長崎・原爆の日から数日が経ちました。73年になります。やはり母親の写真は載せないといけないでしょう。母親の原爆死を偲ぶためにも。「浦上天主堂に於いて平和の祈りを捧げていた母」。左側は原爆以前の浦上天主堂です。東郷元帥の切手が貼ってある。中央は天主堂の内部。信徒の祈り。左の黒いのは男子の席。右は女性たちのベール。右側は母と小学生の私です。母は、着物を愛用していた。自分でも着物を縫っていた。私の左手の指に、白い包帯をしている。北朝鮮の冬は極寒で、「しもやけ」が毎年できて、指がただれていた。
★原爆の日、朝、一緒に起きて、朝食を一緒に食べて、出かけた。母が笑って送ってくれた。それが最後です。原爆の爆風で、家も母も吹き倒され、高熱で燃えてしまった。
★原爆の日は、木曜日だった。トンネル工場での勤務は、夜勤1週間、昼勤1週間の交代制だった。その週が、昼間の勤めだったので、トンネル内に居り、助かった。もし夜勤だったら、昼間は家で寝ていたので、死ぬはずだった。生死の別れ目だった。
★夕方、家に帰ると、家の中まで入れない。燃えた材木で一面に火が残っており、足を踏み入れる状態でなかった。翌朝、家に戻り、母を捜したが、遺体は皆、違っていた。隣の家の、助かった人の話では、原爆直前まで一緒に居て、家に戻った時、閃光が走ったと言った。隣の家族は11人だったが、結局、生存者は1人になった。放射能の恐ろしさである。
★73年が経過しても、若い母親は、老いた私の心の中に居る。8月は祈りの月です。犠牲者の冥福を祈ると共に、唯ただ、戦争がない平和を望むばかりです。