親しい友人でした。故・水浦久之、亡くなって1周忌がきた。6月16日が命日でした。81歳と11ヶ月。彼を偲びながら、志願院の小聖堂で、ご家族、友人など少人数が集まって、ミサを祈り、彼の思いに浸りました。水浦久之については、思い出はイッパイある。本も数冊出している。なかでも「神父発見」は、いい題目だった。普通、信徒発見と、言いなれているが、そうじゃ、ない。隠れた信徒たちが発見したのは、待ちに待った司祭であり、ローマからの船であった。着想の転換だ。アイデアがよかった。ここには彼の、文学の才能が光っている。★トマが神学校に入ったとき、彼は既に神学生だった。少年の頃から、よく知っている。彼の業績を整理してみよう。五島で生まれて、戦争中、長崎・小神に入って、中学を卒業した。修道士になったが、心を整理して、社会へ戻った。生計を立てるために、浦上天主堂の足元に、クリーニング業を経営した。パパさまが長崎に来られたとき、浦上・小教区の信徒会長を務めていた。パパさまをお迎えするために、浦上天主堂を改装しようと、皆さんに呼びかけて、協力を得て、今の天主堂に美しく仕上げた。毎朝、天主堂から平和公園へ散歩するのが楽しみの彼だった。働きながら、好きな本を沢山読んだ。文学を志した。修道士のとき、騎士誌の編集をしたのも、永井隆博士の原稿係だったことも、自慢となった。彼は、しばらく勤めた聖母の騎士を「たましいのふるさと」と大事にして、縁を切らないように心がけた。家業のクリーニング業は早々に引退し、余生は騎士社の奉仕生活におくっていた。★彼を思うとき、トマには1つの課題が浮かぶ。「信仰生活をしているのに、なぜ人は弱いのか」。彼の小説の文脈にその片鱗がなかったか。彼は亡くなる前に、トマに色紙を頼んだ。言葉の指定は、「仰せの通り、我に成れかし」。その心境で最後の苦難を受け止め、人生を終わった。フランシスコ・ザビエル水浦久之、ホンネを語れる、他には居ない親友であった。安息を与えてください。★中学生たちが平和学習にくる。「コルベ神父を学びたい」と願う。聖コルベを教えることは、愛をおしえること。それは本や資料からではなく、心と心の触れ合いで、少年少女たちに、愛を近づけていく。これは至難の課題です。大きな目標も、だが、周りの人、友人、家族、その人たちを助ける、支える、許してあげる、その小さな行為の積み重ねが、平和につながると、語った。「長崎のコルベ神父」の名前を覚えてほしい。
故水浦久之様のご奉仕生活と信仰を改めて知りました。
返信削除親友を亡くされた小崎さんのお気持ちお察し致します。
安息をお祈りさせて頂きます。
明日はお気をつけていらして下さいませ。
もう一年経ってしまったんですね。水浦さんの本は、心が弱くなっているときに読みたくなります。なぜだろうかと考えて思ったのは、水浦さんの文章は、励ましでは無く寄り添ってくれる、そんな感覚でしょうか。好きな話がいくつもあります。
返信削除永井博士の弟さんとのお付き合いもあったそうですね。そのお話をもっと知りたかったです。水浦さんの本で、水浦さんの生きてきた道を読んだときに、神様のご計画って本当に有るんだなあと感じました。
安息をお祈りしています。
コルベ神父 身代わりの愛 お礼を求めないこころ ー 登明修道士ー
返信削除日本語訳が まだありません。 SAMSON という本です。コルベ神父様がポーランド系ユダヤ人の方々と ともに 強制収容所で 生きられたか あるご家族の目を とうして 書かれてあります。同じ神様を 共に 困難の中で 礼拝し、トマ様が お書きになっていらしゃいるように 心と心の触れ合いが 生と死の境の生活の中で 書かれています。収容所から 生き残られた方々が 1962年に イスラエルに コルベ神父様の記念樹を されています。又 寄り沿って 寄り沿って 愛を 近ずけた コルベ神父の愛の人生が この本の主人公と共に 書かれています。
トマ様の 色紙が メキシコの ある修道院に 掲げられて "平和のため 祈ります" とご連絡が ありました。
トマ様、ニュースが ございます。 昨夜 ある アメリカ人の友人からお電話があり 長崎旅行中 そちらの友人からいただいた大切にしている日本語の本があります。 見に来て下さいと 言われ 行ってきました。 トマト様の"長崎オラショの旅" と 水浦氏の"神父発見" と "雪のサンタ マリア"の お写真でした。驚きでした。ご 無事な旅行であります様に。メキシコの実家に 帰っていますエスペランサさんが 昨日 一日中 長崎体験話を 多くの人達に話されたそうですよ。皆さんで トマト様のご健康 祈っていますと。
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