金曜日。寝たままの状態で、尿も袋につながっている。だから夜中も、トイレに起きなくていい。何年ぶりに、1回も起きないで、安心して眠った。まだ熱が、7度8分、ある。血液検査・クレニチアンは、2.5と言った。胸に水が溜まっている感じ。肺炎を少々起こしているのか。午後4時ころ、お医者さんがベッドの脇にヒザを折って、目線を同じくして言った。「尿の袋に、フワフワしたものが、まだ、出ている。これは結核で、石灰化したものが、はがれて、じょじょに流れ出ているのではないか」。(昨日は、先生は、ボクは、大学院まで行って、勉強をし直そうかな、と言っていた。高橋元先生は、既に、大学院は出て、博士になっている)。「自分も、(こんな病状は)初めて」と先生は言った。すると介護の千草さんが、「トマさん、あと10年は、生きてほしい」と言うと、高橋先生、「20年、がんばりましょう」。(意味は、病気と闘いましょうということだろう。まだ現実に、フワフワは出ている。この状態が、いつ、止まるか、分からないけれど、頑張りましょう、だろう)。そこで私が「先生が、ずーっと、ここに(この病院に)居られますか」というと、先生は、「ボクは、この病院に、ずーっと居りますよ」。(実は、この病院の若い泌尿器科の医師たちは、数年で、他の病院に交代する経験を知っている。私だけでも、4人目の泌尿器科の医師になる。最後に、高橋元先生は、病人を温かい目で、じーっと見て、「今回は、ゆっくり、しましょうね」と言って、万遍の笑顔を残して、去った。
長崎のカトリック修道士。17歳の時、原爆を受けて、この道に入る。 生かされて来た数々の恵みの中で、今年の1月、最大の試練「すい臓がん」を告知された。 「みむねの・ままに」。孤独と苦痛に耐え得るチカラを日々、祈る。 毎日、日記を書き続けて13年。今、長崎市の病院・ホスピス病棟で暮らす。 追記 2021年4月15日 午後6時48分 帰天されました。享年93歳
2012年8月31日金曜日
2012年8月30日木曜日
入院3日目。又また、1つの山を越えました。助かったぞ
。3人部屋で、昨夜は、尿が1滴も、出なかった。尿が出ないのは、心理的に、参ってしまう。朝、外来診療まえに、お医者さんが来られた。「このあいだ、ステントを入れ替えた。血液検査で、腎臓の機能が低下している。早めに、もう1度、ステントを入れ替えましょう」。お医者さんは、更に神妙なお顔でつづけた。「熱が、高い。尿が、全く出ない。腎臓機能が落ちている。朝から早急に、ステントの入れ替えをしますが、それでも尿が、出ないときには、『一時的に、人口透析』も考えてください。他の方法も考えましょう」。そう言われて、さすがに、『透析』と言葉を現実に聞いたときには、ショックだった。「ああ、そこまで、来たのか」。自分でも確かに、体調も良くない。そのとき、思った。「病者の塗油の秘蹟を、早めに考えよう」。手術室に入って出るまでの時間は、約1時間だった。局所麻酔で、実際の処置の時間を尋ねると、13分と手術着を着た男性が教えてくれた。処置を始めると、「ドバー」「ドバー」と、順調に、熱い液(尿)が出た。前にも、例があるから、分かる。「おお、助かったぞ」。心中、叫んだ。『人は、普通、誰でも、苦しみよりも、楽(らく)をください、というだろう。そりゃ、絵に描いたモチよりも、生身のダンゴが、いいわね。しかし、手術室から出てきた病人は、一言、いいます。助けて、くれ』。1人の部屋に、移った。
2012年8月29日水曜日
入院2日目。「助けて」。メールで千草さん駆けつける
ベッドで、苦しくて、悶々とするなか、千草さんが、顔をのぞかせた。千草さんは、幸い、この病院から徒歩2分のところに家がある。早速、「助けて」と、メールを送った。すぐ、心配して、介護に駆けつけてきた。「おお、助かったぞ」と、まず安心。写真は、千草さんが着ていたシャツの、マリアさまと、コルベ神父です。「私は、写さんどって、ね」。介護を受けて、朝食を食べたが、その後、激しい悪寒におそわれる。「タマラン、タマラン、寒かーぞ」。すごい悪寒。熱が、9度まであがり、アセが、ビッショリ。看護師さんたちが総出で、肌着も、ベッドのシーツもすべて替えた。意識は、もうろう。お医者さんは、まだ観察をつづけている。点滴は、続行。すると、急に、「グワー」「グワー」っと、3度、嘔吐した。朝めしは、全部、吐き出した。素人ながらに、思ったね。「水分を取ったり、点滴を打ったりしているから、結局、腎臓が適応できなくて、吐き出したのだ」。着替えた後、病室を変わった。3人部屋の真ん中だった。モンクは言えません。でも「その夜がタイヘンだった」。主よ、苦しいです。タマランです。悲しくなった。心細くなった。「主よ、この苦しみを、あなたの十字架に、合わせてささげます」。尿が、1滴も、出ない。これほどの苦しみが、あろうか。「ああ、また、始まったか」
2012年8月28日火曜日
また、入院しました。急に、体調が、ストーンと落ちる
昨日のお昼ころのスナップです。3人は、中・高校の同級生。久しぶりに出会った。眼鏡橋を散策し、川添の昼食屋で、刺身定食を食べた。さすがに長崎の「さしみ定食」でした。珍しく「キビナゴ」が出ました。五島の海を思い、いい、気分だった。お互いに語り、楽しく別れた。その夜のことです。夕食後、熱が出た。そして今朝になる。熱が、7度7分ある。「こりゃ、おかしいぞ」と、大事をとって、ミサを欠席する。病院へ電話をすると、「診察に、来なさい」。修道士運転の車で、病院へ着くと、8度にあがる。入院することになった。熱が、9度まであがる。ゲンキが一辺に失せた。「これだから、困るんです。昨日は正常だったのに、今日は、ガクンと、底まで落ちる。なぜ、体調が安定しないのか」。病院側も、急な入院なので、病室も空いていなかった。そばらく、仮のベッドで休む。「さあ、どうぞ」と誘われた病室は、手術後の観察室で、3人部屋だった。もう、「キビナゴ」のことは、忘れていた。不具合な体を、必死に、ベッドに横たえていた。これから苦難が、始まった。
2012年8月27日月曜日
悩ます正体は、これです。やわらかい異物が固まった
この度、8月20日の手術で取った結石です。手術の方法は、尿道から、カメラとレーザーを入れてボウコウへ、さらに尿管を登って、腎盂へ。その部分で、カメラで見える範囲は、すべて取りました、とお医者さん。レーザーの器械は、特別で、ホルミ二ム・ヤグ・レーザーといいます。結石といえば、普通は硬くて、これが詰まると激痛が走る。私の場合は、フワフワして、流動的で、やわらかく、それが米つぶ大に固まる。このカタマリが、時々詰まるのです。お医者さんに聞いた。「こんな症状って、普通、あるんですか」「ありませんね」と、お医者さん、ズバリ。めずらしい症状らしい。普通の泌尿器科の医師は経験がないでしょう。原因は、結核を病んだ後に石灰化ができた。CTのフィルムに、はっきり写っている。今までは悪さをしなかったが、石灰化の表面が、何らかの理由で、やわらかくなって、外れて、それが固まったものらしい。写真の石を見ると、異様な感じがする。写っている石も、取ったときは、やわらかだった。それが水分が抜けて固まった。今のところ、調子よく生活しております。みなさんに、ご心配をかけました。
2012年8月26日日曜日
納涼の夕べ。50人ほどが楽しんだ。ゲンキになったよ
退院して、すぐ、聖母の騎士の納涼会が、夕方から夜にかけてあった。明るい顔で、参加できた。あらためて思う。聖母の騎士は、コルベ神父が創立者です。コルベ神父やゼノ修道士の精神や、足跡を決して忘れてはならぬ。ここに入り、いまも、ここに居ることは、意味がある。イノチは神さまのことですが、まだ、まだ、生かしてくださる。原爆の丘にも、イエスは居られる。コルベ神父のアウシュヴィッツのガス室の手前にも、イエスは居られる。共に苦しみ、涙を流しておられる。あそこへ行けば、死ぬ。恐怖が待っている。それでもイエスは共に歩いてくださる。コルベ神父がそうじゃなかったか。身変わりになれば、必ず死ぬ。分かっているのに、理解しているのに、進んで歩いた人も居た。イエスが歩かれたから、コルベも、ゼノも歩いた。こんな素晴らしい体験をした、模範を示した、人物が始めた、生活した、アセを流した、そういう場所に、いま居れることは、何と、幸せじゃないのか。気が付くのが遅いんだよ。また新しい気持ちで、落ち込むことなく修道士の生活を始めよう。食べ、笑いを聞き、笑顔に酔い、退院の夜は希望の夕べとなった。
2012年8月25日土曜日
退院する。別れに際し、千草さんの説教。招かれた人よ
千草さんは言った。「小崎サンは、自分をさらけ出して、ホンネで語る。セキララの語りに読者は惹かれるんです。修道士のワクに入っていない。修道士さんは、お祈りして、地味な仕事をこなしていく。小崎サンは自分が、このように思ったら、パッと行動する。苦しみが来ると、落ち込み方がひどい。目に見えて分かる。人ざわり、人あたり、面倒見はあるが、身構えているんです。聖コルベ館でも、いらっしゃいと、ニコリ笑って、ゆとりを持ってください。小崎サンはお母さん思いです。お母さんからルルドへ。信仰の道筋をつけてもらった。ゼノさんに迎えられて、ゼノさんはコルベ神父さまにつながる。小崎サンはコルベ神父さまが招き入れたんです。だから『長崎のコルベ神父』も書いたし、『身代わりの愛』も書いた。10回も、ポーランドへ。修道士は10回も行けないよ。小崎サンが、もし司祭になっていたら、〇〇神父さんも言っていたけど、『神父になったら、オードか、神父になるじゃろ』。オードか、とは、ナマイキ。今度は、ポーランドで、『焼けたロザリオ』も出た。病気になって、神父には、なれない。裏を返せば、苦しみは、あとから、恵みになる」。そして千種さんは付け加えた。「最初の全身麻酔の後で、術後室で、無意識に、『聖コルベ、聖コルベ』って、3回、叫んだモンね」。写真は退院まえに写す。午前10時に、病院の前で別れて、去った。
2012年8月24日金曜日
入院7日目。千草さんが介護。平和活動も看護も愛の心
なんと言っても、今度の入院で、最もお世話になったのは、千草さんだった。今年、最初の入院のとき、洗濯物などで困っていた。見舞いに来た千草さんに、「なぜ、こない?愛を説いても、何になるか」と攻めた。「いそがしか、モン」が答えだった。千草さんの家は、病院から徒歩2分。「来てよ」のお願いが叶って、2回目の入院から介護に勤めてくれる。特に今度の手術後の看護と心配は最高だった。寝汗を拭く。着替えさせる。器械は危険を告げる。「千種さん、イエスは共に居る。ソバに居る。言葉があり、本にも書いてある。本当に、そのことを感じるの?」「平和運動で落ち込んでいたとき、寝ていたら、手が背中にくっついて、カラダを起こした。人は居ないのに、ああ、これは行きなさいと、神様の手だった」。千草さんは、様々な活動を実行している。今年は沖縄にも行った。広島にも行った。ダム反対や、平和行進など、運動をつづけている。「1日の最後に思うことは、世界の平和と、恩人、友人が幸せになること、ロザリオ、2本、3本、唱えると、自分の時間も少なくなる。でも夜に、すーっとして、達成感があり、心に静けさが湧いてくる。信者はソクバク感があるが、平安があるんです。メールで、お祈りしますと言いながら何もしない。後ろめたさがあるじゃないですか」。また、あの小さな冊子を思い出した。「神は愛なり。どういう形で、自分に納得できるか?」「神さまに守られている。1人で住んでいるが寂しくない。神は愛である。神は平和を愛する御方でしょう。平和運動に導いてくれた。守ってくれた。それが愛。導いても、苦しみは、ある。愛の導きに、背中を押してくれる。神さまの後押しがなかったら、困っている人に手助けしない。うちの母は言うんです。お前がやりたいことがあったら、この家(三つ山)を出て行きなさい」。千草さん、本当に、有り難う。よく支えてくれた。介護してくれた。アタマが、あがらんよ。でも、あなたのオシャベリには、少々、マイッタよ。
2012年8月23日木曜日
入院6日目。東京から見舞い客。もう大丈夫ですよ
この度の入院は、尿が詰まって、出なくなったからでは、ない。ふわ、ふわした異物が、尿に混じるので、お医者さんは、「腎臓を、掃除しましょう」と、そういう表現を使っての手術であった。特別なレーザー器械を使って行なった。この病院には無いので、借用したそうだ。この器械を使うのは、3度目だが、この度は、ほんとに苦しかった。ヤッパリ全身麻酔は、イヤだね。何もわからず眠る。死ぬときは、こんなに意識が消えるのか、と思ったよ。まだ死なぬぞ。名前を呼ばれて生き返って、ホットする。今度の大掃除は大変でした。術後室での山を越え、病室に戻っても尿が出ない悶々の苦難の山を越え、やっと、ベッドに寝ていても、心は穏やかになった。点滴の注射針も、抜かれた。メールで連絡があって、東京から、『エリザベット』さんが見舞いに来られた。九州の宮崎で、用件があったという。この女性は、今年の元日、誰が最初に聖コルベ館に見学に来るか、と期待していたら、閉館まえになって、やっと、母と娘の2人連れがやってきた。それがエリザベットさんだった。あれから毎日、日記を読んでいる。度々コメントも書いた。3時間ほども、ベッドの傍らに居たが、疲れなかった。写真を撮っていなかったので、また明日、来るようにメールを打った。「顔色は、いいですね」
2012年8月22日水曜日
入院5日目。夜中、悶々。朝になって、ついに光がみえた
尿が出ない時間がつづく。夜中のあいだは悶々として過ごす。水分を補給しよう。聖母の騎士のルルドのお水を、ドンドンと飲んだ。お腹の調子が悪くなるぐらいに飲んだ。飲んでいる夜中に、考えた。「イエスは私と共に、私のソバに居られる」。今度は本当に度々考え、黙想した。あの本に書いてあったではないか。枕辺の目覚まし時計は、5時を指していた。ベッドに仰向けになって、静かに落ち着いている。「ン?」「あれ?下腹が、なにやら、ヘンだぞ」。アタマは望むのに、腎臓が働いてくれない。どうしようも、ない。だが、「腎臓の働きの、スイッチが今、入った、みたいだぞ」。希望が瞬時に湧いてきた。出る可能性が、あるぞ。「ああ、やっぱり」。それから尿はじょじょに出始めた。朝、7時。「チリン、チリン」と鈴がなって、ご聖体が来られた。「主よ、御身は共に在します」。拝領して、祈った。それから、ドンドン出だして、翌日の朝まで、大きなペットポトル、1本と半分ほどの尿が出たのだった。やっと安堵の日を迎えた。面会人も、来ても、いいぞ。
2012年8月21日火曜日
入院4日目。やっと自室へ。それから苦悩、もう1つ山
熱が下がったので、カラダじゅう、着けられていた器具がすべて外され、自室に戻った。「やあ、帰ってきたぞ」。喜んだのは、よかったが、もう1つ、越えねばならぬ、苦難があった。考えてみると、全身麻酔と手術のため、水を1滴も飲んでいない。飲んでは、いけない。禁止だ。それが計算すると、「36時間」、水分を全く取っていない。だから尿が出ない。「これが、オレにとっては、苦しみだ」。結局、16時間、微量の尿しか出なかった。詳しく言うと、16時間に出た尿は、小さなポットペトルに8割ぐらいだった。「出ないな」「出ないぞ」と本人の胸は黙っているが、悩んでいる。すると、女性が2人来て、お互い、ぺチャ、クチャ、しゃべっている。「うるさいな」は心の中。それでも止まぬので、病人が言った。「ロザリオでも、唱えよう」。すると1人が言った。「2人、3人、居るところには、イエスも居る。だから、4人だね」。すると、即座に、他の女性が言った。「5人、たい。マリアさまも、居らすモン」。その瞬間、病人の心中に、ビビッと、強烈な、いなずまが走った。昨夜の苦難には感じなかった。いま、それを感じる。イエス、主は、共に、ソバに、居られたのだ。「イエスは居られる」と本に書いてあり、司祭も、そう説教する。しかし、それは、言葉であって、生きてはいない。いま、この場所で、平凡な女性たちが、生活のなかで、何気なく語っている。そして「ハ、ハ、ハ」と笑っている。この現実の中に、この生活のなかにこそ、イエスは共に、ソバに居られて、いっしょに、苦しみ、悩んでくださる。それを痛烈に体感した、信仰生活の一こまであった。
2012年8月20日月曜日
入院3日目手術の本番。それは苦難の夜だった。キツイ
午後から手術は始まった。全身麻酔は、これで3度目。今度は「楽(らく)」だろうと思いきや、それは、それは大変な苦労だった。午後5時頃、術後の観察室へ入る。まず悪寒。並みの悪寒じゃない。「おお、寒いぞ」「寒いぞ」の連発。やがて熱が上がりだし、7度、8度、9度、なんと40度2分まで上がった。そのとき、後で思ったよ。「主は、共に居てくださったのか」。イヤ、イヤ、実際は、それどころで、なかった。家族が居ても、家族のことも考えなかっただろう。呼吸さえ、低下し、脇の「線が上下する器械」が危険音を発し、線が、平たくなるじゃないか。「無呼吸だ」と声が聞こえる。「ああ、オレはどうなるのだ」。それを考えるのが、セイ一杯だった。「主イエスは共に居られる」。本当かな。それは、後での話し。今は、必死。ところが、どうだ。看護師さんが、あわてて、右往左往している。座薬を入れ、注射を2本加える。すると、どうだ。夜中を過ぎると、熱が下がりだした。40度2分だよ。それが夜中の3時頃になると、じょじょに下がって、なんと、6度2分になったのだ。考えてもみよう。下がるとは言え、せいぜい、8度代か、7度代ぐらいまでが常識でしょう。それが6度2分だよ。そのとき、小崎修道士は思ったね。「待てよ」。イエスは共に居られる。そんなこと思わなかった、が待てよ。「この待てよ」がポイントだった。
2012年8月19日日曜日
入院2日目。日曜日。ミサで祈る。やすらかな気持ち
病室の窓から見る外部の景色です。今朝は日曜日なので、病院の聖堂へお参りしました。毎朝6時に、ここでミサがある。シスターの姿が多いのにおどろいた。さすがは、長崎だ、と思う。もちろん祈りましたよ。これからの手術がうまく行きますように、と。でもイノチは神さまのことですから、お任せするしか、ありません。部屋に戻って、ゆっくりと、なる。幸い、1人の部屋でした。ふらりと、談話室へ行ってみた。テレビがあって、病人や家族、知人たちの会話もある。片隅に、小さな本棚があった。自然と、手が、そちらの方へ向いた。幾つかの本をあさっていると、1つ、小さな文庫本が目についた。150ページほどの冊子だった。パラパラとめくって、「ハッ」とした。「おお、これは、いい本だぞ」。内容は、2つに別れていて、前は、「霊性のマトメ」が、ポン、ポン、と書いてあった。後部は、イエスの言葉で、「グッ」とくる一句を選んで述べている。私が、目に止めたのは、前の部分で、霊性のマトメは、①神は愛である。②神のみ旨に生きる。③お互いに愛しなさい。④イエスは私のソバに共に居る。⑤「神よ、なぜ我を見捨て給うや」と叫んだイエスの、見捨てられたイエス。その後で、3つのことが述べてあった。聖書(神の福音)。聖体。マリア、である。「おお、なかなか、いい本じゃないか。分かりやすい本じゃないか。これを入院中に黙想しよう。★なかでも、心を惹かれたのが、「イエスは、私と共に、私のソバに居られる」という内容であった。
2012年8月18日土曜日
今年、入院5度目。またもや苦難の道に入る
入院の朝です。いつもの通り、5時に起きました。いつものように聖務の朝の祈り、ミサで祈りました。ミサの初めに、司祭が「トマさんが入院します。快癒を祈りましょう」と皆さんに告げた。胸が、キュ、キュっと、締まりました。そのとき、浮かんだのが、以前、ルルドの道に咲いたアンネのバラです。写真が、そのバラです。このアンネのバラを見詰めながら、入院へ出発しようと思います。アンネは様々な恐怖や、苦難や、ひもじさに耐えた。可憐な少女でも現実を理解して、苦しみを受けとめ、最後まで希望は捨てなかった。平和が必ず来る、家族が必ず幸せになる、しかし嵐は余りにも過酷だった。「苦しみは、それ自体、それには価値はない。苦しみに、意味を与えてこそ、価値あるものとなる」。なぜ自分はこんなに苦しむのだろう。60年前に腎臓結核を病み、何とか苦難を潜り抜けて、生き返った。しかし結核の後が、「石灰化」して固まっているという。石灰化は、これまで何の動きもしなかったのに、老化が原因か、どうやら石灰化が外れて、少しづつ出ているらしい。さあ、生きるか、落ちるか、イノチのことは、神の御手に委ねるしかない。それらを自覚した上で、今から「行って、来マース」「お祈りを、お願いしまーす」。多分、日記は毎日、書けるでしょう。見守ってください。
2012年8月17日金曜日
旧友との語らい。上五島(野首)天主堂建設物語を聞かせた
毎日、聖コルベ館で生活している。外泊するとすれば、3つの所です。①島原のオバマ温泉。定宿がある。②都会に出て、数日、暮らした。たまには賑やかな所もいい。③あとは、入院です。あしたから、5度めの入院。もう慣れっこになって、「入院する」と言っても、周りの反応は、「温泉へ行くみたい」と受け流される。そんなところです。でも本人は深刻だよ。「イノチのことは、神さまです」。それは忘れない。この写真は先日、福岡・博多へ出かけたとき、60年前に、いっしょに山の施設で病気の療養をした仲間です。左のノッポ男は、胸の病気の影が消えずに、ついに社会へ出て、会社勤めをして、定年を迎えた。趣味は奥さんと、沖縄のサンシン(三味線)を弾くことだそうです。夕食に、シャブシャブを食べて、その際、彼は故郷の、上五島(野首)の赤レンガ天主堂建設の物語を、婆さまから聞いたと、延々と語ってくれた。野首の島は、20数戸があって、みんなが「白浜」姓だと言った。「オレも行ったことが、あるよ」。旧友に会うのは、心がなごむ。
2012年8月16日木曜日
キラッと光った一瞬の出会い。ご縁がつついて、佃煮に
偶然の出会いによって、1つの記事が書けた。あるんだな、そんなことが。だから人生は毎日がおもしろい。楽しい日々が過ごせる。福岡でお世話になった田中夫妻です。「お宅を見せてください」と押しかけた。立派な祭壇があって、感動もの。人生には、キラッと光る一瞬の出逢いがあるんです。話は、こう、です。いつも昼食後、しばらく自室で休み、午後から又、聖コルベ館へ出る。ちょうど庭の、聖フランシスコの像のところで、パッタリと、いま去ろうとする車に出会った。「初めて、来ました」「ええ、もう帰るの?」。それが田中さん夫妻だった。言葉を交わすと、田中さん夫妻は、18年間、亡き養父の墓参りをしているという。しかも、その養父は、戦後、ご主人の実母と再婚した義父で、叩いたり、言葉の暴力があったり、少年の頃の田中さんは、良い思い出を持っていない。それなのに、毎月、往復300kmから、長距離は、1000kmまで、転勤によって様々だが、それでも「毎月・欠かさず」墓参をつづけて来たというのです。エライじゃないですか。おどろきだよ。この出逢いだが、もし私が10秒遅く、部屋を出たなら、会うこともなかった。10秒、早く夫妻が車を出していたら、ああ、そうそう、思い出したよ、奥さんが車を降りて、聖フランシスコの像を写真に撮ったから、タイミングがピッタシ合ったのだった。出逢いとは不思議な出来事ですね。神さまのミステリーだよ。もう4年になるかな、田中夫妻とはご縁がつづいて、時折、思い出したように、奥さんが手作りの「つくだに」を2パック送ってくださる。食堂で、みんなで食べているよ。この立派な祭壇は、もらい物ですよ、と奥さん。お宅で、昼食の「冷やしソーメン」を食べて、観想修道女会へ連れて行ってくれた。
2012年8月15日水曜日
聖母被昇天祭日。終戦記念日。聖ザビエル日本宣教開始の日
今から、67年前の昭和20年、1945年8月15日の、私の日記です。当時、17歳でした。だから17歳の字です。結構、しっかりした字を書いている。「聖母の御祝日。山中に、己と、秀一と、池田一家と、寝る」とある。原爆の廃墟の丘で生活をしていたから、ラジオはなく、戦争が終わったことを果たして、その日に知ったか、わからない。ただ17日に、「大東亜戦争も早や終結した。ああ、日本よ、とうとう負けたるか。我、唯ただ、過去を思い、残念に考える」と記している。聖母の御祝日とは、聖母マリアが、御霊魂も、御身体も、天に帰った被昇天の祭日である。5世紀頃から祝われていた、マリアさまの大きなお祝い日です。また、もう1つ、忘れてならぬ記念日になっている。聖フランシスコ・ザビエルが、この日の鹿児島に上陸して、日本にキリスト教を最初に宣教した日だった。今朝のミサで祈りました。「聖ザビエルが日本へキリスト教を伝えて4世紀半になります。迫害や、困難を得てきましたが、もう1度、キリシタン時代の信仰の熱意に戻ることが出来ますように」
2012年8月14日火曜日
聖コルベの祭日。友のためにイノチささげる者になる
聖マキシミリアン・マリア・コルベの祭日です。聖母の騎士の教会で、記念のミサがおこなわれた。シスターや信徒が共に祈った。聖コルベを思うとき、幾つかの聖コルベ・ミステリーがある。①計らずも殉教の日が、聖母の被昇天の祭日の前日だった。マリアに全てを奉献し、聖母の道具、騎士として生きた聖コルベにとって最も嬉しかったであろう。②聖コルベは、なぜ友のために命をささげたのか。それは先に、ささげた人が居た。イエスである。聖コルベの生きる目標は、イエスに似たも者となる。その通りに、友のために命をささげ、餓死の地下室で、裸で、われ乾くといって、全く似たものとして殉教した。③聖コルベの最後の苦難は、餓死室で、9人を天国へ送った後で、最後まで生きた。④所長に、『司祭です』と宣言して、人生を終わった。これらを思うとき、聖コルベに、どうして、そのような生き方が可能だったのか、考えさせられる。勇気か、聖なる決断か。コルベ神父を語る難しさがある。友を愛そう。敵を許そう。などと言っても、手垢がついた言葉では、誰も感動しない。心から、心へ、ホンネで語るか、どう捕らえるか、伝える難しさがある。
2012年8月13日月曜日
休みを終えて、戻る。黙々と祈り、観想に生涯励む人がいた
この旅のあいだ、会いたい人がいた。女子カルメル会のシスターだった。今から10年ほど前、聖コルベ館へ時々来ていた女性がいる。国立大学を出て、更に国立大学院で学び、臨床心理士の資格を持ち、公の役所で活躍していた。また教会の青年会でも、中心となって働いた。その女性が、カルメル会という厳しい観想修道会に入るという。神さまに、徹底した愛と出会いの道に進むという。その信仰の清さ、まっすぐさに、熱いエールを送った。あの女性はまだ勤めているだろうか。半信半疑の思いもあった。修道院の近くに、田中夫妻が居るので、夫妻の車で訪ねた。山の中の、緑に囲まれた静かな場所に修道院はあった。小聖堂で1連を祈り、受付で係りのシスターにお願いした。「聖母の騎士の修道士です。お会いできますか」「ああ、以前に、26聖人の映画にきて下さった方ですね。覚えていますよ」「院長さまにお願いしてください」。だが観想修道会は、シスターたちは面会を禁じられている。その通りで、面会は出来なかった。受付のシスターが慰めるように言った。「去年の11月1日が、その方の終生誓願でした。お祝いのとき、記念のカードを作ります。その方は、聖母の騎士のルルドの聖母を印刷お願いしたいと、騎士社に頼みました」。それを聞いて安心した。名詞の裏に、「祈っています。神さまへの愛を生涯、貫いてください」と書いて、渡した。今なお、厳しい祈りと、孤独と、観想に生きているシスターが居ることを肌で感じて、感謝しつつ、我が身を反省しつつ、山を去ったのだった。
2012年8月12日日曜日
夏の休み。都会の教会で、ミサで祈る。主は何処でも在します
日曜日は、ミサで祈る。他の教会で祈るのも、違った雰囲気があって、祈りにも熱が入ります。ミサの終わりに、司祭が、「新しくお見えになった方、自発的に自己紹介をお願いします」と、うながした。すると「関東方面の教会からです」と女性が話し出した。私は、後部から、2、3列目のところで、黒ズボン、黒半そでを着て、参加している。「他に、誰か、居ませんか。こちらは知っているんだけども、なあ」と司祭がうながした。私は隠れるように、身を細くして、遠慮していた。昨日、いっしょに夕食をとった女性がいる。今朝は聖体奉仕者を勤めていた。女性から聖体を受けたばかりだった。そのまま立ち上がらずに、過ぎこした。言われなくて、良かったよ。
2012年8月11日土曜日
夏の休み。博多で、日記を愛読の女性に出会う。良かった
福岡・博多の小百合さん。「駅で、騎士誌を見て、聖コルベ館へ。洗礼を受けてから、又いらっしゃいと言われ、洗礼に導かれた。ブログの愛読者です」と面会に来た。ブログを見てくださって有り難う。「写真もいいけど、字の文章を載せたのもある。それが好き」「え?どんな字?」。スマートホンで探して、「これです。『1日1ツ何かをする。1年たてば365。すばらしいコンセキ。時折、心に浮かぶ感想です。日記を書くのも、その1つ。書かなきゃ何もない。書けば365の痕跡が残る』と教えた。嬉しいなあ。いつも読んでくれて、ゲンキが出る。小百合さんは、スマートホンの文面を探しながら、「『7月22日の、エピソードのなかに、神が語りかける神秘性がある』。あれも良かったね。私も、そう思います。コルベ神父さまの言葉があった。『心の内に、愛を宿せば、宿すほど、苦しみの必要性を感じるようになるでしょう』。共感します」と言った。この写真には写っていないが、もう1人の女性が居て、3人で夕食を共にした。後ろの大きな像は、博多の山傘です。
2012年8月10日金曜日
夏の休み。3泊4日の予定。列車で、2時間の福岡・博多へ
さあ、出かけるか。列車に乗って、福岡・博多へ。快適な旅になる。今後の予定ですが、8日の診察の結果、18日に5度目の入院。また苦難がやってきます。もう馴れたとは居えないね。さて、数日後、14日は、聖コルベの殉教の祭日になっている。翌15日は、聖母の被昇天の祭日です。修道士にも、夏には、若干の休みがあります。夏の休暇だから、大事にしたいね。そう思うと、急な話だが、10日から、13日までしか、休みが取れない。そこで思い切って、気分の転換のため、出かけることにしました。オバマ温泉でないよ。温泉は熱いからね。都会へ出て、少々刺激を受けたい。聖コルベ館に居て、下ばかり見ていても、気持ちが落ち込む。晴れ晴れしない。そこで気分も新たに、変わった景色も見て、心新たに、また頑張ろう。入院にも耐えられる。博多まで、列車で、2時間。宿に着くと、しばらく横になった。会う人、予定の人、3人にも連絡はしていた。それにしても体調は良くなかった。まあ、とにかく休もう。
2012年8月9日木曜日
原爆の日。67年前の悲しみ。母との、つながり。忘れない
原爆で爆死した母親ワサの命日です。お母さんを思うとき、何を感じますか。幾つかのことを記しておきましょう。①母親から、自分へ。その間、修道士だから、妻なし、子なし、孫もない。はさまれている身内がいない。だから母親とは直接つながっているのを感じる。母を思う心が強い。②原爆前に、母は子どもをルルドのマリアさまへ導いた。「お任せします、マリアさま」。そんな心があったのだろう。それは正解だった。③母から聞いたカエルの話。わがままなカエルがいた。言うことを聞かない。山へ行けといえば、川に行く。勉強しなさいと言えば、遊びに行く。お母さんは老いて、さ、自分が死んだら、どこに埋めてもらおう。川と言えば、安全な山へ埋葬してもらえるだろう。それで、母さん、死んだら、川へ、ね。死んで初めて、わがままな自分に気が付いた。川へ埋めてあげよう。台風がきて、川が増水し、ああ、お母さんがながれると、カエルは、ゲロゲロと鳴くんだよ、と教えた。その母は、洪水ではなく、原爆の火の海に包まれて亡くなった。ああ、悲しいと、子どもは泣いている。④これまでも度々書いてきたが、いま一番大事に思うことは、母から貰ったお乳と、カトリックの教えだった。この教えを守りつつ、人生を終わります。そこには、つながる希望がある。死者につながり、聖人につながり、神の愛とイノチにつながる。それが希望なんです。⑤悲しいのは原爆の朝の別れです。いっしょに起きて、いっしょに朝の食事をした。行ってくるからね。母は答えず、悲しく見送ってくれた。それが最後の姿となった。クララ田川ワサ、享年45。あれから67年。もう84歳の老人になったよ。
2012年8月8日水曜日
主治医は言った。「入院して、レーザー治療をしましょう」
泌尿器科の予約の診察日。まずCTを撮った。主治医は、輪切りにした腹部のある部分を指しながら、言った。「この、大きな、2つの部分は、以前に、結核をした跡です。石灰化しています。その傍に、小さなカタマリがあるでしょう。(1個、有った)。来週の土曜日(18日)、入院してください。20日の月曜日に、レーザーで治療をしましょう。全身麻酔でおこないます」。主治医に尋ねた。「硬い結石ではない。やわらかい、ご飯ツブの大きさの、フワフワしたカタマリが出てくる。これが詰まってしまう。なぜ、そんなに成るのでしょうか」「原因は分かりません。おそらく石灰化したカタマリが、何らかの原因で、はがれて、くだけて、固まって出ているのでないか」。主治医に聞いた。「泌尿器科で、こんな症状の患者さんは居るのでしょうか」「居ませんね。めずらしい症状です」。腎臓結核に罹って、石灰化しても、60年も経過しているのだから、生存者はもう居ないのだろう。イノチをつづけてきただけ、ありがたい。入院、次いで治療と言う苦難に耐えて、苦しみを意義あるものに変えていこうと、意を固めた。今朝の祈り。「神よ、人のイノチがいかに短く、その一生が、どのような危険に満ちているか、ご存知です。あなたの霊で、私たちを強め、耐え忍ぶ助けをお与えください」
2012年8月7日火曜日
1枚のハガキが、生きる小さな勇気を、与えてくれる
先日の日記に、聖コルベの殉教を書いて、祈りを付け加えた。そのとき思った。「誰かが、きっと祈ってくれる人がいるはずだ」。便りが来たよ。「お暑さお見舞い申し上げます。7月29日のブログでお元気なお顔を拝しまして、ほっといたしました。8月1日のブログで教えていただきましたお祈りを、聖コルベにお捧げしております。深く感謝申し上げます。そして6日と9日には、人類史上、最も熱く、苦しい時をお持ちになった広島と長崎の皆様に、お祈りをお捧げさせていただきたいと存じます。その後、御体調はいかがでいらっしゃいますか。どうぞ、この上、共におだいじにおすごしあそばされますよう心よりお祈り申し上げております。やっと『茨城の空』でコメントをお送りできるようになりました」(原文そのまま)。あまりに、ご丁寧な文言に恐縮しております。それにしても、1枚のハガキが、小さな勇気を与えてくれました。実は最近、ブログを書くことに方向転換を感じております。「迷わず、弱音を吐かず、病気や、飲食は取り上げない」。8月1日から、写真の位置を左に変えたのも、そのためです。悩みの一旦です。おはがきの主は、どのような御方か存じませんが、ありがとうございます。小さな事でいい。生かされている、喜び。導かれて今が有る、感謝。大きな愛とイノチから守られている、安心感。改めて感じ直して、「ジャガイモは、イモの生き方でよい」と、今日も牛歩の歩みなれど、セイ一杯、呼吸をつづけます。
2012年8月6日月曜日
ポーランド人のブリ神父さん、お友だちになったよ
午後から聖コルベ館へ出ると、待っていたように、外国人の神父さんと、3人の見学者の連れがあった。この神父さんは、私がオバマ温泉へ行く途中の教会の司祭で、ポーランド人。「ああ、よかった。『焼けたロザリオ』をあげるよ」と、マンガ・ポーランド語版を持って写っている写真です。ポーランド語を見て、喜んでくれた。この神父さんとお友だちになれそうだ。「神父さん、お名前は?」「ヨハネ・ブリ神父。ブリだよ。まだ、鯛には、なれないな」「フ、フ、フ。ブリ神父さん、忘れないよ。実はね、お宅の教会の信者さんにまつわる愛の話を知っている。いつか、それに就いて書こうかと思っている。よろしく頼みますよ」「ウーン、迎えに来るからね」。記事のことがアタマにあっただけに、神父さんが突然、見えたことは不思議な縁を感じた。こういう導かれることが、あるんですね。話していると、ドカドカと、中高生の若者の一団が入ってきた。神父さんに冷たいゼリーを渡して、「食べてください」。若者たちを受け入れる説明に、席をはずした。「また、ゆっくり話しましょうね」
2012年8月5日日曜日
外海の墓参り。酷暑の夏だよ。熱中症で倒れそう
長崎市から約30km。外海のカトリック墓地。ここに原爆で爆死した母親と、先祖たちが眠っている。父の名前もある。この墓地は、以前は段々畑だった山の斜面を整備して築き上げた。坂の、上り下りが大変だ。墓地では、ロザリオを1本唱えた。原爆で亡くなった母を思い浮かべる。あの日も、このような真夏の日だった。祈りをしながら、汗が吹き出る。真夏の太陽は容赦なく照りつける。傘をさして、しのいだ。帰りは、下るより、登りが大変だ。かなりの段数の石段がある。酷暑のアセを拭きながら、1段、1段、山に向かって、石段を登り始めた。すると急に、急に心臓がパクパクし、気持ちが異様な恐怖にさらされる。「ああ、ここで、熱中症で倒れたら、どうなるか。救急車も来ないだろう」。そう考えると、身の毛がよだつのを覚えた。「ゆっくり、歩こう。休みながら、歩こう」。車へ行けば、冷房も効いている。必死になって、不安のさなかに、登りあがった。やっと、安心したよ。もう来年からは、真夏の墓参りは出来ないだろう。そう心に決めた。
2012年8月4日土曜日
遠藤さんとの写真。若かったなァ、あの頃は。忘れぬ言葉
うれしく思うのは、外海の遠藤周作文学館に、この写真が、2年間、展示されるのです。ありがたいですね。大きなパネルの写真です。写真の下には、小崎修道士の文章も載せてある。文学者の展示に、文章を載せてくださるなんて、光栄です。いま読んでも、まあ、まあ、書けていた。それにしても、よく飾ってくれたと思いますよ。あの頃の小崎修道士は、若くて、スマートだった。遠藤さんと並んで写って、記念になります。誇りでもある。もう30年前の写真です。正確には、1981年・昭和56年5月21日でした。左の司祭は、ミロハナ神父で、コルベ神父さまから日本へ連れて来られて、薫陶を受けた。だからコルベ神父を知る第一人者です。遠藤先生が、取材をしたいと申されるので、ご案内した。小崎修道士の遠藤さんの印象は、お会いする前までは、あまり良くなかった。狐狸庵先生とか、グーダラ紳士録とか、チャラン、ポランのイメージがあった。それがお会いした途端、礼儀正しく、「よろしくお願いします」と、この小崎修道士に深い礼をしたので、びっくり。「ええ?だいぶん違うぞ」と、それからフアンのなった。遠藤先生から教わった「愛の教え」「愛の狩人」は忘れない。外海の遠藤周作文学館へ行くと、2年間は、この写真が見られます。ぜひ、1度、ご見学を。
2012年8月3日金曜日
2つめの、うれしい事。遠藤文学館の展示に大きな写真が
うれしい事の、もう1つは、外海の遠藤周作文学館に、コルベ神父と、他に小崎修道士が、遠藤さんと「交流があった」ということで、小崎修道士の写真や、資料が展示されていることです。外海の文学館の海の眺めが、すばらしい。館内に入ると、まず遠藤さんの生涯が、写真や、思い出の品々で展示されている。次に、「遠藤周作と長崎」が並びます。その中の写真パネルに、小崎修道士と遠藤先生が並んで写った大きな写真が掲げられていて、びっくりしました。次の部屋には、「コルベ神父への思い」と題して、大きなパネル写真が4枚も、また聖母の騎士誌がケースに置かれている。それらを見ると、非常に嬉しく思いました。遠藤周作文学館の創立は、2000年5月です。この文学館は主に、長崎の作品、「沈黙」や「女の一生」、「切支丹の里」を主体に建てられた。しかし展示は、2年に1度変わり、いろんな遠藤さんの角度から、集客に努めているわけです。例えば前の2年間のテーマは「遠藤さんと映画」だった。今年は巡り廻って、また長崎の作品に戻った。それで取り上げるようになった次第、本当に光栄です。ドライブには、もってこいの場所です。
2012年8月2日木曜日
ポーランドの子ども、「ジェン、ドーブリ」。未来に期待
「トマさん、最近、うれしい事、ありましたか?」「ああ、2つ、ありました」。その1つが、ポーランドで、自伝マンガ『焼けたロザリオ』が発行されたことです。ごらんなさい、ポーランドのかわいい子どもが、そのマンガ本を両手にしっかり持って、「ボク、まだ、わかんない」と、ポーランド語で言っていますよ。いや、ダイジョウブだよ。君には、未来がある。コルベ神父のように、日本人が好きに、日本の国がスキになってね。期待しているよ。「ジェン、ドーブリ」(こんにちわ)。本を持ってくれて、「ジン、クィエン」(ありがとう)。この写真は長崎で宣教しているポーランド人のシスターからメールで送られてきました。説明文に曰く、「トマさんの本を、ヨハネ君が喜んで見ていると、写真をいただきました。よく撮れていますね。私(シスター)も、とても嬉しかったので、送ります。ポーランドでは人気者のようです。私の妹も読んでいます」。戦争がないように、ケンカがないように、平和になるよう今朝は祈りました。さて、最初に、嬉しいことが、2つ、あるって言いましたね。あと、1つは、またアシタ、書きましょう。
2012年8月1日水曜日
コルベ神父の身代わりは、1941年7月30日だった
昨日の日記に、3つのコメントがあった。①エリザベットさんから、「コルベ神父の身代わりは、7月31日ですから、14日間は特別な祈りと思いで過ごします」。その心遣いに、ハッとしました。日にちですが、②ポーランドのコンラドさんから、「ミハウ・ミヘルヂィンスキさん(2006年没)の証言によると、身代わりは、7月29日に行なわれた」。更に又、③コンラドさんから追信、「点呼は7月29日で、その後、収容者たちは夜中も立っていた。身代わりは、7月30日です」。小崎の『身代わりの愛』(1994年刊)には、「オシエンチムの公式記録書には、7月29日と記載してある」。おそらく、29日に点呼があり、逃亡者の確認があった。収容者たちは一晩じゅう立っていて、翌日の30日になっても、逃亡者が見つからないので、10人が餓死刑を言い渡された。8月に入って、コルベ神父の餓死室での苦しみが始まります。コルベ神父を愛する皆さん、私たちは、コルベ神父さまの殉教を思って、祈りながら、殉教の日まで、8月14日まで過ごしましょう。祈り。「神よ、あなたは、アシジの聖フランシスコの忠実な弟子・聖マキシミリアノ・マリア・コルベを無原罪の聖母信心の使徒として、私たちに与えてくださいました。私たちにも自分のすべてを惜しむことなく、あなたに委ねる力をお与えください。栄唱1回、アヴェ・マリア1回」