原爆前の浦上天主堂。丘の上に聳える巨大な教会。浦上信徒の誇りでもあった。15歳、16歳、17歳の8月まで、浦上天主堂に通って、祈った。忘れない。
★この歳まで生かされて、ナゾに思う出来事は幾つか、ある。「なぜ、浦上天主堂の上に、原爆が破裂したのか」。疑問であり、ナゾは解けない。人智の及ぶ事ではない。原爆機は最初、長崎の中央辺りに投下を狙っていた。雲に被われていたため、視野で確認できる所に落とした。計らずも、カトリックの信徒が多い浦上天主堂の真上に炸裂した。「沢山、祈っていたのに、賛美していたのに、なぜ、ここに落とされたのか。多くの信徒が犠牲になったのか」。未だに分からない。
★隣の家は親戚だった。その家の祖父と一緒に、天主堂へと歩いた。26聖人が通った坂道をあがると、わき道に入り下る。小さな川に出る。川添えの細い道を行くと、通りに出て、天主堂が眼の前に現われた。堂内は皆、床板張り。男子は左側、女性は右側と決まっていた。祭壇近くに子供の席があり、大勢の子供たちがいた。子供の一団の後方に、「しくろう・さん(漢字でどう書くか分からない)」と呼ばれるオジサンが座っていて、態度が乱れた子供がいると叱られた。「バシッ」と時折、音もした。教会での態度の悪さは赦されない。
★大勢の信徒の祈り、賛美歌、圧倒される声だった。堂内には巨大な柱がある。豪華な祭壇には、聖人たちのご像が並び、高い所に美しい聖母マリアのご像があった。戦争が激化すると、天主堂内は軍の命令で、米や、缶詰などの備蓄場となった。原爆で、この米や缶詰が何日も燃えつづけた。毎晩、その火を眺めて泣いた。隣の祖父も原爆症で2週間後に死んだ。
★浦上出身の母親から、イノチと、信仰をもらった。カトリック信徒となった。この教えは、先祖が潜伏キリシタンとして、7代に亘って、受け継いできた信仰です。この教えを生涯守り続けて来ただけです。浦上信徒は、聖母被昇天の祭日前に、必ず告白をした。その習慣は今も私に残る。今朝、ミサ後に、司祭に告白して、祭日に備えました。