2018年8月31日金曜日

8月も終わる。外食の喜び。生きている限り幸せを

野外活動の日。予定では、轟(とどろき)の瀧へ行き、ソーメン流しを食べるはずになっていた。朝食時に「中止です」と告げられる。雨雲が丁度、昼食の頃に近づいてくる。「瀧は危険なので」が理由だった。(ああ、ザンネン。ソーメン流しで、この夏を締めくくろうと思ったのに)と悔しがっていると、「それでも外食したい人」と話が出て、手を挙げて応じた。私を入れて男性2人、女性が2人いた。10時頃、案の定、突然、激しい雨が降り出した。(ああ、ヤッパリな。最近の天気予報は良く当たる)。出発は11時。その頃は天候は晴れていた。男子職員の運転・付き添いでホームを出発した。私を入れて男子2人、女性2人が車に乗った。食事処まで約20分。途中、激しい雨が車を叩き付けた。食事処に着いた時は、雨はやんでいた。(おかしな、テンキだなァ)。職員と我々4人。(ヤッパリ、良かったと思いますよ。食事の時間は30分、後、ゆっくりして、店を出るまで45分は、かかった。『ゆとり』だね。ホームの食事は15分で終わる。それを比べても幸せだった。ありがとう。
★8月も今日で終わる。8月は、長がーィ、気がした。原爆の日の花の贈り物、聖コルベの祭日は聖母の騎士へ、ゼノ修道士の映画で新聞にも大きく取り上げられた。充実した月だったと思い『賛美と感謝』です。「むかしの積み重ねで、今の自分が、ある。もう昔の自分には、戻れない。これから先の幸せを、少し、少しづつでも、切り開くしかない」。食事処で、すき焼き・うどん定食を食べながら、そう思ったね。

2018年8月30日木曜日

騎士誌を配ったマチア修道士の命日。安息を祈る

マチア・ヤ二エツ修道士の命日です。大浦天主堂の石段や、浦上の平和祈念像付近で、「コレ、イリ、マスカ?」と、聖母の騎士誌を配っていた修道士です。長崎の町、修道服の外人さん、ということで有名でした。
★亡くなったのは1996年(平成8年)ですから、22年になります。ですから写真は1980年代でしょう。コルベ神父が聖人になった時、取材が押し寄せました。マチアさんは毎日、午前中に、電車に乗って、大浦か浦上へ出かけます。テレビがマチアさんを追いかけ、電車の中で揺られながら話を聞きました。マチアさんは騎士誌を手にして言った。「コルベ神父サマ、クバリ、マシタ。ゼノサン、クバリ、マシタ。イマ、ワタシ、クバリ、マス」。マチアさんの総てを表した名言だと思う。
★和歌山県の女性から便りがあった。「昭和57年(コルベ神父が聖人になった年・1982年)、修学旅行で長崎を訪問したとき、マチアさんと一緒に写真を撮った。縁あって、その後、カトリックの洗礼を受け、騎士誌の読者になりました。マチアさんとの出会いは偶然でない縁を感じます」
★「あなたのおかげで、今のわたしが、あります。そんな言葉をいえる人に、出会いなさい。あなたのジンセイは、幸せになる」
★マチア・ヤ二エツ修道士は、94歳で神に召された。

2018年8月29日水曜日

ノドは大丈夫。カメラで明確に診た。老化の現象か

昨日の出来事。耳鼻咽喉科医院から帰って、思った。(棒の先に付いた丸い小さな鏡で、ノドの奥を診て何がわかるか)。声には自信があった。10年間、語り部も努めたし、日本26聖人の活動写真の弁士も何百回となく努めた。声を張り上げて賛美歌も歌った。最近、肝心のノドの調子がおかしい。
★日本26聖人の活動写真の弁士を努めた初代・恩師でもある田川初治先生は、後年、喉頭ガンとなり、声を失った。私は2代目。田川先生の前で、日本26聖人の弁士を勤めたこともある。あの時は喜んでくださった。
★昨日、ホームに帰ってから、看護師さんに報告し気持ちを伝えた。看護師さんは「では・・・」と、別の耳鼻科医院を教えてくれた。「機械も揃っている噂がある」。だが予約が必要。看護師さんが電話をかけてくれた。「え?明日の午前9時30分が空いていますか?ああ、よかった」
★今日の出来事。午前9時に、看護師さんの運転で、ホームを後にした。9時20分に、写真のようなカラフルな耳鼻咽喉科医院に着いた。9時開院なのに、14番目だった。白紙に症状を記入した。直ぐに呼ばれて、診察室に入る。挨拶が終わる間もなく、両耳を診て、左の鼻穴からカメラの管を入れた。1分もかからぬうちに、テレビに、きれいなノドの奥のカラフルな写真が出た。声帯は、左は広がっているが、右側は狭い。ガンや潰瘍などは、ない。老化のための現象。出来るだけ声を使って下さいと言われて、終わった。「タクシーを呼んでください」。タクシーも早々と来た。
★医院からホームまで11Km。3.150円だった。(今日は、いいことがアッタな)と、3.500円渡すと、運転手さんは喜んで去った。「看護師さん、よかったよ。安心したよ」「よかったね」

2018年8月28日火曜日

耳鼻科へ。声の調子、いまイチ。入江さんを見舞う

シスターの修道女院の応接室の角にあったご像や額縁です。左から聖コルベ神父。木彫のマリア様のご像。修道女会の創立者ミロハナ神父。「殉」と書かれた額縁、十字架など。シスターの修道女院へ行くと、「トマさん」「トマさん」と親しく呼びかけてくれる。有り難い。感謝の気持ちで、このご像や額縁を眺めました。
★ホームの入江さんが諫早の病院に入院して、3週間近くなる。午前中、高原修道士と一緒に見舞いに行った。93歳の入江さんはベッドに大向けになったまま動かず、足から大きな袋の点滴を注入されていた。手を握ると、力強く握り返していた。写真も撮ったが、ここには載せない。別れる前に、入江さんが大きな声で、高原修道士に言った。「今度、大橋(食事処)に連れて行ってください」「2、3日したら、入江さんの好きなウナギの蒲焼きを持ってくるからね」。高原修道士は、しっかりと手を握り締めて、そう言った。
★入江さんの見舞いの前に、ホームが行きつけの耳鼻咽喉医院を受診した。平成26年度から、年に1、2回受診して、耳を診て貰っているが、今度の受診は「2年ぶりだね」と医師から言われた。「声が出にくくなっている」と告げた。医院には咽喉カメラの備えはなかった。棒の先に付いた丸い鏡で、舌を引っ張って、ノドの奥を診た。「声帯がうまく閉じていない。隙間が有る。右の声帯の振動が少ない」と言われた。

2018年8月27日月曜日

ポーランド山平さんの家族は2年前ホームを訪ねた

ゼノ修道士のDVDをくれた山平茂美さんのご家族。左から妻のイヴォナさん、きれいな奥さん。8歳の百合香さん。小学生。写真映像作家の山平さん。「そのお隣は誰ですか?」と聞いたら、「イタリア人の修道士で、身体に5つの聖痕を受けている。金曜日になると、5つの傷に変化が表われる」そうです。ポーランドの百合香さんの学校に話に来られた。写真の後方にはシスター達の多くの姿が写っている。その修道士については、詳しくは聞けなかった。
★山平さん、イヴォナさん、百合香さんが、ホームに来たのは2年前、2016年5月31日だった。その日の日記に次のように記している。「3人は長崎の聖コルベ館を見学して、トマの文庫本『長崎のコルベ神父』『身代わりの愛』を買った。トマに会いたくなって、レンタカーで訪ねてきた。これから彼の中で、どういう計画があるか知らないけれど、ボク的にはポーランドといえば血が騒ぐ。ポーランドの赤カブのスープ、水餃子、おいしいね、と言ったら、奥さんの顔に笑いが起こった」。百合香の左腕に、聖コルベ館の赤いスタンプが2つも押されていたのを今も覚えている。その年の8月には、ポーランドから『紙袋入りのスープ』を送ってくれた。
★あれから2年後、ゼノ修道士のDVDが出来るとは思いもしなかった。1年前のポーランドからの映画取材班⇒今年8月のポーランドから山平さんの電話⇒日記に書いた⇒長崎新聞の上司が読んだ⇒長崎新聞の諫早支局の記者⇒シスター修道女院での上映会⇒長崎新聞の一面トップに「ゼノさんが紹介される」。めでたし、めでたし。

2018年8月26日日曜日

ドカンと、一面トップで、ゼノさんの記事が出た

今朝、「長崎新聞」を見た。一面トップに、ドカンと、ゼノ修道士の記事が出ていて、おどろいた。諫早支局の女性記者さん、よくぞ頑張ってくれました。感謝した。自分の予想では、長崎新聞の「県央の頁」で、僅かな記事で出るのかなァと思っていたが、長崎新聞のタイトルの横に、デカ、デカーッと、グ、グッと出たので、気持ちがスカーッとした。よく、まとまっていて満足しました。早速、午前中に、雲仙温泉の女性信徒からお祝いの電話を頂いた。
★自分のパソコンで、もう1度、ゆっくり気持ちを落ち着かせて、「Zenosan」を見た。自分の発言もよく分かった。最後の部分では、ゼノさんは海外の災難にも敏感で、ニュースをよく知っており、援助品を送っていた、とあった。ゼノさんの人柄、人間愛、人類愛が、世界に広がっていたのを感じた。
★後は、「Zenosan」のDVDを、どのように普及させるかの問題があります。DVDを欲しいと望む人も居るでしょう。ただヨーロッパのDVDは日本では写らないと教えられています。どのように変更させるのか、いま考えているところです。
★長生きすれば、身体的に苦しいところもあるが、こころ的には、いいことも、あるんですね。感謝です。

2018年8月25日土曜日

ゼノ修道士の映画、聖フランシスコの精神は生きる


昨日の夕方、長崎新聞の女性記者が、ホームに迎えに来た。黒の四輪駆動の乗り場が高い車だった。まだ明るさが残る山道を、十数分走る。山の中のシスターたちの修道女院へ到着した。それと同時に、ポーランドからの山平茂美さんも着いた。院内に入り、先ずは再会を喜ぶ。シスターの心こもりの夕食を、トマ、山平、記者の3人で戴いた。韓国人のシスターも居るそうで、韓国の「おにぎり」もあった。7時に集会室に集り、ゼノ修道士の映画が始まった。シスターたちは、35人ほど居た。トマも後方で期待の映画を見た。
★ゼノさんと言えば、語るに沢山の話題がある。その人生の流れを、どのように「30分の映画」にまとめるのか。映画の最初は長崎の原爆から写る。最初は丸く、後、もくもくと空高く上がる原子雲。パアッと、出たのがトマの原爆体験の語りだった。「本当に、びっくり、したよ」。その話が又、長いんだね。30分の時間に、「もったいない」気持ちだった。
★結局、十数人の男女が、思い思いに、ゼノさんの印象を語った。トマ、シスター岩崎、萩原神父、水浦神父、ポーランド人のシスターなどが身近な人では証人になった。その話を、こま切りにして、ゼノさんの歩みの折々に、つないで行った。山口神父は聖コルベ館の資料室から、ゼノ修道士の遺品、カバン、クツ、名詞入れなど説明した。
★映画を見ながら感じたことは、ゼノ修道士は、①路頭に迷う人も、身なりの汚れた男女も、先生、親方、社長と呼ばれる人も、同じ人間として同等に見ていた修道士。②金銭や物資を持てる人から寄付して貰っても、自分は厳しい清貧に生きた修道士。③お礼を求めない、見返りを求めない、無償の愛を貫いた人、だったと言える。映画の中には沢山の写真と、動くフィルムも収録されていた。運動会で、走るゼノさんの姿もあった。
★最終的には、ゼノさんの着ているフランシスコ修道服が強烈に写った。ゼノさんは、本当のフランシスコの弟子であり、兄弟であった。トマは、修道服を誇りに思う。
★山平茂美さんは、ポーランド在住9年、ポーランド人女性と結婚して、娘の百合香さんは8歳になる。制作は外務省で、縁あって、この映画に携わった。別れに、ゼノさんの映画のDVDと、ポーランドの蜂蜜を贈ってくれた。
★ホームへの帰りは、新聞記者が車で暗い山道を送ってくれた。夜の9時に帰る。その夜は、ゆっくりと眠った。今朝、また昼前に山平さんがホームに見えた。ありがとう。写真の後ろは、証言者のシスター岩崎さんと、ポーランド人のシスター。

2018年8月24日金曜日

夕べの電話。お菓子で分かった。話題は広がる恵み

昨夕、夕食が終わって自室でくつろいでいると、携帯が鳴った。めったに電話など掛かってこない神奈川県・川崎の山野尊行さん(79歳)からだった。
★「日記、読みました。『代官山の小川軒のお菓子』ね、あれ送ったのは堀江亀子さんでしょう」。ずばり言い当てたので、ビックリした。日記には名前は伏せていたのに、「どうして、わかったの?」「わかりますよ、堀江さんと2年間、一緒の活動をしました」「え?いつ頃?」「4年前から2年間ですよ」「つい最近じゃないですか」「堀江亀子さんは東京の渋谷教会(ドミニコ会)の信徒で、渋谷教会で『Alpha』の集いという福音宣教の活動をなさっておられます」
★山野尊行さんは、堀江さんについて詳しい活動を教えてくれた。カトリックの雑誌に月刊誌『毎日の黙想』がある。毎日のミサ中のみ言葉の1つを解説した雑誌で、アメリカの『The word among us』誌の黙想の箇所を抄訳した日本語版である。
★平成元年に、聖母の騎士社の編集長・坂谷豊光神父が、定期刊行物の記事を模索して聖コルベに祈っていたところ、『毎日の黙想』を持ち込んだのが堀江亀子さんだった。聖母の騎士社で印刷されることになり、今日まで続いている。
★「えーぇ、そう、だったのか」と私は感心した。アメリカ人の父や祖父が、孫に『隆』の名をつけたのも、父や祖父の永井隆博士への尊敬の念もあったかも知れないが、日本人の母や、東京の祖母・亀子さんの信仰的なご縁もあった、と思った。昨日の日記に載せた「代官山小川軒のお菓子」が、このように広がるとは、不思議なつながりだとも思った。
★食事の時、瀧神父さんに、『毎日の黙想』のことを伝えると、「最初はガリ版刷りで、自分(司祭)のところに無料で届いていた」という。今は有料になっている。
★今日、山野尊行さんから、ファックスが届いた。山野さんは聖母の騎士学園の出身者である。学園の季刊誌に、彼が2年前に書いた記事を送ってきた。彼の身辺の紹介の中で、堀江亀子さんの『毎日の黙想』も紹介し、更に次の話題も載せている。「堀江さんのお孫さんで、Seattleに住んでいる日米のハーフで『チエちゃん』と呼ばれる可愛い女学生が、日本語の勉強も兼ねて6月より約3ヶ月間、日本に滞在し、各地を廻っています。堀江さんのアイデアで、6月中旬に聖母の騎士社の印刷所で10日間ほど研修させて頂きましたところ、殆ど雨だったのに、日本で長崎が一番気に入りました、と嬉しいことを言った」
★インノセント坂谷豊光神父は、平成18年7月、神に召された。 

2018年8月23日木曜日

東京からお菓子が届く。愛情こめた「いなり・ずし」

アメリカ人青年、隆(永井隆博士の名前を付けた)さんの日本・祖母さんからお菓子が送られて来た。「代官山の小川軒のレーズン入り」で、とても人気が有る、と書いてあった。
★「十八年ぶりに成長した隆に会って頂き、あんなに喜んでいただき、娘(隆の母親)も私もとてもうれしゅうございました。あの日に、永井隆記念館に行き、水浦神父様が永井徳三郎様にご紹介くださいました。その後、タクシーで永井博士のお墓参りもいたしました」と喜びの手紙が添えられていた。
★2000年に、永井博士を尊敬しているアメリカ人の父親と日本人の母親が、生まれて間もない、まだ1人で立てない隆ちゃんを連れて聖コルベ館へ来た。永井博士のお墓や、永井記念館では、館長の永井誠一さん(故人)に抱っこされて写真も撮った。外海にも案内した。
★今度の来日(写真・左・ホームにて)で、18歳の大学生に成長した隆くんは、自分の名前の由来も訪ねて、何を感じたのだろうか。祖母さんの手紙によると、「小崎様のブログを英語に訳してあげたので、小崎様のお気持ちがとても嬉しかったようです。18歳という大切な時期に、特別な体験をさせて頂いたことを神様に心から感謝しております」
★朝食後、入浴した。入江さんは8月10日から入院しており居ない。入江さんの姿を見ないので、三度の食事も寂しい。
★昼食は、ざる・そば、いなりずし2個、えび天2個、ミカン入りのカンテンが出た。いなり・ずしが美味しかった。丁度、炊事の女性職員が食卓の横に来たので、「いなり・ずし、おいしかったよ」と伝えた。すると職員が、ほほ笑みながら「愛情をこめているからね」。即座に私が「愛情はないが、味付けが・・・」と言ってしまった。(ああ、余計な事を言ってしまった。なぜ反対の事を言うのだろう。『愛情もあった。味付けも良かった』と告げなかったのか)と深く反省した。修道士の発言は重い。即座に出た言葉が、他人も、自分も傷つける。気持ちよく働ける職場・生活の場にしたい。女性職員さんに、ごめんないさい。

2018年8月22日水曜日

今日の出来事。平凡な生活。チク、チク、傷む腹


左の空は、今朝、5時10分、自室を出て廊下のガラス窓から見た風景です。教会で祈って、1時間半後、同じ場所からの朝の空が右の写真です。何か異様な空でした。
★教会では、高原修道士が休暇で不在。橋口修道士が黙想会に出て不在。祈りの先唱がトマに回ってきた。勿論、修道士だから「祈りの先唱」はお手の物でした。ホームに入ってからは、すっかり遠のいていたので、調子が出ない。苦労しております。
★おなかの左側辺りが、チク、チクと傷む。「なんだろう、ステントが内臓ですれているのか」。そんな気で、傷む所を時々押さえる。老いてくると、アッチも、コッチも、痛みが出てくる。眼からは涙が出て、眼がかすみ字が読めない。教会の祈りの先唱では、字が涙でボヤケて声がつまって間があいた。その字は「弱い」だった。
★ホームでは水曜日なので、自室を職員が掃除してくれた。午後からは来月の予定のお知らせ(懇談会)があった。
★長崎新聞の記者からファックスが入った。ポーランド在住の写真映像作家の山平さんの日程・時間表が記されていた。8月25日、12:30聖フランシスコ園訪問(小崎様へDVD手渡し及び上演)とある。もう直ぐ「ゼノ修道士の映画」が見れる。楽しみは増してきた。食事のとき、瀧神父さんと話し合った。「ゼノさんの列福運動は起こらないのかね」と瀧神父さん。「奇跡が2つ認められないとね」と言いつつ、心の中で(ああ、ゼノさんがトマに何か奇跡を起こしてくれたらな)と思いよぎった次第です。

2018年8月21日火曜日

「長崎新聞」の記者が訪ねてきた。ゼノさんの映画で

地方誌「長崎新聞」諫早支局の記者が訪ねてきた。
★同じ新聞の佐世保支局長が(トマも知っている)私の日記を読んで、「25日、土曜日に、ポーランドから『ゼノ修道士の映画』を持ってくる。記事になりそうなので、知らせてきた。その日記のコピーを持って、記者は訪ねてきた。「よく、まあ、わたしの日記を読んでくれているんだね」。支局長の連絡行為が嬉しくなった。記者は、その日、映画の後で、「小崎さんのコメントがほしい」と打ち合わせに来たのだった。
★長崎本社に20数年、勤めていたが、諫早支局に転任になった。「諫早は本当に良い所で、例えば、小・中・高校生まで、信号の無い横断歩道を渡るとき、車が止まってくれる。渡り終えると、振り返って、車に向かって1礼する習慣がある。交通少年団のような訓練があって、やっぱり温かいというか、心を打たれる行為です」と誉めていた。
★ポーランド在住の写真映像作家の山平茂美さんから電話があって、25日に来ますと告げられた。ポーランドからカメラ取材班も来た。どんな映画が出来ているのか、30分というから、短編にまとめている。私にとって、ゼノさんは忘れない修道士だ。ポーランドへ行った際、ゼノさんの生まれた村、教会、親戚などを何度か訪ねた。教会の傍に、小さなゼノ資料館もあった。ポーランド語の単行本も出版されて、ポーランド人には知られている。ゼノさんの映画を見るのを心待ちにしている。もう直ぐだ。今週の土曜日になる。その時、会いましょう、と約束して2時間ほどの会話の後、記者は帰った。
★ニンゲンは、信念となるハシラを、生涯をかけて、1本持ちたい。ヒトは誰でも、1本のドラマなら、他の人には無いものが書ける。

2018年8月20日月曜日

潜伏キリシタンが伝えた雪のサンタ・マリアの聖絵

潜伏キリシタンが世界遺産になった。夏の話題として、1枚の貴重な聖絵を紹介しよう。歳を老いた者は歴史をかかえている。過去の証言を知っている。平成元年に神に召された出津の信者に、田中用次郎さんがいた。外海のキリシタン研究家で、私も懇意にしている篤信の男性だった。平成元年に亡くなっているから、30年以上前に聞いた話になる。
★田中用次郎さんは、この写真の聖絵を昭和50年頃に外海の農家で発見したと言った。「私が子供の頃、キリシタンの血をひく母が、しばしば『雪のサンタ・マリア』のことを話して聞かせた。母から聞いていた『雪のサンタ・マリア』はどんな聖絵かと、長い間、脳裏から離れなかった。それが縁あって、うららかな春の昼下がり、農家のこんもりと繁った古い椿の木の下で、その聖絵を現実に見たとき、非常に感動を覚えた。描かれた人物は頭を軽くたれ、両手を優しく合わせて祈る乙女マリアで、純潔をあらわす赤い布を身にまとい、自然の髪を長く垂れ、バラの花の冠を戴いていた。額や左頬と耳に斑点が染み付くほど絵は痛んでいたが、表情はやさしく、神の御母としての尊厳が溢れていた。350年、命をかけて、この聖絵を守りぬいた。同行の結城神父が言った。『無原罪の聖母マリアです』」
★田中用次郎さんは、母から口伝えに覚えた潜伏キリシタンの「アヴェ・マリア」の祈りを、最初の「アベマリア、ガラシャベーナ、ドメレコ、べラットツーヨ」から「アメン」の最後まで一気に唱えて、私を驚かせた。
★「どうして雪のサンタ・マリアというのですか」と聞くと、用次郎さんは答えた。西暦365年、聖リベリウス教皇の代に、ローマにヨハネという熱心な貴族がいた。夫妻に子供が居なかったので、遺産の相続人を聖母マリアに定め、財産をどのように使ったらようでしょうかと聖母マリアに熱心な祈りを捧げていた。
★ところが8月4日の夜に、聖母マリアが夫妻に別々に現われて、「エスクリヌムの丘に雪を降らせるから、その地点に聖堂を建てるように」とのお告げがあった。教皇にその旨を報告すると、教皇も同じお告げを受けたという。ローマの聖職者や信徒たちが行列して丘に登ってみると、本当に丘の一部に白雪がつもっていた。お告げの通り、教会が建てられた。これが雪の聖母マリアの大聖堂である。
★用次郎さんによると「このような言い伝えを聞いた外海の潜伏キリシタンが、当時、描かれていた無原罪の聖母マリアの聖絵をみて、『雪のサンタ・マリア』或いは『サンタ・マリアの雪殿』と呼んだのでしょう。キリシタンたちは、苦しいときも、悲しいときもサンタ・マリアを仰ぎ、そのご保護を求めながら強く信仰を守り続け、宣教師たちの到来を待ち続けたのです」と言った。田中用次郎さんが今も生きておられたら世界遺産を喜ぶとこだろう。惜しい人を早く亡くした。
★潜伏キリシタンの口伝えの教えは、『ローマ』や『雪の』や『雪殿』など確かに伝わっていた。その信仰に驚くばかりです。ちなみに、この聖絵は、長崎市の日本26聖人記念館に大切に展示されている。

2018年8月19日日曜日

ナマの演奏は、心を揺さぶる。楽しく合わせる、一時


日曜日の午後、時津町から、若い女性4人と男性1人のアンサンブルがやってきた。車で1時間以上はかかるでしょう。遠方からです。「社会人ですが、練習に励んでいます」と挨拶。ホームの老人たちに聞かせる選曲も大変でしょう。4つの音色を持った楽器が紹介され、ナマの演奏に、沈みがちな老人の心は揺さぶられました。楽しいひと時でした。
★「西郷どん」から始まり、「アメリカ民謡」。次に、ホームの「コーラス」で歌っている親しみのある「ふるさと」「海」「幸せなら手をたたこう」が奏で、2曲の後で、「水戸黄門」「浪花節だよ人生」で締めくくった。もちろん、アンコールの拍手はありました。アンコールに何が演奏されたか。「長崎は今日も雨だった」
★ホームでは、吹奏楽アンサンブルは初めてでした。やっぱり、ナマの演奏は、心が揺さぶられますね。音楽は、子供の時から親しめば、生涯、心が楽しく豊かになる。私は音楽はニガテだな。軍歌で育っているからね。残念だな。

2018年8月18日土曜日

急に歯が、グラグラ。こりゃ大変だ。抜いて安心した

絵手紙で、描いた。「メロン?」「いや、スイカ」と言って「いや、いや、カボチャだった」。ホームの食事にも、汁物や、天ぷら、煮物によく出る。「生きる喜び」の字は、ここに何を書こうか、思いあぐねていると、下に広げていた新聞紙に、この活字が眼に止まった。「これだ、これや」
★一昨日、夕食を食べ始めると、下の歯がグラグラ。「これは、オオゴト、だ」。歯が取れて、食事と共に飲み込むかも知れない。食べるのを止めた。幸いに、昨日が歯科医院の予約の診察日になったいた。うまく調子が合っているのを喜んだ。予約の時間は午後4時だった。ホームの男子職員に、運転して送迎してもらう。歯科医院まで15分を要する。「グラグラの歯、取れないでしょうか」。レントゲンを撮り、グラグラの歯を麻酔をかけて抜いてくれた。歯が割れていた。根元の歯が未だ残っている。「そのままに、して、おいてください」。医院の滞在時間は1時間半かかった。夕食はホームで1人で食べた。カボチャの天ぷらもあった。
★ここまで書いたら、アナウンスがあった。「かき氷を食堂でやっています。おいでください」。もう夏も終わりでしょう。老人にはひと夏、ひと夏が有り難い。生きて、喜び。「かき氷でも食べに行くか」。童心になって、イチゴと、メロンを食べた。瀧神父さんも姿を見せた。喜んで食べる。若い職員が、老人の面倒を見てくれます。
★以前に、老・修道士がつぶやいた。「死ぬのは、怖い。自分が無くなるからだ。怖いというのは人間の本能だ」。コゲたものを食べると、ガンになる。そう信じて、パンがコゲると、こすって落とした。その彼が亡くなって、もう何年になるか。いま誰も彼のことは考えない。「痕跡を残したい」。誰もが、そう思うだろう。コルベ神父は「自分が死んだら、自分のこと考えないでください。マリアさまのことだけ考えてください」と、セルギウス修道士に繰り返し言った。その結果、コルベ神父ほど痕跡を残した人はいない。それが不思議なんだな、ニンゲンの世界って。そこに、ニンゲンに、不可解な、不思議さ、希望を持たせる、意味を持たせる、生きさせる力がある。あるよね、それが・・・。

2018年8月17日金曜日

安らぎの心、いたわりの心、ありや。これ、ヘイワ

湯江教会の鐘楼の下に、聖コルベの白いご像が立っている。誰かが、赤い冠と白い冠の花束を捧げた。
★聖コルベよ、助け給え。思わず祈りが出てくる。17歳でコルベ神父が創立の修道院に入った。終戦の直後でもあり、未だコルベ神父がナチの強制収容所で殉教した事は全く知られていなかった。私の成長に合わせて、コルベ神父の愛の殉教、敵に対する許し、その生き方、死に方が、じょじょに明らかにされると共に、福者になり、聖人にも挙げられた。その喜びは大きかった。
★コルベ神父から命を助けられた男性にも出会い、私も原爆の被爆者として「平和の語りべ」になりたいと努力した。推進力を戴いたと思う。歳をとっても、以前のようには動けなくなっても、最後まで「語りべ」でありたい、それが願いである。聖コルベを語る。安心する。こんなに幸せな境遇があろうか。
★喜んでいなさい。語りは「愛」だけでなく、「赦し」もある。赦しがなければ、平和は来ない。その語りが自分の特徴でもあった。聖コルベの二つの冠、花束には手が届かない。だが最後まで、この道に生きれば幸いである。聖コルベよ、助け給え。手を伸ばして引き上げ給え。あなたが創立した修道院に入った者ですから。
★「毎日、安らぎの心、ありや。いたわりの心、ありや。これ、ヘイワ、なり」

2018年8月16日木曜日

バイクの男性から、山梨の大きなブドウが届いた

山梨の男性から、大きなツブのブドウが送られて来た。昨年の5月の連休に、バイクでホームに訪ねて来た男性です。「小崎さんに会うのは、5回目です」。1回から4回は聖コルベ館で会った。歴史を語れば、長い。それでもご縁をつないでくれる。有り難い。ブドウに手紙が入っていて、今年も9月末に長崎を訪れると書いてあった。6度目の出会いが楽しみです。
★実は、長崎に来るのは22回目と言った。バイクの旅は12回目。聖コルベ館で会ったのは、①1992年が最初。「洗礼を受けて来なさい」と言われた。②2000年も訪ねる。③2007年、「洗礼は、まだ?」と言われた。④2013年、「2010年に洗礼を受けました。霊名はバルトロメオ」。私は喜んで、「登明・日記」に載せた。
★⑤5回目はホームにバイクで訪ねてきた。自室で語った。「毎日、日記は読んでいます」「なぜ、そんなに長崎にこだわるのか?」。高校生の時にバイクに乗り始めて、キリスト教やキリシタンに心を惹かれた。「長崎オラショの旅」や「十七歳の夏」の本を見せた。別れには、修道服を着て、彼のバイクを入れて、玄関のツツジの前で記念写真を撮った。その年の8月に、大きなツブのブドウを送ってきた。
★今年も、またブドウが届いた。この辺には無い、大きなツブのブドウです。「山梨はブドウの収穫の季節となりました。今年も職場の同僚が作っているブドウをお送りします」。心のこもった手紙だった。
★⑥9月はバイクでなく、飛行機で長崎を訪ねる予定だと書いてある。「潜伏キリシタン世界遺産」で、充実した旅が出来るでしょう。出会ったら、ゆっくり話をしましょう。希望があれば、ホームの日々の生活も張り合いがあります。ブドウは有り難う。

2018年8月15日水曜日

聖母被昇天の祭日。お赤飯に、マンジュウを食べた

聖母被昇天の祭日です。聖母マリアが霊肉ともに天国へ昇天されたお祝い日です。朝、5時40分から湯江教会で、祭日の「教会の祈り」があり、ミサで祈りました。
★ホームの礼拝の日に当たり、午前10時からも湯江教会で、ホームの皆さんと、湯江教会の信徒の祈りと賛美歌でお祝いしました。祭壇の前には、故人の写真が並んでいました。お盆でもあるので、故人のため、戦争犠牲者のため祈りました。参加者が多くて、教会内は「いつも、こんなに、あったら、いいな」の思いがよぎりました。瀧神父さんも祭壇で祈りました。久しぶりに見る瀧神父さんの教会でのお姿です。昼食は、お赤飯と、「ふくれ・まんじゅう」がありました。マンジュウを食べながら、「ああ、やっぱり、被昇天祭だな」と感じました。
★日記に載せる為に、聖母マリアさまの被昇天の聖絵は無いかなァ、と考えていました。すると、去る7月に、ホームの事務長さん夫妻が、「ローマ・ヴァチカン・アシジ・ルルド」を旅した写真の数々を見せてくれました。その中にあったのが、見事な「聖母被昇天」の聖絵です。マリアさまが天上に登って行かれて、御父、御子イエス、鳩の形をした聖霊が描かれ、下には御墓と弟子たちの姿があります。本当に今日の日をお祝いする適宜な聖絵です。これはフランス・ルルドの大聖堂の下の、ロザリオ壁画の一部分です。
★事務長さん夫妻は、この度の旅行で、ルルドではフランス人のジャムさんにお世話になったそうです。ジャムさんは、ホームにも来て、トマにも会い、「トマさんのことば」を貰い、それをフランス語に訳してくれた男性です。日記でも紹介しました。写真は、左からジャムさん、事務長さんの奥さん、事務長さん、事務長さん夫妻の娘で、いまローマ留学しているシスター架耶乃(かやの)さん、一番右が納富さん(以前、聖コルベ館に勤務。一緒に旅行に同行しました)です。写真には一番左、顔と体が半分しか写っていませんが、この女性のお宅で、長崎・聖母の騎士に来たフランス人です。ジャムさんは親切に、車で、案内してくれたそうです。12月に、ホームに来ます、と言った。ジャムさん、楽しみに待っているよ。

2018年8月14日火曜日

瀧神父、退院。聖コルベの祭日。マリア様に奉献を


先ずは、入院していた瀧憲志神父さんは、昨日の夕方、退院されてホームに帰りました。お祈りくださったことに感謝します。
★今日は聖マキシミリアン・マリア・コルベ神父の祭日です。長崎・聖母の騎士修道院で、お祝いがあるので出かけました。山内園長神父さんが運転で、同乗者は浜田神父さん、橋口修道士さん、トマの4人でした。ロザリオと、ミサ。その後、修道者たちでお祝いの会食が食堂でありました。食卓の準備係りは、松下修道士さんでした。皆さんと聖コルベのお祝いが出来るのは喜びであり、楽しみです。聖母の騎士修道院の創立者は聖コルベです。聖コルベに倣うのが私たちの務めです。
★コルベ神父は神を愛し、人を愛した手本です。人の幸せは愛を感じるときです。イエスに似た者になりたい。強く望みました。その最も近道は、けがれなき聖母マリアを愛し、完全に奉献し、道具となり、マリアさまが自分の中で働かれる者となることです。コルベ神父はそれを完全に果たしました。だから命までも捧げることが出来たのです。彼は生涯、沢山の苦しみを経験しましたが、総ては、長上への従順の中に、けがれなき聖母マリアの導きとみ旨を見出し、最後は、悪に負けない愛の勝利者として、けがれなき聖母マリアの被昇天の前日という最適の日に殉教しました。聖母マリアの御元に召されました。今年は亡くなって、77年になります。
★世の中、いろいろ複雑です。赦せない。忘れられない。たくさん有る。「恨んで、当然。憎んで、当然。仕返ししようと思って、当然、なのに、コルベ神父のような人もいる」

2018年8月13日月曜日

飾られた故人の写真。空には白い夏雲。何を想う


お盆が近づきました。食堂の片隅に、1年間に故人となった入園者の写真が飾られました。8人になります。谷村達郎神父さん、村山安治修道士さんのお姿もあります。食堂のガラス戸から屋外を見れば、白いマリア像と、白い夏雲が浮かんでいました。
★93歳まで生きた村山修道士さんは、人生の半ばで眼の病にかかり、視力を失いました。あの白い雲も、風景も全く見えなかったが、温かい声で人びとと関わり、穏やかながら洞察力深い言葉と祈りで人びとを支えました。「賛美と感謝」が口ぐせでした。そして彼は言いました。「すべては、み摂理です」
★私は想う。最後の一線は、理屈じゃない。踏み込め。飛び越えろ。世の煩雑に惑わされるな。見えるものに、あくせく働く。見えないものに、静かに祈る。どちらが心やすらぐか。振り返って言えることは、これまでの「すべて、すべて、全部、全部、みせつり、だった」。その心は、前向きに人生を受け止める。ツライことも、楽しいことも、良いように、み摂理と考えて生きる。生かされていることが、カンシャ。それで充分です。神さま、おつきあい、させてください。ワタシを、変えさせて、ください。

2018年8月12日日曜日

8月は、母の写真を載せて、祈り、供養します

長崎・原爆の日から数日が経ちました。73年になります。やはり母親の写真は載せないといけないでしょう。母親の原爆死を偲ぶためにも。「浦上天主堂に於いて平和の祈りを捧げていた母」。左側は原爆以前の浦上天主堂です。東郷元帥の切手が貼ってある。中央は天主堂の内部。信徒の祈り。左の黒いのは男子の席。右は女性たちのベール。右側は母と小学生の私です。母は、着物を愛用していた。自分でも着物を縫っていた。私の左手の指に、白い包帯をしている。北朝鮮の冬は極寒で、「しもやけ」が毎年できて、指がただれていた。
★原爆の日、朝、一緒に起きて、朝食を一緒に食べて、出かけた。母が笑って送ってくれた。それが最後です。原爆の爆風で、家も母も吹き倒され、高熱で燃えてしまった。
★原爆の日は、木曜日だった。トンネル工場での勤務は、夜勤1週間、昼勤1週間の交代制だった。その週が、昼間の勤めだったので、トンネル内に居り、助かった。もし夜勤だったら、昼間は家で寝ていたので、死ぬはずだった。生死の別れ目だった。
★夕方、家に帰ると、家の中まで入れない。燃えた材木で一面に火が残っており、足を踏み入れる状態でなかった。翌朝、家に戻り、母を捜したが、遺体は皆、違っていた。隣の家の、助かった人の話では、原爆直前まで一緒に居て、家に戻った時、閃光が走ったと言った。隣の家族は11人だったが、結局、生存者は1人になった。放射能の恐ろしさである。
★73年が経過しても、若い母親は、老いた私の心の中に居る。8月は祈りの月です。犠牲者の冥福を祈ると共に、唯ただ、戦争がない平和を望むばかりです。

2018年8月11日土曜日

瀧神父さん、入院。予定は1週間。回復を祈る

瀧憲志神父さんが、いま入院しています。ホームの食堂で、一緒の席で食事をしている瀧神父さんです。居られなくなって、食事も寂しいです。
★右足のツメを切っていて、切り口から菌が入ったらしいのです。右足が足首のあたりから、少しハレが出てきました。看護師さんが心配して、すぐ諫早の一番大きな病院に連絡しました。医師の紹介状がないと診察が出来ない病院です。看護師さんが、以前、この病院に勤めておられたので、電話でお願いして、診察を受けて、入院となりました。今週の月曜日でした。入院4日目、原爆の日に、長崎の帰りに見舞いに行ったとき写した神父さんの姿です。お元気でした。
★治療のおかげで、右足のハレもすっかり良くなり、もう大丈夫でした。今日は6日目ですが、あと2、3日で、退院できるでしょう。
★病棟は改造されて、清潔で、快適な病室でした。窓辺のベッドで、窓から諫早カトリック教会が見えました。懐かしい風景でした。時々、あの教会でお祈りしました。隣にシスターの幼稚園があります。
★瀧神父さんが居られないと、やはり寂しいです。もう一時の辛抱で、すぐ戻って来られるでしょう。ミサを捧げる姿もなく、午後の共同のロザリオにも姿がないので、早めの回復を祈っております。

2018年8月10日金曜日

永井隆博士の如己堂と、母が生まれた場所へ行く


昨日は、永井隆博士の「如己堂」にも寄った。久しぶりに永井先生の小さな家の、細い縁にさわる。ガラス戸から2畳ほどの中をのぞく。左側に白い聖母マリアのご像。聖母の騎士のポーランド修道士が納めたご像であろう。右手に、白いバラがあった。永井先生は、白いバラをこよなく愛(め)でていた。辞世の句も、「白バラの香りが立つように、昇りゆく」意味の歌だった。永井先生に、中学(小神学校)で、理科を習った思い出を誇らしく大切にしている。「如己愛人」。己の如く、人を愛する。真理を追究された永井先生。この小さな家で長年病み、最後の日に大学病院へカトリック青年たちから運ばれて、逝去された。昭和25年の5月1日。マリアさまの月の第1日目だった。「永井先生は、どんな人?」「おおらかで、やさしく、おもしろい人」。授業では原爆の話は一切しなかった。
★如己堂から坂をくだって、旧・街道を右に、母が生まれた場所に行った。その場所から50mほどの所に、「浦上の殉教者ベアトスさまの碑」がある。ここも懐かしい場所です。巡礼者たちを案内して、よく来ました。ここは、元々、聖地と呼ばれた場所であり、母も子供の頃はここで祈り、遊んだかも知れない。原爆の爆風で、塔の石が、右側へ何cmか、ずれたと聞いた。
★原爆の当日、午後4時頃、17歳の私は、この街道を歩いて自宅の方へ向かった。家々は倒壊しただけで、まだ燃えていなかった。家の残骸を乗り越えて歩いた。丁度、母が生まれた場所辺りの家で、少女が泣いていた。「お母さんが、家の下敷きになった」という。かがんで見ると、瓦や材木の下に、髪の毛が見えた。私1人の力では、どうすることも出来なかった。私はその場を離れた。自宅があった所を眺めると、周辺一面は燃え尽きて何もなかった。廃墟であった。「ああ、母は、どこだ」。私は唯、泣き叫ぶばかりだった。

2018年8月9日木曜日

原爆投下の時間、計らずも母と別れた場所で祈った

8月9日。長崎・原爆の日。毎月1度、長崎市のヨゼフ・クリニックへ定期の診察へ出かけている。ホームの看護師さんが予定を設定してくれた日が、丁度、原爆の日になった。高原修道士さんの運転で出かける。
★患者が少なく、診察が早めに終わった。高原さんが、「トマさん、原爆の日に住んでいた家へ行ってみよう。11時2分、投下の時間にサイレンが鳴るので、ロザリオをお祈りしよう」と勧めてくれた。道も、家々も、全く変わっていて、73年前の風景は見出せない。「このヘンに家があった」。木造の家が、そこにあった。「当時の家は木造です」。サイレンが鳴った。原爆死した母親、親戚、犠牲者のために、ロザリオ1連唱えた。看護師さんの設定、高原さんの好意、原爆当時の家の付近で、祈れるなんて思いもしなかった。安倍首相が原爆の祭典に出席されるので、警察官による道路の封鎖が10分間つづいた。
★原爆の日、魚雷制作のトンネル工場を出て、浦上川まで来た。橋が壊れていて、渡れない。川の中へ降りて行った。死体が幾つか川にあった。川を渡ろうとすると、「助けてください」とズボンのスソを引っ張られた。「え?君は、ダレ?」「ボクは小学6年生です。夏休みで、オジサンの家に居たらバクダンが落ちて、オジサン、死んで、ボクも足をケガして、ノドが渇くので川の水を飲みました。ボクは、もう動けません。助けてください」「助けるって?どこに助けるの?」「浦上全体がメチャメチャに崩壊され、ここに居ても、場所を移しても同じことナンです。だから、ここに、ジッとして、ここに居りなさい。後で、警察のオジサンと警防団のオジサンが助けに来る」「イヤだ、イヤだ。ボクは、ここに居たら死んじゃうよ」。それでも少年の手を振り払って、その場を逃げた。すると少年の声が私の背中に届いた。「オニイチャン」。今日は、その浦上川へ行ってみた。「ああ、ここなんだ。あの少年を助けなかった場所は」。唯々、当時を思い、悲しみが胸に湧き起こった。あの少年は、どうなったであろうか。私は言う。「ゲンバクとは、助ける事が出来ないバクダンだよ」

2018年8月8日水曜日

原爆死の母の命日に、今年も北九州からお花が届く

原爆忌。原爆死した母親のために、今年も、北九州のお母さん「直美さん」と娘さん「衣里さん」から立派なお花が届いた。聖コルベ館に居たときも、ホームに来てからも、毎年、原爆前日に贈られてくる。もう10何年になるだろう。
★事の起こりは、衣里さんが小学6年生のとき、北九州から修学旅行に来て、私が原爆の語り部を努めたことだった。旅行の後で、感想の文集がきて、それに私が返事を出した。すると又、折り返し手紙が1通だけきた。それが衣里さんだった。
★衣里さんが中学生になったとき、2001年の正月、今年は毎月、100羽の折り鶴を折ります。10月18日が誕生日ですから、それまで千羽鶴を織って送ります、との手紙がきた。毎月、100羽づつ送られてくる。それを恵が丘原爆老人ホームの1人に差し上げて喜ばれた。毎月、1人づつ。そして10月、千羽目は、本人の衣里さんと、お母さん直美さんが長崎へ来て、原爆老人ホームで10人目の老人に完了の千羽鶴を差し上げたのだった。見事に成し遂げたわけです。これが、そのときの写真です。新聞に掲載された。
★出会いから18年の歳月が流れる。衣里さんは高校生になり、成長して結婚し、2人のお子さんの母親になった。聖コルベ館時代に、修道院の数人と、北九州の衣里さんのお宅まで訪ねたこともある。お母さん直美さんとも出会った。
★いつの頃からか、私の母親の命日に、毎年、立派なお花が届くようになった。3、4年なら、いざ知らず、10何年も続くとは、本当に真心のこもったお花の贈呈です。感謝して戴き、飾って、母の命日を祈っております。
★今朝は、教会のミサで、司祭にお願いして、「トマ・松吉、クララ・ワサ」の両親のため祈りました。
★直美さん、衣里さん、出会いから今まで本当に有り難う。ご縁をつづけてくださること、本当に嬉しいです。原爆死した母は45歳でした。このお花を喜んでいることでしょう。

2018年8月7日火曜日

崩壊した浦上天主堂。何故ここに原爆が落ちたか?

原爆前の浦上天主堂。丘の上に聳える巨大な教会。浦上信徒の誇りでもあった。15歳、16歳、17歳の8月まで、浦上天主堂に通って、祈った。忘れない。
★この歳まで生かされて、ナゾに思う出来事は幾つか、ある。「なぜ、浦上天主堂の上に、原爆が破裂したのか」。疑問であり、ナゾは解けない。人智の及ぶ事ではない。原爆機は最初、長崎の中央辺りに投下を狙っていた。雲に被われていたため、視野で確認できる所に落とした。計らずも、カトリックの信徒が多い浦上天主堂の真上に炸裂した。「沢山、祈っていたのに、賛美していたのに、なぜ、ここに落とされたのか。多くの信徒が犠牲になったのか」。未だに分からない。
★隣の家は親戚だった。その家の祖父と一緒に、天主堂へと歩いた。26聖人が通った坂道をあがると、わき道に入り下る。小さな川に出る。川添えの細い道を行くと、通りに出て、天主堂が眼の前に現われた。堂内は皆、床板張り。男子は左側、女性は右側と決まっていた。祭壇近くに子供の席があり、大勢の子供たちがいた。子供の一団の後方に、「しくろう・さん(漢字でどう書くか分からない)」と呼ばれるオジサンが座っていて、態度が乱れた子供がいると叱られた。「バシッ」と時折、音もした。教会での態度の悪さは赦されない。
★大勢の信徒の祈り、賛美歌、圧倒される声だった。堂内には巨大な柱がある。豪華な祭壇には、聖人たちのご像が並び、高い所に美しい聖母マリアのご像があった。戦争が激化すると、天主堂内は軍の命令で、米や、缶詰などの備蓄場となった。原爆で、この米や缶詰が何日も燃えつづけた。毎晩、その火を眺めて泣いた。隣の祖父も原爆症で2週間後に死んだ。
★浦上出身の母親から、イノチと、信仰をもらった。カトリック信徒となった。この教えは、先祖が潜伏キリシタンとして、7代に亘って、受け継いできた信仰です。この教えを生涯守り続けて来ただけです。浦上信徒は、聖母被昇天の祭日前に、必ず告白をした。その習慣は今も私に残る。今朝、ミサ後に、司祭に告白して、祭日に備えました。

2018年8月6日月曜日

アタマも、サッパリ。迎える祭日。後は心の清さだけ

理髪屋さんの夫妻が来る。普通は3人だが、お父さんは高齢と酷暑でお休み。当たった番号は1番だった。1番というのは気持ちがいいよ。このカオになる。これでサッパリして、聖母被昇天祭日も、聖コルベの祭日も、長崎・原爆の日も迎えられる。後は心の掃除、告白でしょう。昨日から聖コルベの祭日前の9日間の祈りも始まった。聖コルベに取次ぎの祈りを唱えましょう。
★沖縄の女性から、マンゴーが1箱送られて来た。毎年、この季節になると、高価で立派なマンゴーが届く。ありがたい、珍しい贈り物です。
★沖縄の押川司教さまがホームに来られた。司教さまが食堂の私の食卓の席まで来て言った。三教区(沖縄・鹿児島・大分)の司祭合同黙想会があった。指導司祭の神父が、トマさんの本から紹介した。電車に乗って、降りる話だった。「この人、まだ生きているよ」「えーェ?そうなんですか。もう亡くなったと思った」と神父。「電車」「乗り降り」それだけで、ああ、あの話かと直ぐに分かった。自室に戻り、自著「ドキュメント・キリスト信者」に、「旅の終点」が載っていた。これで、あろう。最初から最後まで読み返した。文章としては、よく書けている。こういう、しっかりした文章を書く年代もあったのかなと思った。昔、書いた私の話を、どこで、誰が使ってくれているか、感動して受け入れてくれているか、一片の出来事を知って、非常に嬉しく、その一日が明るくなった。

2018年8月5日日曜日

祈りや愛はムダにならない。マリアさまの助けある

今年は特に酷暑の日々が続いている。太陽に向かって、大きく花開くヒマワリのように、ゲンキを貰いたい。
★昨日は、教会では「聖ヴィアンネー」の記念日を祈った。フランス・アルスの聖司祭といわれ、19世紀の半ば、亡くなった。私は若い頃、聖人伝をよく読んだ。その中に、聖ヴィアンネーもいた。聖人の特徴は、徹夜の祈りと、断食と、厳しい苦行と、絶えず告白を聴く聖人といわれた。大勢の信徒たちが、聖人の元へ告白に押し寄せた。霊魂の状態を見通す聖人で有名だった。悪魔が嫌って、大きな音をたてて脅かした話もある。
★話は変わって、長崎県には大村湾の入口に、西海橋(アーチ式で、長さ316m、海面からの高さ45m)がある。昭和30年11月に完成したが、橋の下は、潮の流れが激しく、船も流される。飛び込むと、渦巻きで死体は上がらない。一躍、自殺の名所となった。橋の完成後の2,3年間に30人が自殺し、150人が保護された。私は「オラショの旅」で、平戸へ案内するとき、西海橋を通った。そのとき説明していたのが、この聖ヴィアンネーの話だった。
★ある1人の女性が、悲しみに沈んで聖ヴィアンネーに相談に来た。主人が橋から投身自殺をした。主人の霊魂は何処へ行ったのか。祈ってもムダですか。私は一体どうしたら、いいのでしょう、と嘆いた。聖人の司祭は見通して言った。ご主人は5月にマリアさまへ美しいお花を捧げていたのを覚えていますか。そのささやかな行為をマリアさまはお見捨てになられません。ご主人は、足が橋から離れて、海面につく瞬間に、聖母のお恵みで改心したのです。大きなツグナイをしているから、多くのロザリオで助けてあげなさい。
★そこで西海橋へ来たとき、言うんです。本当に、瞬間に改心できるのでしょうか。疑問だね。その証拠があった。昭和33年2月に、1人の高校生が飛び込んだ。幸い、近くに漁船が居て、意識不明の彼を助けた、記事が新聞に載った。高校生曰く、死にたい。親不幸をお許しください。遺書に書いた。飛び込んで落ちて行くとき、自分をはっきり意識した。深く沈んだが、浮き上がって、再三もぐった。死にきれず、泳いでいる間に意識を失った。やっぱり瞬間に改心の時間はあったのです。
★聖ヴィアンネーの記念日が来ると、なぜか、この話を思い出すのです。西海橋には続きの話がある。ある若い母親が赤ちゃんを抱えて橋の下を覗き込んでいた。突然、赤ちゃんを放してしまった。赤ちゃんは45m落下した。幸い、船が赤ちゃんを助けた。私が西海橋を訪れたとき、ちょうどお母さんが、入院していた赤ちゃんを抱いて、関係者にお礼に来ていたのだった。話によると、赤ちゃんの体はやわらかく弾力性があり、肉体はふんわりしており、マリのように跳ねて助かったらしい。そんな事を耳にした。世の中には、いろんな事が起こるモンですね。

2018年8月4日土曜日

誕生会。大曾神父さん、入江さんのお祝い。恵み一杯

ホームの入園者で、8月に誕生日を迎えるのは、5人。8月1日、入江さん、93歳。8月10日、大曾神父さん、91歳。おめでとう。「ハッピバスデイ」の歌で祝ってもらった。いつまでも元気で、長生きしてください。誕生会といえば、職員さんの出し物です。「アシタが、あるさ」を踊ります。音楽に合わせて、笑いと喜びとお祝いのうちに踊ってくれた。「そう、さ。アシタが、あるさ。くよくよ、するな。希望も、あるさ。夢も、あるさ。生かされて、いるじゃないか。ゲンキを出そう」。踊りと、歌で楽しくなりますよ。お赤飯も出ました。
★誕生日を迎えた、大正14年生まれ、93歳の女性は、美声を張り上げて、2曲、それぞれ2番まで歌い披露した。見事なモンです。迫力に飲み込まれる。生きるチカラがある。エライ、モンですな。こうして今日は、楽しく誕生会を終わりました。
★「老人ホームに入る」というと、世間では一般に少し抵抗がある。しかしホームに入ると、栄養管理の食事をいただき、手厚い介護を受けて、健康も守られ、車椅子になっても長生きしている。ありがたい生活です。瀧神父さん、大曾神父さん、入江さん、みな、いいカオ、しているでしょう。ゆっくり、安らかに、暮らしております。トマも、ね。