lサイズ)、ふとか(大きな)ビワです。手に取る人は、びっくりしますよ。食べてみたい、とも思います。★先日、「長崎じゃ、モン。ビワを食べたいな」と言うと、会計係の修道士さんが、茂木にようすを見に行った。家々の軒先で、収穫しているビワを選別している。修道士さんが声をかけると、親切にも、商品にならないビワを大きな箱イッパイくれた。ついでに、「ゆめの・ほのか」も、くれた。修道士さんは「トマさんに食べさせよう、持って来たとばい」。トマもおどろいた。「見たことも、ないビワだよ」。写真に撮って、日記に載せよう。ビワは、後で食べようと、残しておいた。★そこへ、やって来たのが、韓国人の1人旅の青年だった。彼は日本語は話せない。「こまった、な」。こちらも韓国語を話せない。以前、李・神父が作っておいた韓国語の案内(手作り)を、コピーして渡した。彼は、喜んで、熱心に、資料を見ている。最後に、色紙を買うという。韓国人で色紙を買うのは初めてだった。どれが、いいか。「ウグイスの絵」を選んだ。1.000円くれた。「愛のあるところ、苦しみなし。たとえ苦しみありとも、のち喜びとなるべし」と書いてあった。青年はルルドへ登った。また帰りに、入ってきた。「もう1枚、ほしい」。(もう、やめとけよ)と、心の中では思ったが、「梅の絵」を選んでやった。「お金は、いいよ。プレゼントする」。そこには「ほんとうの愛に出会えば、苦しみ痛みは、のり越えられる」と書いてあった。後で、日本語が分かる機会があったなら、きっと喜ぶだろう。次に、写真を撮らせて、と言うので、カメラに収まった。そこで、です。別れに、思い切って、残しておいた5個の茂木ビワを渡すと、彼は笑顔で喜んだ。エガオって、国境はないんだよ、ね。ああ、あの「ゆめの・ほのか」は、韓国青年のバッグに収まった。ビワよ、お前は、幸せだろう。ビワの語りが聞こえる。「エガオで、仲良しが、平和」。色紙には、ない言葉だった。
2014年6月1日日曜日
エガオと、清さと、祈りを忘れるな。助ける人が、いる。
紹介します。今年の4月から、小神学生になった「龍(りゅう)」くんです。平成13年10月生まれ。中学1年生です。鹿児島で生まれ、鹿児島から入学しました。希望に燃えた若者だよ。さわやかな少年を、応援してください。聖母の騎士には、中学はないので、市内の中学校に通っています。夕方、町へ出ようと、食堂から屋外へ出ました。庭で、龍くんが、ひとりでボールと、たわむれていた。小神生は、ひとりだけ。「オーイ」と呼ぶと、「ハイ」と寄ってきた。「小さい、な。オレも、小さい、けど」。抱き寄せて、前途を祝しました。「やあ、これから、何10年、かかるかな。道は遥かに遠い。1歩、1歩、着実に歩めば、かならず、目的は達成するよ。ボクが、そうだった。エガオは、いっしょだよ。「こころの清いものは、幸いなり」。13歳と、86歳だよ。ああ、くわしいことは、言わんで、いい。笑顔と、清さと、祈りば忘れんなら、それで、よか。波の荒れるときは、静まれ、って言えば、いい。助けてくださる御方が、おらすけん、な。