長崎のカトリック修道士。17歳の時、原爆を受けて、この道に入る。 生かされて来た数々の恵みの中で、今年の1月、最大の試練「すい臓がん」を告知された。 「みむねの・ままに」。孤独と苦痛に耐え得るチカラを日々、祈る。 毎日、日記を書き続けて13年。今、長崎市の病院・ホスピス病棟で暮らす。 追記 2021年4月15日 午後6時48分 帰天されました。享年93歳
2012年4月30日月曜日
ジャスミンの花が咲き、春、4月も終わる。30秒の魅力語
2012年4月29日日曜日
昨日、食べたデザートです。きれいでしょう
食べる話ですみません。昨日、赤いスープを食べたでしょう。あれは第1の皿で、第2のメインの皿は写真を載せないで、パスしますが、次に、第3に食べたのが、このデザートでした。チョコレートで、星屑のように光り、中はアイスクリームが包まれています。きれいでしょう。印象に残る一品なので載せました。4月も、入院などで、いろいろありました。でも無事に今日を迎えました。連休が始まり、見学客が三々五々来ています。知り合いの司祭も来て、「おお、何だ。ゲンキ、しているじゃないか」と笑っていた。
2012年4月28日土曜日
町を歩く。春風にさそわれて。よかったよ
教会の近くにお住まいがある信者のタクシーを会社から呼んでもらった。効果はあったよ。降りたとき、小さなバッグを忘れた。数歩、歩いて気が付く。携帯はバッグに。困ったな。電話を探して、会社に電話すると、「確保しました」の返事。安心した。今日、買い物したのは、「匂いの付いた水」です。手首と、耳の後ろに、チョッとだけ付ける水ですよ。老人になって、加齢臭っていうんですか。尿の臭いもあるしね。騎士はやっぱり、シャンとしておかないと、いけないからね。「1人で買うのは、気が引ける」。買っちゃったよ。本屋へ寄ったが、「生きる、1言の知恵」のようなピッ足し本は目につかなかった。昼飯は、ポーランド料理を思い出しながら、写真の赤いスープ、ボルシチを食べた。ビート、じゃがいも、ニンジンです。おいしかったな。帰ったのは、午後2時でした。「待て、待て。立ち止まって、『心の景色』も見よう、そう歩きながら考えたよ。何のことですか?心に浮かんだことも有るのです。
2012年4月27日金曜日
千草さん、来る。おお、世話になったな。ゲンキだぞ
開館と共に、千草さんが来る。自宅から、徒歩と、電車で、1時間かかったという。アンネのバラを持ってきた。「入院中は、お世話になったね」「どう、その後、からだの調子は?」「まあ、何とか、がんばっているよ」。アンネのバラは、フランシスコ中村修道士からもらったものを、庭に挿し木して、1m以上に育てたという。フランシスコさんといえば、修道院の受付で、もう一昔まえの話になる。「よく育てたね」と感心。近々、沖縄での平和行進、毎日、20kmぐらい歩いて、4日間のイベントに出かけるという。それを聞けば、タダで帰すわけにもいかず、若干のカンパを行なった。5月に生まれたので、千種と親が付けたそうな。年令聞かず。とにかく、小まめに動く女性です。おかげで助かった。「出るクギは、打たれる」で、いろいろ言うものは居るらしいが、介護の現実だけは、動かし難い。とにかく若いうちは、アセ、流したほうがいいよ。
2012年4月26日木曜日
聖霊よ、私のうちに働いてください。何もわかりません
聖コルベ館に来た中年の女性に、私が問うた。「あなたにとって、いま一番大事なことは何ですか?」。女性は答えた。「人間関係です」。ああ、この人は1人旅。長崎へ来て、ひとり静かに考えたい、そのように思っているのかなァ、と想像した。ごめんなさい。「長崎の教会に入って、ゆっくり落ち着いて、教会の天井でも見つめ、あるいは自分を見つめ、祈りなさい」と教えた。今朝の聖務の祈りに、「神よ、私たちの内に居られる聖霊の働きを深く悟らせてください」とあった。聖霊の働きとは何だろう?聖霊の働きを、もう少し、教えてくれる人は居ませんか。信じる心を強めてくれる。悪から守ってくれる。神への愛の証となる。からだの不自由な人、病気に苦しむ人が近くに居るでしょう。そういう人を慰め、励ましてください。人間には弱さがあるが、神の力によれば、試練に耐えることができます。だから希望を持ちなさい。★コメントを見たら、昨日、雨にぬれつつ、道に迷ったという女性の声が載っています。実は、あのとき急ぎの原稿を書いていたので、ゆっくり応対もできずに、また時間もないと言われたので、まことに残念でした。悔やんでいます。また来てくださいね。こんどは、ゆっくり、遠藤先生との出会いの話を聞かせますよ。
2012年4月25日水曜日
大浦の聖母の騎士が宣教を始めた場所。汗と涙の匂いあり
昨日はコルベ神父の長崎上陸記念日ですから、じーっとしておれずに、午後から、タクシーで、長崎市内・大浦の、最初に聖母の騎士たちが住んだ家の跡地へ行きました。久しぶりの大浦は、観光地ですから、相変わらず大勢の旅行者たちで溢れていた。雰囲気がすっかり変わりましたよ。文化的、商売的になってしまった。精神が大切だよ。コルベ神父らが使った暖炉。当時は寒かっただろうな。汗と、涙の、匂いをかいだ。私はここで、コルベ神父のやり方に、どーしても、ゲセない行動がある。4月24日に来て、5月24日に日本語の騎士誌第1号を出して、それまでは、いいが、6月2日には、コルベ神父はゼノさん、他に修道士1名を残して、自分はポーランドへ帰国している。この行動は、どうしても、たまらない。ゼノさんが可愛そうだよ。日本語、わからない。お金もない。本当に心細かったと思う。ボクならモンクを言ったね。「コルベさん、勝手すぎるよ」。聖人の行なうことは、凡人は付いて行けない。ゼノさん、偉い。と言うか、無感覚というか。ゼノさんも油断ができない人だった。とにかく昔の人はエライ。今の常識は通じない。作家・遠藤先生を案内したとき、先生はこう言った。「ここは日に何千、何万の観光客や学生が通る。1人でも、2人でも、いい。ここに世界でも有名な聖人が生活していたんだよ、わかってくれたら、それで、いい」。
2012年4月24日火曜日
3つの記念日です。上陸。命日。日記の書き始め
①1930年(昭和5年)4月24日。コルベ神父、ゼノ修道士たち聖母の騎士たちは、この日の午後1時頃、長崎丸で長崎港に到着。日本の地に、第一歩を記した。彼らが長崎へ来たおかげで、私も聖母の騎士に入ることができた。②1982年(昭和57年)4月24日。この日、ゼノ修道士が神に召される。ちょうど長崎へ上陸した日の同じ時間、ローマン修道士の証言によると、午後1時頃に、東京のベトレヘムの園病院で、ゼノ修道士は亡くなったそうである。日本生活、52年。90歳であった。没後、30年になる。また今日は、私ごとながら、もう1つの記念日でもある。それは③『登明日記』を書き始めたのが、3年前の、2009年(平成21年)4月24日であった。あれから毎日、ブログを書くのが楽しみとなった。しかし実は日記を書き始めた動機は、少々深刻で、その同じ月の4月2日に、突然の血尿を見て、ボウコウ・ガンといわれ、身も心も痛む療養生活が始まったからであった。「人は、どのように死んでいくのか」。記憶しておこう、そういうヤボな気持ちでパソコンに向かった。あれから3年が経過して、本当に様々な、膨大な出来事が起こったと思う。そして最後を言えば、先日の、思いもかけぬ腎臓に発症した結石であった。1週間おきに、2回の全身麻酔をさせられ、2回にわたって、大小、13個の結石を取り出し、見せられたときは、さすがに唖然として、これが尿をストップさせた原因かと、奇妙な気持ちになった。日記も4年目に入る。さあ、これから、どんな人生が待っているのか。切り開いていくのか。さらに楽しみである。どうぞ、日記を読んでくださる皆さんも、つづいての応援をお願いします。
2012年4月23日月曜日
イノチは神さまのこと。執着するな。生きるも終わるも
早朝、5時に起きる。周りの人は私に同情して、温かく見守り、ゆっくり起きていいんだよ、と言ってくれる。しかし私は自分に言う。「己に、甘えるな」。朝が、一番大切なんです。今の世は価値観が多様で、昼間は休んで、夜中に働く人も居る。それは、それで、かまわない。しかし修道者は、朝が勝負です。早朝に起きて、お祈りをする。お勤めを果たす。平和のため、世の人々のため、神に祈る。朝、怠けになったら、修道者に何の意味があるか。本人自体がダメになる。「早朝から、祈っています。日中は、笑っていますよ」。苦しみがあり、病気があり、老いがあり、やがて人は死ぬ。宗教の基本は「人間は、死んだら、終わりか」の問いかけにあるだろう。生きておれば、楽しいことは、いっぱい有る。生きることに魅力があり、このイノチ、いつまでも生きつづけたい願望が、根底にはある。もちろん中には一時期、苦しくて、死にたいと思うときもあろう。それらを皆、ふくめて人生いかに生きるべきかの範囲である。生かされて、ありがたい。セイ一杯、呼吸したいと思う。「まだ、まだ、倒れませぬ」
2012年4月22日日曜日
新聞に、ゼノ修道士が載る。没後30年。4月24日命日
いつぞや私の所に新聞記者がやってきた。アドバイスしてあげた。昨日の新聞に、大きくゼノ修道士が紹介された。4月24日がゼノさんの命日にあたり、没後30年になる。満足する記事にまとめられていたが、一箇所、腑に落ちない活字があった。萩原神父さんの談話である。(記事の、最下段の部分)「・・・伝えると、戦争起きる」何のことか。今朝、電話で、萩原神父さんに訊ねてみた。萩原神父の解説は概略、次のようであった。ゼノさんの考えている基本は・・・神さまから私たち人間は、すばらしい心を与えられている。しかし人間は自分を大事にするために、すばらしい心は眠ってしまっている。自分の幸せしか考えない『悪い心』もある。私が頼みます。「貧しい人が居ます。飢えているから、パンをください。寒さにふるえているから、モーフをください」。その願いは、その人にとってバクダンとなる。その人の心に、「助けてあげようか」と、いい心もある。しかし「自分に関係ない、自分のセイじゃない。助ける必要ない、との悪い心もある。バクダンを投げかけることによって、その人のうちに戦争が起こります。でも、たいていの人が、『いい心』が勝ちます。こうしてゼノさんは持てる者から譲り受け、持たない人に与えたのです。材木をもらう。米をもらう。瓦をもらう、ほとんど成功しました。しかしゼノさんは「自分のことを聞いてくださった」とは言わない。「その人が、神さまから、いただいた、いい心が働いたのです。そしてゼノ修道士は言っていた。「その人が、いい心で働くように仕向けるのが宣教師の仕事です」。私は萩原神父に問うた。「ゼノさんを一言で言うと、神父さんは何と思いますか」。萩原神父はズバリ答えた・「彼は宣教師であった」。「パンをもらうことで、ない。毛布をもらうことで、ない。ワタシは宣教師です」。ゼノさんの名言です。今日は、この言葉を味わいます。
2012年4月21日土曜日
心に残る出会いを体験して、日々充実して生きよう
騎士誌5月号の私の記事に、この写真を載せました。載せるに当たって、写真に何と説明をつけたらいいか、考えました。「やあ、皆さん、いらっしゃい。どこの幼稚園ですか。いい子になってくださいね」。そのように書くのは、簡単で平凡です。満足しません。アタマをひねって記した説明が、次の如くでした。「生活における出会いを大切にしよう。いい雰囲気を作ると、いい恵みも生まれる。人の記憶はいつまでも残る」。いい説明じゃないですか。入院中に、日記を書くと、真っ先にコメントを入れる女性がいます。「元日のエリザベト」さんです。一文に、こんなのが有った。「修道士さんは、ボヤイたり、落ち込んだり、気持ちに浮き沈みがあって、正直だから、人間らしくていいのです。いつも立派なことばかり言っても、人は付いてこない。困難をすり抜けた時の、キラリと光る一言が、たまらないのです」。ピッタシ、これですよ。ただ状況を説明するだけでは意味がない。「キラリと光る一言」。これが常に欲しいのです。人は多くのナリワイを知らなくても、一つの小さな生き甲斐で立派に生きていけます。それから入院中に数枚の手紙が来ましたが、その中に、こんなのがあった。「騎士5月号の『生活における・・・残る』の一節に、心動かされました、と言うのです。「3月末、父をふくめ4人で長崎巡礼の旅に出かけました。その先々で出会った方々、殉教された先輩信徒の後ろ姿に、この言葉を重ねて、深く感じ入りました。巡礼の出会いは、私の心の宝、いつまでも記憶に残るでしょう。私も、作り出せる人になれますように」(山口県・真理子)
2012年4月20日金曜日
入院12日。退院の日です。赤と白のツツジが印象的
人生、まさか、まさかの連続です。思いもかけず、結石があり、2度の手術のおかげで、また生きる力をいただきました。松下修道士が迎えに来る。外気を胸いっぱい吸うと、赤と白のツツジが見事に咲いていた。赤い冠か、白の冠か、連想させる。聖コルベ館に戻ってくる。赤、白、冠のコルベ神父のお膝元で、つづいて信仰生活を豊かに、全うして行きたいと思います。お医者さんの素晴らしい「神の手」の捌(さば)きもありますが、やっぱりお祈りです。イノチは神さまのことですから、それは言えます。周りの人のお祈り、日記を読んでくださる皆さんのお祈り、その効き目が抜群でした。心から感謝いたします。それに、もう1つ、ある。見舞い客が言いました。「介護する人が、一番、大変なのよ」。そうです。本当に、そうです。芯(シン)から介護してくれた良きサマリア人よ、ありがとう。「神の計らいは限りなく」と歌もツイ出るよ。「さあ、また始まるよ」
2012年4月19日木曜日
介護する千草さん、見舞いにくる韓国人シスター
入院11日目です。アシタ、退院します。記念に写真を撮りました。懸命に看護、介護してくれた千草さん。先日、韓国へ行ったとき、買い求めたチマチョゴリが似合います。この度は付き添って、身軽に、小まめに、よく面倒をみてくれた。白衣のシスターは、時折、「どーですか」と、笑顔を見せる韓国人です。シスターの笑顔は清純だなあ。癒されますよ。温かい隣人の助けを受けながら、この老体は、幾つもの結石を除かれて、気分的にも爽やかに、なんだか活力が湧いてくる感じです。お医者さんから言われた。「金曜日に、退院していいですよ」。退院の通告。喜んでください。尿は、手術後は、真っ赤な、血の尿が出ていましたが、人体の回復力って素晴らしいですね。夜中から、じょじょに黄色く戻り、安心しました。私にとっては尿がイノチです。濁ったり、赤くなったり、一喜一憂、ジンセイって色々あるなあ、と達観しています。いつも思うのですが、困難があっても、うまーく、すり抜けて、通り過ぎてきた。壁があっても、これも、うまーく、よけて抜けていく。それが人生だから、今があるわけです。助ける人が必ず居る。難しいことじゃない。そーなって行くのです。だから希望がある。実を言えば、私は気が小さいのかも知れない。弱さを見つめて生きるのが、いいんじゃないですか。
2012年4月18日水曜日
ホット一息、気持ちが楽になった。元気を出すぞ
病室の朝は静かに明ける。点滴の針も抜いて、昨夜は早々と眠った。ここ3、4年、いつも聖週間のあいだに入退院を繰り返している。気候の変わり目に、抵抗力が低下しているのか。トマの印象といえば「いろんな病気をやったが、まだ倒れない」「この歳まで生きると思わなかったよ。奇跡だよ」。本人は奇跡など、大それた事は思わない。それにしても、昨日の結石のツブを見たときには、さすがにビックリした。腎臓を触っているので、昨日の尿は血の色だった。別に驚かない。今朝から尿が黄色を取り戻している。ウナギの蒲焼が効けたのか。回復が早かった。あと、3、4日で退院できるだろう。今日から治療は何もない。シスターの看護師長がベッドの傍に来て言った。「お恵み、もらっています。あなたの苦しみ、恵みを、私たちも、もらう」という信仰。シスターは入院患者に深々と礼をした。千草さんは昨日、夕食後、自宅へ帰って、今日は昼食どきに来る。
2012年4月17日火曜日
手術は無事に終わった。熱もなし。ゲンキです
「出たァ。これがお腹の奥深く、腎臓に入っていた結石です」。見た瞬間、ショックというか、感動というか、その大きさに驚愕しました。大小13個の石がデた。大きなのは米粒ほどもある。臭いが厳しい。お医者さんの技術に敬服した。尿管から腎臓まで、先端3mmのカメラを入れて、石を見つけて、次にレーザーを通して、粉砕して、次はツマミのついた道具を差し込んで、1つ1つ丁寧に取り出した。1時30分に手術室に入って、4時30分に無事に終わり、観察室に入室した。全身麻酔はその後が大変だった。夕方から、夜中、朝まで千草さんが付き添ってくれた。殆ど寝ないで介護してくれる。家族同様の細かい心遣いだった。夜中は微熱が出て、口の中が乾く。その度に千草さんがウガイをさせる。前の時と違って、今度はセキも、タンも無く、寝汗も出ずに、辛抱のうちに明るい朝を迎えた。お医者さんが「頑張りましたね」。全身麻酔を1週間置いて2回も行なった。全身虚脱の感に落とされる。昼前、自室に戻って、安堵する。2つめの山を越え、やり遂げた充実感があった。昼食は普通食。ベッドに横になり、ロザリオを唱える。お祈りと、見守る皆さんに思いを馳せ、感謝しました。
2012年4月16日月曜日
今日は午後から手術。カクゴ。苦難の1夜になる
昨夜は、夕食時に、千草さんが居てくれた。いよいよアシタは手術です。病院食は、さて置いて、ウナギの蒲焼と、イチゴ、ケーキを食べて、明日の苦難に備えた。写真のボタンは海星学園で見た長崎南画です。私も少々南画をたしなみます。花あれば、心もなごむ。千草さんはこの度の入院で、洗濯や買い物、手足になって尽くしてくれた。実行が有って、実りも有る。いくら「愛しなさい」「助けなさい」と口で言っても行動しなければ、何の足しになるか。今日の手術後も、「任せなさい」と千草さんは言った。術後は大変だよ。苦しむ者はその苦しみを捧げ、周りの者は愛を持って援助する。これが現実には中々難しい。さあ、今は、淡々と、その時を待っている。
2012年4月15日日曜日
神のいつくしみの主日。入院7日目。早や1週間
朝、7時。病院の朝が明ける。「チリン、チリン」と鈴が鳴って、司祭が信徒の病室を回り、ご聖体を授ける。今朝は日曜日。「病気に耐えるチカラを与え給え」と祈る。早や入院1週間が過ぎた。おかげで体力は回復した。まだ生きる活力は有るぞ。尿は少々濁っているが、黄色になった。明日は又、手術となる。日曜なのにお医者さんが見えて、「頑張りましょう」と励ました。ガマンしよう。乗り越えよう。今は辛くても、この道ゆけば、必ずゲンキになる。喜びは湧き出る。道がある間はいいね。希望がある。「大丈夫か」「疲れた顔しているね」「元気が無いね」など、こんな言葉を掛けられるのが一番イヤだな。人生、もっと前向きに行こうよ。「おー、よく、やっとるな」。その掛け声がほしいよ。★コメントが入っていた。元日に、閉館まぎわに来た女性だった。覚えてくれたね。励まし祈ってくれたね。写真の神父さんは司祭生活60年で、80何歳、そのパワーに負けるよ。
2012年4月14日土曜日
今の現実をむしりとって生きていく。それが人生
砕いた石は流れたか。そこまで考えなかった。今朝、看護師さんから言われた。「石は出ていませんね」。毎日、尿を貯尿袋に溜めているが、袋の上に布が覆われている。(写真)。なぜかと思ったら、砕けた石が乗るためだったのです。それに気がつかないから、また聞いていないから、尿を入れるときは、いつもキレを持ち上げて入れていたのです。アホな奴ですね。ひょっとすると、2日目、3日目に、石は出たかも知れない。残念だな。ヌノの上から尿を注げばよかった。尿コップに、コロコロしたカタマリが出たこともあったから大丈夫だろう。看護師さんは言った。「CTを撮っているから判ります」
この世に生まれたのは自分で選んだのでなく、全く自由な人生でなかった。人は、この家族、この国、この環境など、限られた場所で育っていく。私の場合、若くして両親に死に別れ、兄弟もなく、孤児となった。原爆を体験し、生き延びて、数々の病気に耐え、施設の子どもたちと長年、暮らした。カトリックの信仰実話を取材し、記事を書き、今は、聖コルベ館で見学者と出会いを楽しんでいる。それだけのジンセイだったと言えるかも知れない。『過去の出来事、何んにも、ならん。お前の現実は、今だ』。看護師さんとの対人関係、お医者さんとの対人関係、今はそれだけに限定される。生きるからには、①自分の人生を楽しみ、存分、生きたいと思う者も居り、いや②他者に奉仕して生きたいと思う者も居る。これらは価値観の相違だろう。それでも確かな事が1つだけ有る。『他人を喜ばされば、自分も嬉しい。その気持ちが誰にでも有る』
この世に生まれたのは自分で選んだのでなく、全く自由な人生でなかった。人は、この家族、この国、この環境など、限られた場所で育っていく。私の場合、若くして両親に死に別れ、兄弟もなく、孤児となった。原爆を体験し、生き延びて、数々の病気に耐え、施設の子どもたちと長年、暮らした。カトリックの信仰実話を取材し、記事を書き、今は、聖コルベ館で見学者と出会いを楽しんでいる。それだけのジンセイだったと言えるかも知れない。『過去の出来事、何んにも、ならん。お前の現実は、今だ』。看護師さんとの対人関係、お医者さんとの対人関係、今はそれだけに限定される。生きるからには、①自分の人生を楽しみ、存分、生きたいと思う者も居り、いや②他者に奉仕して生きたいと思う者も居る。これらは価値観の相違だろう。それでも確かな事が1つだけ有る。『他人を喜ばされば、自分も嬉しい。その気持ちが誰にでも有る』
2012年4月13日金曜日
5日目。元気になった。主治医の先生、頼みます
昼前に、CTで腹部の写真を撮る。昼食の後、すぐ、主治医の先生が来られた。笑顔が素敵な、お若い先生だ。高感度抜群。「もう1回頑張りましょうね」と言われて、「ハイ」。最後に勝つ者はほほえむ人だ。「先生の腕に頼みます」。幸い、尿も黄色く、正常に、大量に出ている。我が腎臓よ、良くぞ頑張ってくれた。皆さんも、そうです。長崎の、年老いた修道士を見守ってくれて、日記を読んでくださる皆さん、お祈りは、ありがとう。私の顔色、どうですか。今度、砕石すれば、ゲンキになります。私はそういう実感がするのです。1日目は入院。2日目は手術。その夜は苦しんだ。3日目までが点滴。4日、5日目は平常の生活。テレビは見ないと決めていたが、北朝鮮がロケットを打ち上げと聞いて、誘惑に負けた。北朝鮮生まれだからね。病室に夕闇がせまる。ベッドで独り歌った。「愛と慈しみのあるところ、神はそこに居られる」
2012年4月12日木曜日
残念、まだ結石は残る。もう1度、手術しましょう
お医者さんは言った。「長時間、頑張ってみたが、全部の石は取れなかった。来週月曜(16日)に、もう1度、実施しましょう」。尿管から3mmのカメラを入れる。石の大きさは、5mm、6mm、幾つもある。それを1つづつ砕いて、流す。石の硬さは、中ぐらい。6、7個ある。時間の間に、7割しかできなかった。残り3割。今度、取ります。汚れたバイパスも抜いて、新しいバイパスを入れた。お医者さんにお任せしよう。それにしても何んで、石なんか、できたのだろう、と思う。介護の千草さんが言った。「小崎サンの好物は牛肉のテンプラだから、それが頑固な石になったのよ」。返す言葉もないが、(それでも、やっぱり、食べたいな)と心の中。手術時間が長かったので、待っていた見舞い人たちは心配したらしい。「トマは大丈夫だろうか。元気になるだろうか」。腎臓の内部をいじったので、まだ血尿がでている。まあ、そのうち収まるだろう。術後の発熱はない。体調は良好。尿が沢山でているので腎臓の機能も低下していない。忍耐して、イノチつなごう。昼食時に千草さんが来た。「あなたが介護してくれて助かったよ」「小崎サン、夜中の3時頃だったか、無心で両手を招いて、コルベ神父、聖コルベ、聖コルベと大きな声で叫んでいた。確かにコルベ神父さんを見ていたんじゃない?」「覚えていないね」
2012年4月11日水曜日
2倍の時間を要した手術。夜中の看護も大変
挨拶をして手術室へ。白い大きなベッドが中央にあった。観念して横たわる。手足に沢山の線がつながれる。目をつぶれば、冷たい器械が闇に迫ってくる。左手の上に、柔らかい手の温もりが重なり、不安を消してくれる。全身麻酔の深い眠りに落ちていった。・・・名前を呼ばれて気が付く。正面の時計は5時を示していた。「え、こんなにも長時間」。麻酔から覚めてから辛い。悪寒、痰・咳、腕の痛みに苦悶する。収まるのに30分かかった。看護師詰所まえの術後室に入った。その夜は大変だった。千草さん(写真)が傍に付いてくれた。千草さんの家は、病院から徒歩3分の所にある。。この前の入院のとき、私が「なぜ見舞いに来ない?」と責めると、「急がしか、モン」と答えた女性だった。1晩じゅう寄り添い、私が動くと顔をのぞけて、丹念に、寝汗をぬぐう、顔を冷たいタオルで拭く、上腕の痛みを長々とマッサージする。ロザリオも何本も唱えたという。只ただ感謝しかなかった。おそらく1晩じゅう寝なかっただろう。長い夜が明けた。大きな山場の1日が明けた。尿は管を通して袋へ。夜中にトイレに起きない。朝、管を抜いた。からだを拭いて、午前中に、自分の病室に戻った。そのときの写真です。
2012年4月10日火曜日
午後から手術。腎臓1つで問題多し。何とか頑張る
病室は1人部屋。差額費用は被爆者ガン手当てより支払いの予定です。部屋には電話、インターネット利用が付いているので便利です。恵まれた部屋です。感謝しています。滝神父さんが励ましにきた。(写真)。さて、朝食なし、昼食なし。午後から手術となる。2時間の予定です。それ以上は腎臓に影響がある。手術の目的は、レントゲンに映らない結石の粉砕です。腎臓が2つあれば問題は少ないが、私は1つなので問題が多い。余り無理すると腎機能が低下する。手術のポイントは3つです。①数個ある石の粉砕。器械の名前は「ホルミニム・ヤグ・レーザー」(県に1台しかない)。②腎機能を低下させない。③正常な、きれいな尿が出ること。手術は全身麻酔で行なわれる。腰椎麻酔でいいのだが、私の背骨はカリエスのため隙間がなく、麻酔注射が入らない。前の手術で40分ぐらい要しても入らない。麻酔には大学から専門医師が担当するという。安心です。手術後は別室に入り、さまざまな処置が行なわれ、身体的にもタイヘンが予想されます。こんな苦労には慣れていますが、この度はどうなるか。今朝は司祭の祝福だけでした。カゼが心配でしたが、平熱で乗り切りました。
2012年4月9日月曜日
入院する。お祈りをお願いします。み旨のままに
朝から気持ちは晴れ晴れしています。聖コルベ館を定刻に開け、出かける準備をする。事務室の私のパソコンに向かい、この記事を書いている。しばらくは書けない。9時30分、赤尾院長さんと山浦神父さんがワゴン車で送ってくれる。今度は悲壮感は余りない。病院に着き、手続きをして、病室に案内された。幸い、パソコンが使える部屋です。赤尾院長さんが急いで聖コルベ館に帰り、私のパソコンを運んできた。セットしてくれた。これで病室から「登明日記」が毎日、書けるでしょう。皆さん、見守って、快癒を祈ってください。苦難の道行が始まります。11時からお医者さんの説明があるそうです。赤尾、山浦、2人の神父さんが一緒に説明を聞きます。追々、日記で皆さんにもお知らせします。今度は元気になって帰りますよ。希望を持っている。
2012年4月8日日曜日
休んでいます。まだカゼが良くならない。ガマン
寒気がして休んでいます。入院を前に、用心しています。大丈夫です。尿が赤く濁っていますが、心配はしておりません。ベッドで独り歌っています。「神の計らいは限りなく、生涯、私はそのなかに生きる」。今度、石を砕けば、元気になるでしょう。そんな気がするのです。生きるとは、自分の力ではない。生きている間は神さまが御目をとめてくださっている。それを信じるのが信仰です。
2012年4月7日土曜日
残念、韓国へ行けない。永井先生、語れない
何年か前に、韓国・テグに、李大司教さまを訪ねた写真です。李大司教さまは永井博士の尊敬者です。何百回となく長崎に巡礼し、韓国の司祭、信徒に巡礼を勧め、韓国に「如己の会」を促進している。その李大司教さまから招待状がきた。「5月6日(日)に、永井博士についての講演をお願いします」。嬉しいじゃないですか。行きたいですよ。でも4月は入院がある。健康のことだから予定は立たない。「不参加でしょう」と残念ながら返事をファックスした。李大司教さまは「永井隆の生涯」を日本語で書いた。「カトリック信徒の彼は他人を愛することを信条として生き、被爆以後はひたすら世界の平和を訴え、人類愛の実践を目指した人でありました」「永井博士、この人を知って以来、私は韓国の人々にこの人物を紹介したいと願ってきました」。ああ、残念、韓国へ行きたいよう。
2012年4月6日金曜日
大山教会の庭にマリアさま。サクラ満開だよ
修道者の花見だよ。サクラにマリアさま。いい場所だね。チュン、チュン、鳥もさえずっている。浮かれる気分だよ。弁当を食べよう。長崎市内・大山教会の三村神父さん(写真・右3人目)から、「教会の庭のサクラ、満開ですよ」と誘いがあった。去年も、一昨年も同じ場所で花見をした。そこで今年も出かけた。大山町は①町の戸数80戸、全部カトリック。②戸数の7割が大山姓。③有名なタケノコの産地。これらが特徴。竹林に囲まれた細い道を山へと登って行く。「こんな所にヒトが住んでいるか」と疑うほどの山地に人びとが信仰を守っている。三村神父さんは元・浦上天主堂の主任司祭。2000年に、私は三村神父さんと被爆マリアと共に、ベラルーシへ旅行した思い出もある。春の風に吹かれて、元気も出るさ、やる気も起こるさ。「山を登るのはキツイけど、登ればハナも咲いている、マリアさまも居られる」
2012年4月5日木曜日
まだ大きな課題が残っている。心配はしない
前もって覚悟を決めるということです。まだ腎臓に結石が残っています。どうして石ができたのか、理由はわからない。バイパスが入っているので、いずれ取らなくてはいけないし、石も砕石しなければならない。1つの大きな課題がまだ有るわけです。今日は聖木曜日(ミサの制定)、明日は聖金曜日(十字架の犠牲)、次の日は聖土曜日(復活徹夜祭)、そして復活祭。明けた月曜日に入院します。この日に入院を決めたのはお医者さん。摂理か、偶然か。快癒を期待している。この山1つ越えれば、必ず元気になります。軽の運転もできます。それまで自粛している。これまで綺麗だった尿が、4月に入って若干、濁ってきた。気にはしていないが、順調よく行っていると思う。皆さんにはお祈りの援助をお願いします。
2012年4月4日水曜日
生きている、本当に幸せ。心を開いて祈りたい
今朝、祈りのとき、思いました。子どもの頃から、今まで、「誰から」「どんな教えを受けたか」。ふと浮かんだのが、小学校のとき、戦時中、先生が教えた。「普通の石も、磨けば輝く・タカラの石になる」。それ本当と思います。ミロハナ神父は「病気はお恵みです」と教えた。「ウソ、そんな事、あるもんか」と20代の私は反発した。あれから60年。いま私は存在している。と言うことは、すべては良いように導かれてきた。だから今が有る。では災難をどう解釈するか、の問題が湧く。災難、沢山、あったな。それでも今がある。「災難」に、「導き」が勝ったのかも知れぬ。自分の努力は何もない。それは、この歳になって、認めます。最後まで、良いように導かれるよう祈りました。そのためには自我を捨てなければ、ダメかな。
2012年4月3日火曜日
北海道は留萌から、神父がバス運転で毎年来る
毎年、春休みになると、1人外国人の神父さんが、北海道から、中型バスで、大勢の若者を乗せて、自分で運転して、やってくる。「オオー、今年も来たか。待っていたぞ」。バスの屋根に結んだナベや荷物。くたびれたようなバス。いたわりつつ走る気分。格好なんて、いいんだ。中身で勝負だぞ。受けるこっちも熱を込めて、「コルベ神父のように、優しさ、愛の人、悪に負けない人になろう」と燃えて呼びかける。神父さんの名前は覚えないが、その熱意には「感心やなあ」とただただ脱帽。もう10何年と、やってくる。継続は、チカラなり。若者たちにとっては初めての長崎。神父は寡黙で、何も言わない。ズボンのポケットから「献金を」と何やら出すから、「トンでも、ない」と、当方からガソリン代を献金した。若者の心に残るのは、この神父の優しさと苦労の思い出と、長崎のコルベ神父の名前だけで良い、と思いつつ、彼らと一緒に写真を撮った。「また来年も、来いよ」
2012年4月2日月曜日
待ちに待った春だよ。冬眠から目を覚ませ
「あッ、割っちゃったよ」。手元が狂ったのか、キュウスのフタをパチン。ひとりで食事を早めに食べていた。食べた後、洗おうとして、この始末。カゼ引きで、アタマ、ふらふら。手もフラフラ。付いていないときは、手も滑ってしまう。炊事担当の修道士さんに、「すみません。ごめんなさい」と、あやまった。スッキリしないね。でも、怠けておれない。今朝、9時、聖コルベ館の扉を久しぶりに開けた。3日間、休んでいた。今度のカゼには、さすがにマイッタ。寒気が胸の奥まで入って炎症をおこし、気管支炎か、肺炎初期を引き起こした。「キツーイ、セキが出て、弱ったよ」。声が出ないから、恥ずかしくて、会話もできない。何んにも言わずに、休んでいた。ニンゲンの弱さだけを感じる日々だった。高齢者はカゼに注意しないとダメですね。
2012年4月1日日曜日
この時期になると、病床に取り付かれる
庭のマリア像に、サクラの花が咲いた。やっと春になった。教会では枝の主日で、聖週間が始まる。ところが、どうも、この時期になると病床に取り付かれる。3年前のガン発症も聖週間だった。昨年は枝の主日は入院中であった。84歳になって、カゼを引くと、こんなにも辛いものか。セキ、タン、気管支の苦しみに悩まされる。ある朝はミサを欠席し、聖務日課も休んだ。じーっと自室で休んでいる。何も考えない。冬眠中のキツネか、タヌキか。マリアさまが優しく呼びかけている。ゆっくり休みなさい。4月には、また入院して、結石を粉砕する処置が残っている。マリアさまのご保護をお願いします。
終戦直後、聖母の騎士・小神に入ったとき、毎朝、夕べにも、このマリア像の前で祈って、大浦の東陵中学に通った。まだ軍国主義が残っており、背嚢せおって、ゲートル巻いて、10数人の小神生は行進して通学した。ぐれた学生を「ごろつき」と言ったが、彼らは道端にたむろして、学生が来ると、殴りかかってイジメた。ところが小神生が来ると、「おい、道ば、あけろ」と指示して、安泰に通してくれた。彼らは小神生たちを尊敬していた。このマリアさまを見ると、いつも、あの頃を思い出す。