ついに、今年も終わりの日がきた。無事に終えたこと、何よりも有り難いと感謝する。人生は常に苦しみの連続だが、希望を持って明日を迎えたい。「今は辛くても、道の向こうには、幸せがある」。そう信じて生きようではないか。12月8日から色紙を描き始め、12月は去ろうとしている。色紙は、25枚売れた。東京で、日本語を勉強しているペトロ・イシトク神父さん(私と背丈が同じ外国人)に電話をかけて、「資金を、ルーマニアの家族に送りたい、紹介してください」と頼むと、メールでアドレスを送ってくれた。今朝、中央郵便局へ出かけたが、もう振替の窓口はお休みだった。来年になって、直ぐに送ろう。1年を降り返って、よくぞ、生き抜いてきたと思う。来年は元気の年になるだろう。登明日記も2009年4月から書き始めたが、5年目に入る。毎日、読んでくださった皆さん、コメントを戴いた皆さん、ありがとう。来年もよろしく見守ってください。大きなチカラ、ハゲマシになります。★2012年、最後の入館者は誰か?夕方、閉館まえに、1人のおばあちゃんが入ってきた。息子が庭に車を止めている。「おばあちゃん、どこから?」「鹿児島から、佐々木トクです」と言いつつ、「小崎サンですか」。名前を覚えている。「え?どうして」「10年まえに、黒砂糖を送ったでしょう」。そんな、10年前のこと、覚えないよと思ったが、「ああ、あの時は、ありがとう」と言うと、おばあさん、喜んだ。「また、持ってきた。食べなさい」。袋イッパイのおみやげ。「おばあちゃんが、今年最後の入館者です」と記念の写真を撮った。「おばちゃん、85歳になるよ」と言うと、「わたしは、94歳だよ」「ギョッ、負けたよ」
長崎のカトリック修道士。17歳の時、原爆を受けて、この道に入る。 生かされて来た数々の恵みの中で、今年の1月、最大の試練「すい臓がん」を告知された。 「みむねの・ままに」。孤独と苦痛に耐え得るチカラを日々、祈る。 毎日、日記を書き続けて13年。今、長崎市の病院・ホスピス病棟で暮らす。 追記 2021年4月15日 午後6時48分 帰天されました。享年93歳
2012年12月31日月曜日
2012年12月30日日曜日
東日本の原発事故地から来た見学客たち。コルベ神父への願い
夕方、3人の女性たちが入ってきた。「福島の和江です」「ああ、あの、和江さん」。時々、便りをくれていた女性です。「福島のどの辺でしたかね?」「原町です。原発から20kmから30kmの範囲になる」。原町といわれても、九州のニンゲンには、東日本の土地事情は皆目、わからない。地図を広げて確認すると、原発事故の近くではないか。びっくりしました。もともと津波は来ない所だそうです。しかし4mの津波が来た。建物は破壊され、大変だったと語りました。皆さんから助けられた。特に、東京教区の教会の方々に助けられて、励まされ、慰められた。あれから、もう2年になる。遠く、九州に居れば、細かい事情が全く体感できず、ほんとうに、ごめんなさい。3人のなかの、1人は女子中学生で、お願い事があるそうです。コルベ神父さまの椅子に座って、お願い事をしなさい。「コルベ神父さま、チカラをください。1つのお願いがあります。願いを叶えてください」と単純に願いなさい、と勧めました。若い人には希望がある。夢の実現に向かって、頑張ってください。日本人はこれまで幾多の困難に遭遇してきた。敗戦もあった。原爆もあった。戦後の混乱もあった。でも乗り越えるチカラもあるのです。必ず復興します。年月はかかるかも知れない。しかしパワーはもっているのです。女子中学生の未来に希望を祈る気持ちになりました。「コルベ神父の居室にあるサイン帳に、サインして行きなさいね」。中学生は、丁寧に、けんめいにペンを動かしていた。実現するよ。
2012年12月29日土曜日
聖コルベ館は年中無休です。いらっしゃい。待っています
あと3日で、今年も終わりです。時の経つのは早いものですね。アタマの中では、29、30、31と、3日。次いで、新年になって、1、2、3と、3日。これだけ正月休みがつづきます。まず平穏無事に過ごすことですね。聖コルベ館は年中無休ですから、いつでも、いらっしゃい。待っています。なぜ休みがないか?って。同じ場所で生活しているからです。午前中と、午後3時からは、聖コルベ館に居ます。「小崎サンですか?逢いたかったです」と言われると、やはり嬉しいですね。聖コルベの部屋はいつも開いています。降誕節ですから、頭上に、星も輝いています。素朴な部屋ですよ。ここでコルベ神父は病気と戦いながら、祈り、手紙を書き、いろいろな問題を処理し、苦悩しました。聖人も多く苦しんだ。マリアさまですら苦しみの生活でしたからね。苦しまなければ人は清くは成れない。今年の最後に来る見学者は誰でしょうか。新年、正月に、一番乗りをする見学者は誰でしょうか。興味があることです。1年まえは、最後に来たのは、岡山のウドン屋の青年でした。一番乗りは、東京のエリザベットさんでした。こうして人生は色々な思い出をつくるんですね。幸せを祈ります。
2012年12月28日金曜日
今年の5大ニュースは?苦悩の年だった。でも負けない
今年の10大ニュースは?考えてみたが、10もなかった。まあ、せいぜい、5だな。①今年はタツ年で、自分の年だから、正月は、それは、張り切っていたよ。よし、今年は頑張るぞ。ところが、人生は、まさか、まさかの、連続です。②6回の入院で、深いダメージを受けた。さすがに苦しかったよ。でも皆さんから励まされて、何とか快復した。まだ、まだ、クタバリません。しかし③運転は止めた。危ないからね。免許を取ったのは、昭和42年、1967年です。45年、運転してきた。自分から、ぶつかった事故は1度も無い。スピード違反は時々、一時停止違反は、1回のみ。ぶつけられたことは、2,3度あった。④外海・黒崎の従兄、福松さんを神の元へおくったことは、深い悲しみだった。88歳。彼は兵隊へ行って、一番危険なビルマ戦線へ派遣されて、九死に一生を得て帰還した。その他は殆ど黒崎を出ることなく、村のため、教会のため、無償の精神で尽くした。年に何度か、自宅へ行ってお世話になっていた。⑤自伝マンガ「焼けたロザリオ」がポーランド語版になって、出版された。ありがたいことです。後4日で、今年も終わる。お恵みのうちに、今年も終わる。「生かされて、今日も、5時に起きて、共同で、祈っています。
2012年12月27日木曜日
ボツ、ボツ、書いています。小さな記事。でも満足だね
毎月、オバマ温泉へ湯湯治へ行く際に、途中に、小さな赤い教会がある。この教会の歴史は割と古く、今の教会は、戦後まもなくで、天主堂建築で有名な鉄川与助さんが建てた。私は、この教会にまつわる、いい話を知っている。近くの農家に、結核で苦しむ娘さんがいた。もう、このまま死ぬのだろうか。彼女は寂しく思って、教会に手紙を出した。神父さんが訪ねてみると、娘さんは弱っている。可愛そうだ。幸い、近くに中国を追われたカナダ人のシスターが居た。神父さんはシスターに助けを求めた。この地には水道もない。濁った水しかない。シスターは大きな魔法瓶にお湯を入れて、そのお湯で娘さんの体を洗ってあげた。愛を感じて、娘さんは洗礼を受けた。彼女は読書が好きだった。近くの農家に、同じく結核を経験した青年が居て、娘さんのことを聞き、寝て読める読書台を作ってやった。それがご縁で交流が始まり、2人の結核は快癒し、結婚して、青年も洗礼を受けたという。この小さな教会にまつわる、こんな話を、むかし、聞いたことがある。そういう思いを抱きながら、その教会に寄ってみた。娘さんは今なお健在で、信仰をつづけているという。しかしダンナさんは亡くなった。私は彼女に会いたいと願ったが、「触れないで、ほしい」との願いだった。ザンネンに思いつつ、ある日、この小さな教会を訪ねてみた。女性の話は聞けなかったが、主任司祭のブリ神父さんに話が聞けた。その神父さんの話を、2月号に書いた次第です。案外、良く書けているな、と自分でも満足した文になっている。いい話に出会うと、また書く意欲が湧いてきます。気持ちも、すカーッとなる。大げさに言えば、生きるチカラが、みなぎってくるのです。
2012年12月26日水曜日
色紙が11枚売れる。正月にかけて、販売を期待する
主の降誕祭の夜に、近隣で働く修道会の司祭・修道士の夕べの祈りと、報告と、会食があった。15人が集まった。個人の報告で、「今年はタツ年、自分の年で、よし、頑張るぞ、と思っていたら、6回入院して、深くダメージを受けた。それでも、まだ生かされている。来年は、いい年になるでしょう。勤めは聖コルベ館の担当。座っているだけで、多くの見学者に出会える。これは大きなお恵みです。健康的には、要支援1になり、入浴の介助と、部屋の掃除を男性ヘルパーにお願いしています」と皆さんに語った。「生かされている間は、せいイッパイ、生きよう」。それで、いいではないか。12月8日からルーマニアの貧しい家族へ送金するため、色紙を描き始めて、玄関に置いているが、11枚売れました。後、10枚ほど売れたら、第1弾、送金できそうです。お正月にかけて、期待しています。絵もさることながら、モンクが大切ですね。心引かれる言葉、短く、適切な語句、難しい文言は不人気のようです。
2012年12月25日火曜日
主の誕生。クリスマス。真の意味は何なのか。謙遜と愛
クリスマス・イブの日。休みなのか、見学者が、三々五々、来る。1人の女性は、子どもの頃、近くのキリスト教会に通い、主の祈りを覚えた。その後、教会は遠ざかったが、主の祈りだけは、夜、寝るときに唱え続けた。結婚して、最近になって、カトリック教会に通い、洗礼を受けた。主の祈りは、少々語句が変わったが、今も唱え続けている。主の祈りが導いたやも知れぬ、と思った。大浦天主堂のミサに祈って帰るが、運転して約2時間、自宅は深夜2時頃になるだろう。それでも満足そうに微笑む女性だった。また東京から来た女子大生、遠藤周作の女の一生を読んで、好きになり、外海の文学館へ行ってきた。来年1月から、要理の勉強を始めて、洗礼を受けたい、と言う。人々は、「清さ」を求めているのか。ニンゲンの一生なんて、誰しも汚れ、傷つき、痛んでいる。悩みもある。だが生きている間に、徐々に精錬されて、清められて、希望が満ちてくる。クリスマスの真の意味は何か。神さまが、この世に来られた。赤ちゃんの姿をとって生まれた。この赤ちゃんは、一生、穢れなく、濁りなく、清純に生涯を送っていく。人間に、たった1人、このような人間も居ても、いいじゃないですか。それがニンゲンの救い、彼に頼ることが希望でもある。憧れでもある。生まれたからには、誰でも死ぬ。神の御子も十字架の死をとげた。しかし神さまだから死で終わりでない。主には復活がある。主には、チカラがある。クリスマスという主の降誕と、復活は、つながっている。聖母の騎士の教会に今年も大きな馬小屋が完成した。信徒たちは灯りを消した聖堂のなかで聖歌を歌い、手にコップの灯をともして、馬小屋へ近づき、灯りを並べて礼拝した。願うは、ガマン、けんそん。幼子は、優しく微笑みかけて、老人にも教えている。
2012年12月24日月曜日
一足先に、クリスマス会。劇と、豚汁で、主は来ませり
年賀状を半分だけ書いて、聖コルベ館から、教会のホールへ。もうクリスマス会は始まっていた。「トマさんが来たよ」と、1枚の色のついた紙を渡される。「これに、お互い、お祝いの挨拶をして、名前を書いてもらってください」。紙には、瞬く間に、名前が増えた。以前は、ポーランド式で、広いホスチアを少しづつ、ちぎって、「おめでとう」と言いつつ、ちぎったホスチアを口にしていた。もう、その習慣は止まった。子どもたちの劇の後で、オニギリや、豚汁などを食べた。もうクリスマス・主の降誕は、そこまで来ている。今年は寒さが厳しい。朝夕の気温は、1度まで下がった。
2012年12月23日日曜日
新聞に小さな記事。出津の江口さんが書いた。思い出
電話があった。「モシモシ、出津(外海)の江口です。長崎新聞に小さな記事を書きました。読みました?」「イヤ、まだ見ていない」「よかったら見てください。500字以内ですから、短い文章です」「それは有り難う。後で読ませてもらうよ。それより、出津のド・ロさまの救助院ね。改築中でしょう。もう出来たようだが、いつオープンするの?待っているよ」「来年の4月に改築祝いです。ミサもある。一般見学は5月でしょう」。救助院は、ド・ロ神父資料館の前にある。ド・ロ神父さんは、この2階建ての大きな建物に、村の娘たちを集めて、1階で農業、カイコの飼い方、編み物など実際の教育を行なった。2階は全員、合宿で、祈り、宗教の教え、聖歌練習、教養などの養成を行なう。ここから、結婚する者、オンナ部屋に入る者に分かれて、結婚した家庭から多くの聖職者、司教、司祭、シスターが何百人となく育った。いわば花嫁学校でもあった。出津に召し出しが多いのも、この建物に秘密があった。長い間、解体し、また元の通りに再建していた。この建物が出来ると、また見学の場所が増える。ド・ロ神父さまを偲ぶよすがとなる。期待している貴重な建物です。江口さんの報告で、いまの事情がよく分かった。さて、長崎新聞を見ると、このような記事が「読者のページ」に載っていた。記録のために、ブログに取り上げました。
2012年12月22日土曜日
ああ、ごめん。ネコの首、もげちゃったよ。かわいそうに
昨日、福岡の倉田さんから、オミヤゲにもらったフランスのネコだよ。今朝、見たら、首がモゲちゃった。倉田さんが、昨日、これを渡しながら、こう言った。「ここにも、ネコが居ましたね」「ああ、ライモンドと言います」。うやうやしく受け取ったネコちゃんだった。ザンネン。ごめんなさい。ネコも、これじゃ泣くばいね。★今朝、黙想のとき考えた。「教会で、今時期、よく『悔い改め』や『改心』と聞くが、一体、何だろう?何を改心するのか。ニンゲンに改心は必要か」。改心と言って、すぐに思いついたのが、『悪い習慣を改めること』と浮かんだ。そりゃ、そうでしょう。夜更かしして、朝に弱くなる。ダメでしょう。パチンコ狂になる。ダメでしょう。自分を弁護するために、ついウソを言う。ダメでしょう。信用がなくなります。自分では気づかないこと、周りの人の迷惑になっていること、それを改める。これは必要でしょう。「小さなキズでも、カラダ全体が痛む」。クリスマスを前に、神の御子イエスを心に迎えるために、どうしても改心は必要です。ダメを改める改心もあるが、基本の姿勢を正そうとする改心も必要です。それは「努力と、謙遜ですね」。先日、聖コルベ館に来た若者の介護士が言い残した。「介護の職場で大事なのは、忍耐と、謙遜」と。ガマン、自分を失くして、相手に尽くす、また思い出したよ。
2012年12月21日金曜日
「ルルドのオミヤゲです」と倉田さんが雨のなか訪問する
2年前、フランスのルルドから、2人のフランス人女性が聖コルベ館を訪ねて、ルルド参りをした。その女性が、写真・左側・お母さんのマリーさん、中央が娘さんです。本場のルルドから、フランス人が来たので、ビックリしました。2010年5月号の騎士誌にも載せました。この度、福岡の倉田さん(写真・右側)が、「フランス・ルルドへ行きました。お母さんと娘さんの店に行きました」と、写真と、オミヤゲを持ってきてくださった。お土産・左はルルドのお水で作ったトローチです。(真っ白のドロップ)。チャワンと、猫は、マリーさんの手つくり。これは店から倉田さんが買ってきた。倉田さんは、ガイドさんです。「ルルドは今年、10月には、ガブ河が洪水で増水して、洞窟の祭壇まで水に浸かって、大変でした。「マリーさんは、小崎先生と言って、覚えていました。騎士誌の1月号に写真が載っていたので、それをマリーさんに置いてきました。2年後に、また長崎へ来るそうです」。下の写真はルルドのガブ河のほとりの風景です。キレイな木ですね。倉田さんが置いていった。「ああ、ルルドがなつかしい」「やはり、2月11日のルルドの聖母の祝日が巡礼者が多いですね」。マリーさんも、娘さんも、別々にお店を持っている。
2012年12月20日木曜日
地味な仕事を、コツコツ、果たす。小さな喜びで生きよう
自分の生き方は何ですか。そんなに、花火を打ち上げるような華々しい仕事をしなくても、自分に叶ったことを、コツコツと果たす、それは自分に課せられた務めを果たすことでしょう。①聖コルベ館での出会い。座っているだけで、ありがたいことに、あちらから見学者が来る。②毎日、ブログを書く。「毎日、書くのは大変でしょう」。そう言われることもある。「いいえ、大丈夫です」。何かに焦点を当てて、小さな文に、まめていく。自分の益(ため)になります。歳をとると、暗くなりがち。でもカトリックの教えのおかげで、未来がある。これが有りがたいですね。将来が開けている。だから「希望、望みは、大きく」です。そして1日の出会い、そこに小さな幸せがあれば、それで、いい。満足して、1日を終える。「幸せは、小さく」て、いいんです。それで立派に生きていける。★市役所から「要支援1」になったので、入浴のとき、週に1回、男性ペルパーさんが介助にきてくれる。ありがたいことです。木曜日、午後2時から、入浴です。部屋の前が風呂場になっている。便利です。以前に、入浴時に、フラフラ、足がおぼつかない時期があった。入浴の後で、カラダを冷やさない。カゼ引きに注意しよう。
2012年12月19日水曜日
2012年12月18日火曜日
2日目。心も、カラダも、癒される宿。祈りは忘れない
「オバマ温泉とは、どんな温泉ですか?」とコメントが入っていた。そうですね。海ぞえの小さな湯治の温泉で、塩湯ですから、カラダが温まります。定宿の富士屋さん。2階建ての小さな家族的な宿で、泊まる部屋は、左に赤い柱からケムリが出ているでしょう、あの後ろの部屋に決まって泊まっています。ひとり、静かに離れると、いろんな思いは忘れて、すっきり。夜は、早めに、9時前には眠りにつきます。よく眠る。温かい静かな夜です。やっぱり、田舎だなあ、そんな感じです。朝は、5時過ぎには起きて、6時前に、温泉に入ります。露天風呂にも入る。サッパリ、なるね。日中は、ぼーっと、しているが、祈りだけはサボらない。聖務はキチンと果たします。祈りを忘れたら、ダメ。そう思います。仲居さんから、「お宅ではー」と聞かれる。この人、どんなヒトと、思われているみたい。「ああ、いっしょに、居りますよ」。こんなフウに答えています。
2012年12月17日月曜日
今年・最後のオバマ温泉へ。ゆっくりカラダを暖める
2泊3日で、島原半島のオバマ温泉へ出かけます。定宿・富士屋さんへ泊まる。オバマって、どこですか?どんな温泉ですか?地図を載せました。長崎から、海添えの道を、東へ進む。眺めのいい道で、信号も少なく、走りやすいです。島原半島は、フクロのような形になっている。山に登れば、雲仙です。島原市は有明海にある。オバマ温泉は、昔は長崎から船で通っていた。歴史の古い温泉で、塩湯です。温度は、105度。温泉量は多くて、流し湯になっている。温泉町は、本通り、裏の通りの2本があるだけで、町の大きさは短いです。夕日が海に沈むことで、眺め抜群の町です。町営業の足湯の長さは、105m。お客で賑わっている。コバマ・チャンポンの店が軒を並べて、話題になっている。九州・花火大会も行なわれる。活気のある町で、オバマ大統領が就任のときは「なまえが同じ」と町が活性化された。オバマは土地全体が温泉の熱で温かいんですね。カラダにジワジワ温かさが伝わってくる。ホッと、しますよ。富士屋さんで、泊まる部屋は終始、決まっています。もう運転は止めましたから、白浜さんに連れて行ってもらいます。「では、行って来まーす」。おみやげは、温泉センペイ。★自分の生涯を振り返って、理解に苦しむ出来事が、幾つかある。なぜ、そうなったのか。なぜ苦しむのか。例えば、なぜ浦上天主堂の上に原爆がハレツしたのか。誰にも理由はわからない。ただ言えることは、主は共に居て、共に苦しんでくださる。幻想という人も居るでしょう。信仰です。いま分からなくても、いつか神のご計画が分かるときがくる。未来に希望を持って、いまを生きている。すべてを乗り越えることが出来るのも、信仰でしょう。そういう気持ちを持ちながら、オバマへ行きます。
2012年12月16日日曜日
セルギウス修道士の命日。103歳で、2年前に神に召される
故・セルギウス・ぺシェク修道士の命日。2010年のこの日、103歳で神に召された。1931年(昭和6年)、コルベ神父が長崎へ居た時代に、ポーランド・ニエポカラヌフ修道院から長崎へ着任する。79年、宣教した。特にコルベ神父が帰国した際、セルギウス修道士は、コルベ神父から「後を頼みますよ」と依頼された。その気持ちで、勤めてきたという。戦前は長崎の聖母の騎士だけで生活していたが、戦後は、東京・赤羽や王子、兵庫の西宮・仁川などで、活躍し、現在の基礎をつくった。晩年は、聖母の騎士のルルドの係りを勤めた。熱心に祈る修道士だった。『越えて来た道』は自伝で、コルベ神父の思い出を綴っている。★セルギウスさんへ捧げてください、と埼玉の女性からお花が2つ送られてきた。この女性からは先月の10日にも、セルギウスさんのためにお花が送られています。ご縁のある女性です。この度も、コルベ神父の小聖堂に飾りました。天国のセルギウスさんは喜んでおられるでしょう。
2012年12月15日土曜日
若い夫妻に祝福あれ。耐え忍び、相手に尽くせば幸せななる
あと、30分で昼ごはん。若い男女2人が入ってきた。考え事で、外せない。声だけで「どこから?」「東京です」「どうぞご自由に見てください」。しばらくして気が付くと、玄関の額をカメラで撮っている。(ああ、もう帰るのか)。姿を見せて、声かけた。「ビデオ、見ます?8分」「ハイ、いいですよ」。この瞬間がこの話の分かれ目だった。ビデオが終わった後、①自分たちは結婚していて、結婚式に、1連のロザリオを200個、騎士社に注文して、配布し、皆さんに喜ばれた。そう言って、古びた小さなロザリオを見せた。②騎士誌の愛読者で、記事、読んでいる。③ブログも読んでいる。④色紙も買います。これだけ言われたら、「あの黒いソファーに座ってください」。男性の話。落ち込んだ時期があった。母親が「教会へ行ってみたら、どう?」。教会で、洗礼を受けて、立ち直る。女性の話。高校生のときから遠藤周作の本の愛読者。「女の一生・第2部」を読んで、コルベ神父を知った。第2部を読んで、泣いた。「ジンセイをやり直したい」と長崎へ1人旅。中町でシスターに出会い、東京のシスターを紹介され、教会へ通うようになって、世話係りが、この人、ダンナだった。洗礼の代母は、遠藤順子さんにお願いした。(順子さんと一緒の写真を見せる)。彼女は言った。結婚式にきた人たちに、普通は引き出物、でもロザリオの方がいい。両親も親戚もカトリックを知らない。奉納して、祝別して、差し上げて、喜ばれた。⑤今度の旅は「長崎・天草・島原です」。天草へ行くなら、サンタ・マリア館を勧めた。「ブログで見ました」の返事。ここで12時、お告げの鐘が鳴り出した。(もう食事に行かなければ)。急いで、写真を撮った。⑥ブログに載せますからね。⑦別れぎわに男性に聞いた。「いま、心に浮かぶ言葉は何ですか」「忍耐、謙遜です」。彼の仕事は介護師。「耐え忍ぶ。自分を失くして、相手に尽くします」。そういい残して、別れた。早速、食事のとき、1連のロザリオを話題に出すと、松下修道士が「覚えている。私が作った」。思えば「ビデオ、見ます?」「ハイ、いいですよ」が、この話の分かれ目となった。出逢いとは、こんな事ではないか。これがお恵みにつながる。洗礼名「ハニエル・ヨゼフ・アウグスチヌス」「ジュリア・セシリア・マリア」★写真のお2人さん。差し支えなかったら、メールでお便りください。「お互い、耐え忍びながら、相手に尽くして、幸せになってね」
2012年12月14日金曜日
手書きの色紙が4枚売れた。ありがとう。お金はルーマニアへ
著名人が描いた、書いた色紙だから、立派な絵、字ということはない。ヘタな字もある。ヘタでも、当の本人が書いたことに、値打ちがある。小崎修道士の手書きの色紙、4枚売れました。ありがとう。色紙を売ったお金は、ルーマニアの貧しい家族に送ります。発端は、小崎修道士と同じ背丈のペトロ・イシドル神父さんと仲良くなったことにある。神父さんは言った。「ルーマニアの生活費は、2万円です」。これだけ格差があるわけです。これもご縁と思い立ちました。今のところ、まだ絵も字もヘタですが、そのうち上手になるでしょう。★騎士誌の読者の便り。騎士誌は毎回、最初に編集室便りを読み、南国のお便り、マリアさまの祝日などを見ます。次はなんといっても小崎登明さんの頁を読み、ご病気の少しでもご快癒を案じて大フアンです。2008年、直筆のお手紙を戴き、大切にしています。元気で頑張って欲しいです。(北海道・礼子さん)★泌尿器科の予約診察日。「体調はどうですか?」「尿は順調です。スカスカも出ていません。ボウコウの方はどうですか?」「この間、見ました。大丈夫です。細胞診も1。問題ありません」。健康は今のところ安心のようです。来年はいい年になるでしょう。
2012年12月13日木曜日
語っても、迷いが多い、コルベ神父の生き方、死に方に苦慮
北国の女子高校生たちが、研修旅行にやってきた。今年、最後の修学旅行のグループになる。張り切って、皆さんに話を聞かせた。「皆さんは、17歳。私も17歳のとき、大きな体験をした。それが原爆です。その体験は、廃墟の丘で、助けない。逃げた。許さない。家に帰ると、母は行方不明で、家は燃え尽きる。残ったものは、何ですか。それはイノチです。イノチの大切さ。コルベ神父の小神学校へ入って、コルベ神父は、どう生きたか。収容所で、みんなを助けた。ナチ兵隊も許した。困難が来ても逃げない。最後はイノチまで捧げた」。これが前編。ここまでは、いいんです。後半、「なぜ、コルベ神父は命まで捧げることが出来たのか?」と自問自答すれば、確たる答えが見つからない。例え、今の高校生に、「思いやり」「人の痛みが分かる」「悲しむ人と共に、苦しむ」「優しい人だった」など、手垢のついた言葉を言って、果たして女子高校生たちの心に染み通るだろうか。いつも悩んでいる。小崎修道士の語りを録音しておこう、など意見も出るが、「ジョウダンじゃ、ない」と身震いする。そんな自信は全くありません。話す度に、いつも迷っている次第です。結局、真剣に語っているか、通じるものは、心でないか。だから真剣に向き合おう。それしかない。今年、修学旅行の学校は、20数校が平和学習にきた。無事に終わった。1つ、乗り越えた感じがする。来年も、がんばろう。★信仰とは、何ですか?まず神を認めること。次に、自分の弱さ、罪を認めること。その上で、神は、私を助けて、救ってくださる。また神は、内的に、強め、力づけてくださる。これを信じること、これが信仰です。
2012年12月12日水曜日
小沢昭一さん亡くなる。ご縁があった。日本の名随筆「貧」
小沢昭一さんが亡くなった。まず、テレビに出た。新聞の一面に出た。83歳の年を見て、「ああ、我より若かったな」と、ため息をついた。俳優で、TBSラジオの放送は、1万回を超える長寿番組だった。著作も40冊を超えている。勲章も貰った。そんな小沢さんと、小崎修道士が関係があるのかな、と言えば、これが「あるんです」。1989年11月、「日本の名随筆」が、100巻、出た。1冊、1冊は、一字の漢字、例えば、花、鳥、猫、色、などで、100冊あるわけです。その中に、「貧」という題で、日本の名文を集めた本が、作品社から出た。その貧のなかに、小崎修道士が「長崎のコルベ神父」に書いた一章、「清貧との出会い」が掲載されたわけです。その編者・選者が小沢昭一さんだった。どういう、いきさつで小崎修道士の文が目に留まったかは知らないが、執筆者・紹介では「コルベ神父の長崎時代を伝えて心打つ」とある。小沢さんは「貧」の「あとがき」に、こう書いている。「この百年で、われわれの暮らしは向上した。より平等に、より豊かに、暮らしを求めるのは人間史の必然かも知れない。しかし、むしろ、平等に低下させて、等しく貧になろう、いかがでしょうか。シャレ半分で、これを『貧主主義』と名付けたりしています」「ひとことでいえば、貧乏礼讃ですが、心を求める為に、貧を礼讃する、実は悲しいですね」
2012年12月11日火曜日
騎士誌が新装なった。横書き。文章を書くのは楽しみです
聖母の騎士誌が、2013年1月号から新装になって、右から左へ開けるようになり、文字が横打ちになった。長年、毎月、記事を書かせてもらっているが、もう歳も老いたし、次の年は、どうしよう?と迷いが起こっています。自分でも疑問があるのです。1月を書き始めると、毎月、書かねばならぬ。一方で、「トマさんの記事がないと、寂しいよ」などの声もあるのも事実です。何とは、なしに、また書き始めました。他のカトリックの雑誌をパラパラと開いて見ると、皆さん、立派な肩書きの方々が執筆されている。それに比べて、お前の文章は、何なのか。自分が書いている内容で良いのだろうか、の疑問もある。知識もないし、難しい文章は書けない。それでも書くには何故なのか。言える事は、「文章が書きたいのです」「書けば、なんだか、楽しいのです」「自分の文章が刷り上って、原稿を校正するのが、なんとも言えない喜びでもあります。それで書いているんですね」。1月号は、同じ背丈の、ちび同志の、ルーマニア人神父さんの出会いを書きました。「やっぱり、こんな文を書くものは、他には、居らんね」
2012年12月10日月曜日
北海道から紅鮭が届く。これでお正月は万全だ。長崎では珍しい
北海道の小樽から、立派な紅鮭が届いた。長崎では珍しい。これで修道院の正月も迎えられる、と会計さんは喜んでいる。実はこれを送ってくださった女性とは奇妙な縁がある。もう10何年も前だが、娘さんが居て、長崎巡礼に来られたことがあった。ルルドの階段で、足を滑らせて、転んで、倒れて、ヒタイを切った。マリアさまの場所と言っても、注意しないと、こういうハメになる。心配して、ちょっとした話題になった。もう長崎の坂道はコリゴリだろうと思いきや、娘さん、結婚して、新婚旅行は長崎だった。ルルド参りにやってきた。それから小樽の家族とは懇意になり、訪ねて行ったこともある。おいしい魚もご馳走になった。娘さんには子どもさんも出来て、もう何年もなるので、子どもさんも大きくなっているとか。とはいえ、あの転んだ話題は、いつまでも記憶に残る。鮭を食べながら、ヒタイの打ちキズを思い出すだろう。ニンゲンの記憶なんて、ヘンなことを、いつまでも覚えているもんだ。ごめんなさい。
2012年12月9日日曜日
日曜日。故・片岡弥吉先生の娘さんが来る。尊敬すべき師
故・片岡弥吉先生の娘さんたちが、熊本から来る。「まあ、わざわざ、よく、いらっしゃいました」。でも残念、時間がなかった。小崎修道士は、今から出かける、親戚の1年忌へ出るところでした。ゆっくりお話しが出来なかった。片岡先生は純心短大の教授で、キリシタン史家だった。ただ歴史家というばかりでなく、信仰の厚い学者で、長崎教区の何かの大会があると、よく出られて、講演をなさった。その話しにも、信仰があった。特に日本26聖人の信仰者であった。先生に騎士誌のため度々原稿を頼んだこともある。直接、薫陶を受けたことはないが、小崎修道士は篤い信頼、尊敬を寄せている。立派な信徒であった。小崎修道士が運転免許を取り立ての頃、聖母の騎士から、トラックで、運転席に先生を乗せて、自宅まで送った思い出がある。あぶない運転だった。永井隆先生、片岡弥吉先生、田川初治先生、これらの師を尊敬した。「いつか、ゆっくり話ましょうね」と言って、別れた。記憶しておこう。せっかく、おいでになったのに、残念でした。
2012年12月8日土曜日
無原罪の聖母の祭日。こんな出会いは珍しい。2人の女性がくる
2人の女性が訪ねてきた。左が北海道の裕子さん、右は東京の真理子さん。「私たちは、ここで、いっしょになったんです」。2年前の、10月6日だった。最初に、初めて、見学に裕子さんがきた。小崎修道士が説明をしていると、真理子さんがお父さんを連れて来た。お父さんは「長崎・浦上に住んでいる。昭和3年の生まれです」「ああ、小崎修道士と同じだ」。お父さんは体調がよくなく、当時、福岡に居た真理子さんが、実家に戻って、両親の面倒を見ていた。お父さんがゲンキがなかったので、「ルルドお参りに行こう」と勧めて、聖コルベ館には初めて来た、と言う。裕子さんと、真理子さんは、聖コルベ館で知り合った。あのとき、お父さんと3人で、ルルドへ登った。どこからともなく、ネコが出てきて、ルルドまで、忠実に案内してくれた。「それが、ブログに時々載っているライモンド君なのよ」。ルルドで、3人で、ロザリオを唱えたが、ライモンドは裕子さんのヒザの上、胸のところに、居座って、祈りの間、じーっとしていたそうだ。お父さんは、それから1ヶ月あまり後で、亡くなった。またお母さんも、その年の暮れに亡くなった。裕子さんと、真理子さんのメール交換はつづいて、今年、裕子さんのお父さんが亡くなる、それらの思いを慰め合ったという。裕子さんは、登明日記に、時折、「マリア・フランチェスカ」の名前で、コメントを寄せている。今日は無原罪の聖母マリアさまの祭日なので、わざわざ北海道から巡礼にきて、騎士会に入会した。それに合わせて、真理子さんも長崎へ来た。いっしょに騎士会に入会した。小崎修道士とは、2年ぶりの再会だった。こんな出会いも珍しいと思う。「ライモンドに、逢った?」「残念、逢わなかった。これ、おみやげ」と、ネコ用のスナック・菓子を置いて、去った。★裕子さんが、色紙を、3枚、カニも、買ってくれた。
2012年12月7日金曜日
従弟、ユスチノ田川幸雄修道士の命日。73歳で亡くなる
ユスチノ田川幸雄・修道士の命日です。2004年12月7日に東京の病院で亡くなった。73歳でした。アシジの聖フランシスコ大修道院に、1991年から、6年間滞在し、日本人の巡礼団や、観光客のため、大聖堂を案内していました。そこ頃、アシジを訪ねた人は会った思い出があるでしょう。説明が特に好評でした。壁画の説明を聞いて、涙を流す観光客もおりました。洗礼に導かれた人もいます。パパさまと握手している写真です。ユスチノ田川は小崎修道士の従弟でした。もう亡くなって、9年忌になる。早いですね。最初は小神学校に学び、大神学生だったが、腰のカリエスを痛めて、修道士になり、18年にわたって、養護施設の指導員として活躍していた。高度成長の時代で、彼が見守った子どもたちが卒業して、就職列車で大挙して、社会に出て、それぞれ働き、立派に生活し、身を立てた多くの人がいます。1人の働きは大きいですね。心の優しい修道士でした。73歳とは、まだ若いでした。小崎修道士は彼のお骨を東京から長崎へ抱えて、長崎の墓におさめました。「平和を実現する人は幸いなり、神の子と呼ばれる」
2012年12月6日木曜日
時間が、なーィ。年の終わりも近づくと、あわただしい
濃紺の服装の女子高校生が、6人やってきた。ちょうど色紙を描いているところだった。筆を置いて、説明を始める。団体で、長崎へ、東京から修学旅行で来ている。「自由行動なので、連れ添って来ました」。聖コルベの居室で、感動する。8分間のビデオを見せる。女子高校生の1人が、「『長崎の祈り書』はありませんか?」と聞く。「主任神父さまから言付かった」という。「中町の女子パウロ会にあります」と答えた。また、来客があった。「要支援1」になったので、ケヤマネージャーが介護師(男性)といっしょに事務の手続きに来た。こっちの方が主客となる。「入浴の際、週1で、介添えをしてくれることになった。今までは高原修道士さん(介護師)が行なってくれていたが、交代する。ハナシ中、窓に、女子高校生たちが、別れの手を振っているのが見えた。後で、聖コルベの居室のサイン帳を見ると、6人のうち、3人が霊名を記していた。「カトリックだったから、訪ねて来たんだね。健気(けなげ)ないよと思う。12月、年末も近づいたので、不整脈のクスリ・診察へ行く。2時間待って、やっと診察。時間がかかる。騎士誌、来年の2月号は、年内に印刷を終わるので、早めに原稿を書いてください、の注文あり。文章をまとめるのに、時間も要する。青森県・弘前(リンゴの名産地)から、3段構えのリンゴの大きな箱が届いた。お礼の電話をかける。ひさしぶりに、「トキさん」の声を聞いた。「ゲンキ、している?教会、行っている?」「ハーイ。いま雪が、チラチラよ」。ああ、いろいろ有って、ありがたい。時間が足りないよ。
2012年12月5日水曜日
色紙を描く。ヘタは、ヘタでも、心は、こもる。資金は外国へ
思いついて、色紙を描き始めました。どうでしょうか、出来栄えは?あまり上手とは言えませんね。まあ、それでも、いいでしょう。これから日々、少しづつ描いて、聖コルベ館に置いておこうかな。見学者が見て、気に入ったら、買ってくれるかな。1枚、幾らにする?分かりません。今のところは。この間、ルーマニアの小さい神父さんが来たでしょう。今度の騎士誌に載せました。読んでください。ペトロ神父さんが言った。ルーマニアに、双子の姉がいて、結婚していて、ダンナさん、子どもが2人いる。私はそれを聞いて、お姉さんに何かを贈りたい。物資は無事に到着するだろうか。郵便局からユーロを贈ってみよう。ペトロ神父さんと郵便局へ行って、200ユーロを贈った。昨日、東京のペトロ神父さんから電話があった。ルーマニアの家族は無事に送金を貰いました。ああ、よかった。そうだ、今朝、思いました。色紙を売ったお金で、ルーマニアの貧しい家族を助けるため送ろう。私もゲンキがでるよ。頑張ってみよう。★いま、日記を書いたばかりなのに、5分しか経っていないよ、電話があった。「カニの色紙、買いますからね。売却済みにね」。福岡の小百合さん、おお、びっくりだよ。マイッタ。
2012年12月4日火曜日
寂しさ感じる、紅葉も終わりか、来年もこの場に立てるか
秋も深まり、冬が来るのか。騎士誌の読者から、短文の感想が届いた。「今、12月号を手にとって拝読しています。小崎修道士の「この1日、信じて祈る」。レンゾ神父さまとの黙想は、私も共に与っているように感じました。「自分だけの、ものがある。それに気づくこと」「神は愛ですと、生活のなかで実感しているか」「愛は与えてこそ、実感される」「自分に適した祈りを見つける。それも祈り方です」などなど、と書いてあった。修道士は祈る人ですが、十分に祈れない悩みもあります。修道士が祈れないなんて、言うなよ。祈りよりも、愛の行動を、と言われると、悲しくなる。祈りは基本的に大切です。それと共に、愛の行動、奉仕、実践も必要です、と言ってほしい。フランスに1ヶ月、4箇所でホームステイをしてきた女性が聖コルベ館へ来て、語ってくれた。フランスの信仰は厳しいとの印象を受けた。神さま、信じない。お祈り、認めない。複雑な気持ちになる。「教会で祈る。愛の話しを聞く。聖書から良きサマリア人を読む。隣人愛は大切だ。そう思う。教会を出ると、ホームレスが待っていた。衣服をください。お金をください。果たして、この人を助けることが出来るか。先ずは係わり合いを持ちたくないと思うだろう。人間は所詮、自分が可愛い。自分のことしか考えない。しかしある時は、自分がソンをしても、相手に尽くそうという気持ちも有る。助けることにハマル場合もある。人間は2面性があるのを認めた上で、行動しよう」。そんな、同じようなことを考えました。
2012年12月3日月曜日
神戸の男性との出会い。1日巡礼なのに、すばらしい恵み
神戸から、男性1人で、見学者がくる。普通は、見学の時間は、20分前後、この時間に、コルベ神父の説明の後、いかに、この見学者と出会うか、その問題もある。この男性は、4つのポイントを残した。①神戸から高速バス利用・往復で、長崎だけ1日巡礼。②「信仰年ですから」と彼は言った。1日で、浦上天主堂の日曜ミサ、26聖人のミサ、十字架山、聖母の騎士、大浦天主堂を巡礼する。偉い。③「本当は、ここに来たかった」と聖コルベ館へ。子どもの頃、両親といっしょに洗礼を受ける。40歳になる。聖母の騎士が巡礼の「主」だったとは、嬉しいじゃないですか。④「なぜ、長崎へ?」の問いに、「10代の頃、バイクで来た。今度は、何気なしに、思い立った」「いま、あなたが思うことは、何ですか?」。しばらく考えていたが、「隣人愛です」「隣人愛といっても、具体的には?」と食い下がる。また、ちょっと考えて、「貧しい人でも、お金持ちでも、同じように接する心です」「ああ、そこからコルベ神父さまの愛に引かれたわけね」「赤い冠、白いカンムリ。あるじゃないですか。どっちが、ほしい?私なら、1つだけ。コルベ神父さまは、2つとも」。私は今朝、黙想のとき思った。「誰もが、抱いている心のテーマは、何か?それは隣人愛でしょう。家族愛でしょう。そこから必ず、コルベ神父さまの『友のためにイノチを捨てる、これ以上の愛はない』に、つながる。私は彼に告げた。「この世で、最も大切なのは、愛とイノチです。この2つに、コルベ神父は、かかわっている」。彼のような巡礼も、ある。感心したので、『十七歳の夏』を贈呈した。「帰りのバスで読みなさい」。土曜の夜、10時30分、神戸発、高速バス。長崎着、日曜日の朝、8時。1日、日曜日巡礼。帰りは、その夜の8時発。高速バス。月曜日の早朝には神戸に戻れる。仕事が出来る。バスのお値段、往復、18000円。「朝めし、抜き。昼めしも、マダ」と聖コルベ館で言うので、「帰りのバスに乗る前に、チャンポンを食べなさい」
2012年12月2日日曜日
韓国から「お出でなさい」と大司教さまご招待の手紙が届く
韓国・テグの李大司教さまから、招待のお手紙が届く。「ここに再び、ご招待の言葉を申し上げます。来年2013年の初めに、テ・グにお見えになれて、コルベ神父さまと永井隆博士の出会いについて、お話ししてくだされば、うれしいと思います。私たち韓国・如己の会は、毎年1月に新年会を開きますが、来年には1月4日から、2月3日(永井博士の忌日)の間に、催す予定です。いつであっても、ブラザーさまがお出でになる日に、私たちは集まるように致します。遠道なので、お1人でいらっしゃるより、お連れのほうがいらっしゃれば助かると思います」。このように、懇切丁寧なお手紙が届きました。恐縮しております。1月、2月といえば、韓国は厳寒なのではないでしょうか。寒さに弱いし、ヒザの痛みもあります。でも、こんなにも度々お願いしておられるのですから、行きたいのは山々です。李大司教さまは、職務から離れて、今は引退されておられますが、永井隆博士を尊敬されており、長崎へ多くの巡礼者を送っておられます。本も出している。熱心な大司教さまです。「行きたいです。お世話になりたいです。がんばって、みよう」
2012年12月1日土曜日
12月が始まる。寒さに負けるな。カゼひくな。後ろ向くな
今年も、最後の月になった。「早ャーい、もんですね」。今年はタツ年で、オレの年だ、がんばるぞ、と意気込んでいたら、7回の入院で、苦労したよ。9月の入院のとき、同じ部屋になっていた60代ぐらいの男性が、治療を受けていると言っていた。今度も、また別の部屋に居て、「すっかり、痩せていた」と聞いて、これがジンセイか、と心寂しく思ったよ。厳しいときも来る。オレは、「生かしてもらって、ありがとう。その上、信仰できて、ありがとう。幸せです、そう言いたいです」。そう言う気持ちで、今年の最後の月を迎えたい。「皆さん、いつも見守ってくれて、ありがとう。トマは、小崎は、まだ祈っています。モンクも言っていますが、改心もしながら歩んでいます。時折、夢も、見ている。山の上に、建物があって、沢山の同じ会の者たちが、外国人ばかりが、わんさ、わんさと居た。そのなかに、見つけた。身近な日本人の2人を。1人は司祭、もう1人は修道士。シタを見ると崖があって、中ほどに、大きな岩があった。私が落ちそうになって、途中まで、滑ったが、岩で止まって、また、這い上がって、元に戻った。「まだ、まだ、がんばれるぞ」