迷うこともあります。「今日は何を書こうか」。困ることもある。もう弱音や、吐息を書くのは止めよう。この歳になって、迷って、疑って、どうするのか。明るく生きよう、そう思います。聖コルベ館に見学に来た男性が、こう言いました。「私は、マリアさまが、よく分かりません」。私は、優しい顔をして、説明しました。修道士の服を見て、彼らは癒されるでしょうか。また、ある女性は、こう言いました。「病気、なさって、いるようですが、大丈夫ですか」。心配してくれて、ありがとう。そのとき私は、こう答えている。「まあ、なんとか、横バイです」。一日一日を、生かされ、生きている感じです。若い夫婦に私は言いました。「この世で、いちばん大切なのは、愛とイノチだよ」。いつもの定説を語りました。「愛の一番美しいのは、家族愛だよ。親は、愛する子どものためなら、イノチの代わりまで果たしたい。その心情を持っている」。子を育てていない。孫のかわいさを抱いていない。カラダのやわらかさを全く感じていない。愛の根源である家族愛を知らない。持っているのは理知的な、思い描いた愛です。語る資格はあるのか。それ以上の愛をいかに経験するか。やっぱり最初に思ったように、迷いに辿り着きます。正直すぎるのでしょうか。長崎のカトリック修道士。17歳の時、原爆を受けて、この道に入る。 生かされて来た数々の恵みの中で、今年の1月、最大の試練「すい臓がん」を告知された。 「みむねの・ままに」。孤独と苦痛に耐え得るチカラを日々、祈る。 毎日、日記を書き続けて13年。今、長崎市の病院・ホスピス病棟で暮らす。 追記 2021年4月15日 午後6時48分 帰天されました。享年93歳
2012年7月31日火曜日
7月も終わりです。日記も、何を書こうか、迷う日もある
迷うこともあります。「今日は何を書こうか」。困ることもある。もう弱音や、吐息を書くのは止めよう。この歳になって、迷って、疑って、どうするのか。明るく生きよう、そう思います。聖コルベ館に見学に来た男性が、こう言いました。「私は、マリアさまが、よく分かりません」。私は、優しい顔をして、説明しました。修道士の服を見て、彼らは癒されるでしょうか。また、ある女性は、こう言いました。「病気、なさって、いるようですが、大丈夫ですか」。心配してくれて、ありがとう。そのとき私は、こう答えている。「まあ、なんとか、横バイです」。一日一日を、生かされ、生きている感じです。若い夫婦に私は言いました。「この世で、いちばん大切なのは、愛とイノチだよ」。いつもの定説を語りました。「愛の一番美しいのは、家族愛だよ。親は、愛する子どものためなら、イノチの代わりまで果たしたい。その心情を持っている」。子を育てていない。孫のかわいさを抱いていない。カラダのやわらかさを全く感じていない。愛の根源である家族愛を知らない。持っているのは理知的な、思い描いた愛です。語る資格はあるのか。それ以上の愛をいかに経験するか。やっぱり最初に思ったように、迷いに辿り着きます。正直すぎるのでしょうか。2012年7月30日月曜日
ポーランドのコンラドさん、配本のため頑張ってください
ポーランドのコンラドさんから、メールがきた。「今日は11冊の本を配りました。田舎に住んでいる友人に、6冊の本を送りました。お話しのとき、友人はとても喜びました。『神さまに感謝。早速、お祈りをしましょう』。4冊の本をカトリックの家庭に配る予定です。2冊の本を、教会の司祭に渡すつもりです。その本の1冊は、教会の図書館に届ける予定です。クラクフの友人に、5冊の本を渡しました。電話で出会いを決めました。早速、家内とその夫妻のところに行って、2時間ほど話しました。小崎さんからのギフトについて語りました。2人はとても喜びました。『お金を払っていいですか』『いいえ、払ってはいけません。ギフトです』と私が言いました」。以上のコンラドさんからの活躍メールを見て、今日、朝から長崎の郵便局に出かけて、コンラドさんへ少々の活躍の基金、500ユーロを送金した。「これで本を買って、配ってください。奥さんにもお世話になっている。ケーキを買って、差し上げてください」と、メールを送った。私は、今からでも、ポーランドへ行きたい。本の普及のため、マスコミに出て、宣伝したい。そんな気持ちです。原爆も、戦争も、強制収容所も、2度とないように願っている。
2012年7月29日日曜日
ごらんの通りのカオで、ゲンキにお勤めを果たしております
2012年7月28日土曜日
昔の写真に感動。祈り働け。修道服を着ての作業は苦難だった
今から60年ぐらい前(昭和30年)の、聖母の騎士の、連続した古い写真が見つかった。右側の写真は、現在の「ルルドへ登る道」です。今でも残って使われている。右のサクラの木は今でも咲かせていた。ところで左側の、上、下の2枚が注目の写真です。修道服を着たまま、肥料を運んでいる。大変な苦労、アセだった。修道士たちは、こうして働いた。山の斜面に、畑があった。食べ物が不足の時代だから、僅かな土地も利用した。神学生や修道士が多かったからね。写真の裏を見ると、「祈り、働け」と書いてある。シャワーを浴びて、すぐ祈りに行った。裏に名前も書いてある。左側、下の写真、背の高い修道士は現在も健在です。よく働きましたよ。背の低い修道士は亡くなった。この頃、私はどうして居たか。病気(結核)で、山の修道院で暮らしていた。それでも彼らをよく知っている。彼らの流したアセは、土地に、思い出に染み込んでいる。そのアセや苦労を知るものは、天の神さましか居ない。写真を見て、思わず手を合わせたよ。コルベ神父が聖人になって、ここには今、5基の、ロザリオの玄義が建っている。人々は何も知らず祈りながら、この坂を登っている。こういう時代もあったんです。先輩の苦労は価値がある。今朝の祈り「今日、一日の出来事の中に、導きを知り、感謝して生きることができるように」2012年7月27日金曜日
ポーランド語版のマンガ『焼けたロザリオ』。がんばれ
ポーランドのコンラドさん(男性)からメールがきた。ポーランド語版の『焼けたロザリオ』(マンガ)が、出版社から50冊届いて、「奥さんと相談した末、ポーランドの皆さんにプレゼントする場所が決まったという知らせです。うれしいじゃないですか。これでポーランドの皆さんにも読んでもらうようになった。クラクフ在住のコンラドさんのおかげです。6月29日に、こちらの郵便局から若干のお金を送金しておりました。『焼けたロザリオ基金』のつもりです。本代は、ポーランドは貨幣価値が異なるので、1冊、日本円で、462円になるそうです。安いので助かります。普及が出来るでしょう。コンラドさんが現地で頑張ってくださるので、期待しています。みなさんも応援してくださると有りがたいです。近いうちに、第2弾の基金を送るつもりです。送り先を見ると、学校の図書館や、日本文化センター、教会や、修道院など、幅を広めて行けば良いと希望しています。私はポーランドを訪ねる度に、コンラドさんにお世話になり、彼の通訳に頼っていました。日本ビイキの男性です。2012年7月26日木曜日
ゲンキを取り戻した。活力が湧いてくる。梅雨も明けたぞ
2012年7月25日水曜日
昨夜の出来事。人生、山あり、谷あり、十字架もいっぱい有る
「深夜の赤変」って何ですか。あんまり良い話じゃありません。夜中に、排尿に起きた。「赤・変」とは、血尿のことです。真っ赤な尿が、ドンドン出た。「ああ、また、か」が、最初の一句。時計を見ると、深夜の3時だった。寝る前までは、平常だったのに、なぜ? 赤が出る理由が分からない。もう赤い尿を見ると、「疲れたよ」。あまり動揺はなかったが、しばらくベッドに腰かけて、首をうなだれ、瞑目して、動かなかった。「深い眠りに入って、何もかも忘れたい」。つぶやいた。ガンの発症なのか。脳裏には、いろんな苦しい思いが、よぎる。腎臓のどこかに、炎症があるのか。とにかく真っ赤な尿が出たのは事実だった。「苦労するなァ、トマは」。自分を慰めてやりたかった。十字架は、また迫ってくる。今夜は、新たな苦難の始まりにも思えた。「生きていくのも、苦労するな」。また、深くイキをした。77歳、喜寿までは健康だったなァ。78歳から山あり、谷ありの道を歩いた。今年はタツ年で、めぐりめぐって自分の年になる。今年は、いいことあるぞ、と期待した。それが4度の入院。そして、まだ、まだ、新しい苦難が始まるのか。からだ全体が、老いを感じる。「生きているのは、うれしいなァ」「生きておれば、笑えるからなァ」「出会いもあるし、祈りも出来る。みんなで、声を大きく祈るのは、活力が並々と満ちてくる」「苦労があっても、生きているのは、たのしい」「この柔らかな皮膚、見える目、やっぱり嬉しい」。朝、5時に起きて、みんなと一緒に祈る。朝食のあと、部屋を片づけ、泌尿器科の病院へ。「先生、すみません。昨夜、血尿したので、びっくりして、来ました」2012年7月24日火曜日
話す内容は体験か、個々の問題か、どちらが共感を呼ぶか
2012年7月23日月曜日
押し付けない。ゆっくり休みなさい。またゲンキをもらって
2012年7月22日日曜日
エピソードの中に、神が語りかける神秘性がある。因果の縁
神父は、10数人の顔を見渡してから、聖書を開いて読み上げた。「神の恵みによって、今日の私がある。私は多く働いた。しかし働いたのは私でなく、神の恵みなのです。(コリントⅠ、15-10)」。そして神父は語り始めた。「神の愛とは何ですか?愛は感じるものです。呼び水というのがある。ポンプもそうです。人の心に呼び起こす力は、自分が、ずーっと以前から、愛されていたことに気づく時です。『あなたは、神に愛されている』と、よく言われる。信じるしかない」。神父は一呼吸ついてから、次のコルベ神父の言葉を告げた。「心の内に、愛を宿せば、宿すほど、苦しみの必要性を感じるようになるでしょう」。神父は語気を強めた。「その心は、愛する、兄弟を愛する、神を愛する」。しばらく沈黙がつづいた。神父は、ここで話題を変えた。「出逢いで、目が開かれ、良いものに、大きいものに変えられていく」。私が口を挟んで問うた。「出会いの本質は何ですか?」。神父は答えた。「因果のなかに縁が入る。出会いのなかに、エピソードがある。これはアメリカの学者が言った。『ストリー、スピリチュアル』。エピソードのなかに神秘性がある。エピソードを通して、神が語りかける」。私は心の中で思った。(因果に縁とは何のことだ?出会いに、エピソード。神の語りかけ。これは私に合うことだな)。神父は更につづけた。「いま、自分が、どの位置にあるか、考える。神の、私への愛を味わってほしい。今度は、私の、神の愛を考えてほしい」。神父の話の、私のメモはここで終わっている。2007年8月20日の出来事だった。あれから5年が経過したが、なぜか、私の思いに残っている。2012年7月21日土曜日
夏休みか。子ども達がやってくる。いい子になれよ
2012年7月20日金曜日
聖コルベ館には出逢いがある。座っているだけで、恵みがある
2012年7月19日木曜日
予約の診察。医院を回る。生きてこそ、喜びも、ある
朝から3つの病院へ向かう。①泌尿器科へ予約の診察。これが一番、気持ちが重い。ボウコウの細胞診は(Ⅱ)、お医者さんは大丈夫と言う。問題は腎臓の、フニャ、フニャ、カタマリです。ビール色の尿は、幸い、黄色い尿に戻った。出る度に、一喜一憂するのは、疲れる。お医者さんが、尿の異変があったために、病院に来れないときのために、抗生剤を処方してくれた。ボウコウは今のところ治まり、さあ、今年はゲンキになるぞと、気合が入っていたのに、急に腎臓に異変が生じ、尿が全く出なくなる騒動が数回も起こって、ダメージを受けた。なんとか、この現状を切り抜けたい。出会う人は皆、「ダイジョウブですか、カラダは」と案じてくれる。「お顔の血色は、いいようですね」「あたり前たい」。次いで、②心臓のクリニックへ向かう。不整脈のクスリを処方してもらう。待合室には30人ほど居て、長い時間、待った。③耳鼻科へ移動。耳の治療を行なう。時計は12時30分になっている。新大工町のシーボルト通りで、ウドン屋へ入り、冷やしソーメンを注文した。スル、スルっと、ノドに入って行った。おいしい。果物屋で、スイカの切れ端を買って、午後1時30分に帰った。午後は休みます。
2012年7月18日水曜日
若者は、笑う。老人だって、笑え。スベッタ話でも憶するな
2012年7月17日火曜日
3連休には見学者が三々五々、みんな明るい顔をしている
2012年7月16日月曜日
大女優・山田五十鈴さんと日本26聖人の映画・14歳の出演
大女優・山田五十鈴さんが、95歳で他界された。1930年、13歳で、日活に入社とある。26聖人の映画は、1931年の制作だから、14歳だった。セリフなし、たった2秒の出演だった。入社当時の駆け出しだから、出演だけ、したのだろう。1931年(昭和6年)の映画雑誌『シネマ王国』9月号は、日本26聖人特集号で、そこには、セリフなしの山田五十鈴さんだが、片隅にコメントが載っている。「信仰というものは、誰にも無くてはならぬものだと存じます。信仰があると、どのような悲しい出来事にも堪え得られるし、心が平らに落ちついて物に動じないと思います。『日本26聖人』では宗教のために殉じた尊い人々の物語りが描かれて居りますが、わたしなんか、撮影中も普段にない引きしまった気持ちで通しました。ルドビコ茨木健市の役をやる中村英雄さんやアントニオの尾上助三郎さんが、最後に喜んで宗教に殉ずる場面では、思わずホロリとしました。悲しいのではないのです。殉教者とはあんなにも崇高な気持なものかと思って感じ入ったのです。わたしは、細川奥方がラシャ夫人の侍女マダレナ桜木に扮して居ります」。14歳でこのような素晴らしいコメントが書けるのでしょうか。若い頃から、真実を見詰めていた女優だった。いま、あらためて尊敬する次第です。日本26聖人の弁士役として、山田五十鈴さんのことは決して忘れない。2012年7月15日日曜日
一人、悶々の夜、クスリが効けて、夜中に、黄色になる
本当ですよ。昨夜は、心配しました。一人で、悶々しました。温泉へ行った、3、4日前から、尿の色が、正常でない。濃いビール色になって、ボウコウに違和感がある。夜になって、尿が、赤くなった。血が混じっている。素人でも、わかる。熱は、ない。気分が優れない。土曜日、日曜日、それに明日は、旗日。3連休だ。病院は休診である。病院へは行けない。かす、かす、やわらかい異物は、時々出ている。ピンチを感じる。このまま放っていて、いいのか。わからない。部屋で、一人、ああ、もう、これで、終わりか、と思ったよ。深刻だった。これまで働いてくれた腎臓も、これで終わるか。そこで思いついた。以前、カゼ・クスリで貰った、見るからに効きそうな、カプセルのクスリが、2日分、残っていた。「そうだ、これを飲んでみよう」。夕食の後で、思い切って飲んだ。毒には、ならないだろう。すると夜中の2時頃、尿をコップに取ると、黄色に変わっていた。これには希望が持てた。また、明るい朝が来た。5時半に起きて、共同の祈り、お勤めを果たす。「苦難を、くぐり抜けて、なお、生きる」。今夜、もう1日分のクスリを飲んでみよう。尿がキレイになるやも、知れぬ。そんな日々を送っている。訪ねて来た知人が私の顔色みて言った。「おお、ゲンキそうじゃ、ないか」
2012年7月14日土曜日
食も細くなり、牛肉のテンプラも魅力が薄れてきた。元気だせ
2012年7月13日金曜日
のんびりと時間は過ぎる、オバマ温泉の定宿。何も考えない
オバマ温泉の定宿『富士屋』さんです。私が泊まる部屋は、いつも決まっている。左側、赤い湯の柱から湯気がなびいているが、その後ろの2階の部屋で、カラダもココロも休めている。小さな旅館です。温泉に着いてから、尿の異変に気がついた。困ったものです。出てくるときは、そうでも、なかったのに、尿が、ビール色に変わっている。正常の色では、ない。おまけに、カスも、沢山、出ている。「ああ、まだ、腎臓の中に、こんなカスが溜まっているのか」と思うと、やるせない気持ちになる。尿が、安定していないので、オバマへ出てくるのは、ムリか、とさえ思う。もう少し、尿の色は観察しよう。せっかく来ているので、途中から帰れない。体力、知力の関係は、老人になると、アタマと、カラダのバランスが崩れてくる。アタマは、記憶力の低下はあるものの、まだ、しっかりして、80%は働いている。ところが、カラダは歳を取ると、ある部分が、例えば、ヒザが痛くなるとか、胸が苦しいとか、一箇所、ニ箇所の問題ではなくて、カラダ全体が、まるで、ヨロイを着たように重くなる。手足は痛く、立ち上がれない。カラダの機能は、30%、20%と落ち込む。そのズレに苦しむのが、お年寄りだと思います。定宿に来ると、周りのことは、すべて忘れるのはホントです。ただ祈りだけは、聖務を果たしています。やっぱり、こんな宿に泊まって、活力を溜めるのは、ゼイタクなのでしょうか。
2012年7月12日木曜日
アセと、ナミダの経験が、人のココロを捕らえるのです
学問の持ち合わせも、ない。お金の持ち合わせも、ない。人脈の持ち合わせも、ない私です。修道士だから、この顔で、いいんです。そりゃ修道士でも、山ほど、働く人もいる。私は、ごらんの通り、このカオで、まあ、何とか、生きている。足のムクミはあるが、肩はこらないように、呼吸している。人を感動させるのは、何と思いますか。アタマじゃない、おカネでも、ない。ミエでも、ない。私は、人情ばなし、と思います。オレは、これに弱いよ。いい話は、いい実話は、心に、いつまでも、残ります。ここは、何処だって?オバマ温泉の源泉の場所です。昔はこの辺りで、サムライが、温泉に入っていた。島原のお殿さまは、オバマへ温泉に入りに来て、ここで急死したそうな。かわいそうにね。この庭にも、いろんな人が行き交っていたんですね。しずかな公園でした。温泉宿から散歩で来た。左の建物は温泉資料館。ここに、掛け軸、3点。西郷隆盛、勝海舟、福沢諭吉が、掛かっていた。他に、小曾根乾堂、広瀬淡窓(教科書で名前を覚えていた)なども、あった。誰も番人がいない。田舎なんだね。無用心だよ。これらを見ると、字のうまさよりも、「人は何によって、光るか」。考える。話し方が、うまい。声も、いい。迫力も、ある。だが、いくら立派に、しゃべっても、アセと、ナミダがなければ、人は感心はするが、感動はしない。人のココロを揺さぶるのは、どれだけ苦労したか、イノチの瀬戸際を歩いたか、アセと、ナミダを経験したか、そこから、にじみ出る人のホントの情が、気持ちを捉えるのです。
2012年7月11日水曜日
オバマ温泉へ出かける。3泊4日の予定。まだ梅雨は晴れません
島原半島のオバマ温泉へ出かけます。6月は休みました。久しぶりです。なぜオバマへ行きかと言うと、老いゆくカラダを伸び伸びさせるためです。体力が、やはり落ちている。広い場所へ出て、ウーンと、両手を伸ばして、胸いっぱいに新鮮な空気を吸い込む。気持ちが新たに成り、ゲンキが湧いてきます。ゆっくりと温泉にも入る。周りを忘れて、心の隔離にもなる。ごちそうは、もう沢山、食べない。まあ、サシミと、牛肉のテンプラは出るかな。オバマに通って、7、8年になります。今年に入って、軽の運転は止めた。軽は車庫に置いたままです。今日、オバマ温泉へ連れて行くのは、個人タクシーの肥喜里(ひきり)政幸さんです。騎士誌の4月号に、「ナヨさんのメダイ」を載せたのが、ご縁になった。以前から約束していた。安全運転で、よろしくお願いします。★10時に出発し、途中、買い物と、昼食の寄り道をして、12時30分に温泉宿に着いた。タクシーは安全で、安心で、乗り心地は最良だった。
2012年7月10日火曜日
なぜか、あの頃の子どもとの生活、学びが懐かしい。憎めない
昭和30年代の男の子の施設。ペトロ石橋先生。指導員。修道士。戦争が終わったばかりで、世の中も、施設も、混乱状態だった。いま、教育界はイジメや受験、あるいは引きこもり、暴力などで、揺れにゆれている。あの頃の施設を知っているだけに、問題は沢山あったが、懐かしい。子ども達も、悪さをしても、憎めない。ペトロ石橋先生には、オーラがあった。じょうじゅに子ども達の心をつかんでいた。石橋先生は言った。「試験をして、いい子ばかり集めて、才能を磨いていく。それが真の教育だろうか」。子ども達は皆、両親がなく、全くの孤独だった。「ぺーさん、(ペトロ先生のこと)、みんなが、オレのこと、クルクル、パーって、言うとばい」「ほー、お前は、パーか、オレは、ペーぞ。パーと、ペーと、パーの方が上やっか」「ホントだね。へ、へ、へ」。教育の原点は、イノチの大切さ、だ。これは戦争を生き抜いて来た者なら、誰でも分かる。後は、悪に負けないシンのあるニンゲンになることだ。いい人間になって、将来、社会に貢献せよ。あまり勧める目標じゃないね。この子らの未来を予測するな。どうなるか分からない。2012年7月9日月曜日
戦後の混乱を縫い合わせた1つの施設だった。懐かしい
戦争が終わって、昭和30年代、山の修道院(写真・奥の2階建て)で、11年を過ごした。この施設(左側の2階建て)が出来るところから知っている。今では不思議な伝説になっている。行ってみなさい。びっくりする。山の中で、荒涼たる丘で、広い土地、「チョット、こい」と鳥がなく。コジュウケイという鳥です。木造の家が大小、何軒か建っていて、中心が教会だった。今でも、この教会だけが残っている。健在、60年になる。施設で生活する者は、男の子だけ140人、他に、身寄りのない老人や、いろんな男女が住んでいた。戦後の混乱だった。園長はミロハナ神父さん、全体の責任者で、教育の責任者はペトロ石橋修道士だった。この修道士が又、ユニークな教育者だった。今、この施設での生活を振り返って、なんだか懐かしい。毎日、いろいろな事件が起こる。まだ食料不足の時代で、少年たちに親はなく、全くの孤独で、自分だけが頼りで生きている。がむしゃらに生きている。村人の芋ガマ(大切な種イモ)を荒らして、食ってしまう。イヤ気がさして逃亡者もいる。それをペトロ石橋先生は、1つ、1つ、解決していった。ドロ沼の戦いだった。石橋先生のイメージは、アセにまみれて、石垣を構築する。夜は遅くまで、祈る。園内に、私立の小・中学校もあって、校長でもある。ここからが、問題だ。「何が、この大きな施設を統制して行ったのか」「荒馬のような男の子ばかりを、教育するとは、どういう意味があるのか」。今の時代、余りにも教育が弱っている。何か、今の時代とは違う。荒れていたけど、あの時代が懐かしい、今朝は、それを思った。2012年7月8日日曜日
今年は公会議50年。自己の信心も変わったか。見詰める日々
2012年7月7日土曜日
活字は誰が、どこで、読んでいるか、わからない
今朝も、食卓で、「トマさんのブログを見て、騎士誌の読者が増えている」と、別の、誰かの声がした。私は黙って、うなずいた。今の時代は、パソコンやテレビが生活に大きな影響を与えている。しかし活字もまだまだ役割を果たしている。活字の文章が、どこで、誰に、読まれて、生きる力になっているか、書いている本人には全く分からない。書くときには、概論でなく、実際の体験を、自分の足が地に着いた言葉で書きたいと思う。さて、この絵は、永井隆先生が描いた「長崎の港」です。手前の丘に、ずらっと並んだ十字架がある。言わずと知れた、日本26聖人の殉教の絵です。これは紙芝居の1枚になっている。私の所に年に数回、古本屋から「古本のカタログ」が届く。先日、届いたなかに、「路上の人・日本26聖人・原画・永井隆」があった。4.500円。資料になると思って、買いました。この他、よく買う古書に、戦前の、昭和10年ぐらいから20年ぐらいの本を時々買っている。それは少年時代に、どんな本が出ていたのか、教育されていたのか、いま知りたい、興味があるからです。戦争を始めたとき、私たちは何を考え、価値ある生き方と考えていたのか。振り返ることは、すごく楽しい。昭和11年の日本・内地の人口は、6925万人とある。2012年7月6日金曜日
どう表現するか。コメントが難しい。天の配在だな
写真は、長崎の港です。長崎は、海が、きれい。島も、点在する。いいところですよ。タレントの石田純一さんが、長崎に来た。JR長崎駅の構内に、天蓋のついた小さな広場がある。純一さんが来る、ということで、その辺の人々が集まった。特設の台にあがった純一さん、やっぱりスタイルがいいね。コメントだよ。これが割りと難しい。長崎は、島々が点在して、美しいじゃないですか。特に夕暮れなどは、ね。純一さん、司会者から、「長崎の、いい所は?」と訊ねられた。普通なら、キレイというが、さすが有名タレント、テレビ馴れしている。彼が、とっさに言った言葉に感心したよ。「長崎の、いい所・・・島が、天の、配在(はいざい)だな。うっとり」。そして彼は優しい目をみんなに投げかけながら、言った。「どうやったら、モテルか。恋の、さ、し、す、せ、そ。《さすが》《信じられない》《すごーい》《せっかく、ですから》《そうなんだ》。これで、相手を肯定させ、相手のココロをつかむのです」。タレントさん、さすが、マイッタよ。2012年7月5日木曜日
原爆の話を3度聞いた。またお願いしたい。できますか?
10年ほど前に、長崎・原爆資料館で、平和学習の語りべをしていた頃の写真です。昨日のことでした。「モシ、モシ、小崎さんですか。ブログを見て、電話を知りました。福岡で、公立小学校の教師をしています。もう何年も前に、別の学校に居たとき、修学旅行で小崎さんの話を聞きました。たいそう感動しました。3年つづけて指名して、話を聞きました。覚えていますよ。大きな絵を使って、紙芝居のように話してくれました。お母さんとの別れ、3人の女の子を看護して、とうとう亡くなって、棺おけがないので、タンスの引き出しに納めて、最後に荼毘にふした悲しい話や、見捨てた女学生に、10年後に再会した話など、今でもよく覚えています。今度、今の小学校へ来て、秋に修学旅行へ長崎へ行きます。また原爆資料館でお話しをお願いします」「ありがとう。覚えてくれて、嬉しいです。もう原爆資料館での話は引退しました。聖コルベ館では、健康に応じて、話をしています。殆どキリスト教関係の学校で、公立の中学校は、市内の学校に限ります。修学旅行での、ここでの話は、教会という場所がら、訪問するのは再考が要るでしょう。父兄の関係もあります」と告げると、「そうですね」と電話は切れた。それにしても、何年も前に語った被爆の語りを覚えて、電話をくださった女性先生に感謝した次第です。よくぞ覚えてくださった。うれしい。こんなことは珍しい。2012年7月4日水曜日
日記を読んで、騎士誌を購入。嬉しい読者が増えている
今朝の食卓で、「トマさんのブログを見て、騎士誌の注文する人が居ます」と、声が上がった。(嬉しいことだ)と心中、思ったが、その声には応じず、黙っていた。先日も、このようなコメントが寄せられている。「20年ぶりに、騎士誌を手にしました。前は、教会が購入したときに、読んでいましたが、その後は遠ざかっていました。ほんの数ヶ月前に、小崎修道士の日記を見つけて、毎日、楽しみにするようになりました。そして、また騎士誌を手にしたいと思って、購読を申し込みました。お引き合わせに、感謝しています」。日記がきっかけで、騎士誌を読んでくださるのは有りがたい。嬉しい限りです。さて、食事が終わって、改めて、騎士誌の戦後史を思い出した。私が入会と同時に出た「戦後の再刊号」だから、よく覚えている。表紙を書いたのは、ペトロ石橋孟修道士さんだった。戦争が終わった翌年の、昭和21年、1946年の12月には、早々と雑誌が発行された。これは異例な出来事だった。長崎は原爆で廃墟になっている。印刷の紙は不足し、アメリカ軍の検閲が厳しかった。アメリカ軍も修道院発行の雑誌には目が届かないらしく、永井隆先生の「原子野録音」や、石橋修道士の原爆記「廃墟の鐘」を堂々として載せている。これはアメリカ軍にとっては、原爆を公けにしない方針から、掲載は許されない記事だった。永井先生は毎月、原稿を寄せてくださり、昭和25年の帰天されるまで続いた。マリアさまのお恵み一杯の騎士誌は、コルベ神父創刊から、通巻895号続いている。2012年7月3日火曜日
神戸の尼さん。やあ、お元気で。パワーをください。ハイ
ふくらっとした、お顔。そり落とした、アタマ。清楚な、衣服。「神戸の尼さん」で、通っている。もう、この尼さんと知り合って、10何年なるか。年に、2回は必ず、聖母の騎士へ来る。尼さんの服を着ての参加だから、目を引く。5月のルルド祭と、10月のロザリオ祭に参加して、もう10年。加えて、年に数回は、必ず、立派なお花を「対(つい)」で贈ってくる。聖コルベの祭壇に飾るのです。時折、こうして姿を見せる。ルルドで祈り、小聖堂で祈り、祈り三昧。祈りは「私が話すのでなく、ただ沈黙のうちに、ぬかずくだけです」と、おっしゃる。優しい尼さんですよ。自ら病気を病んでいると言われるが、病気には負けないね。パワーが伝わってくる。12年前、ローマ、アシジ、ルルドの巡礼の旅に参加した。ルルド祭に参加すると、「アヴぇ・マリア」の祈りも、ロザリオも唱える。信心熱心な尼さんです。寄り添う私も、「負けちゃ、おられん」。何事も、信じることが、大切なんです。尼さんは言われる。「巡礼の重要さは、どんな小さな巡礼でも、普段、教会に行くより、持ち物も、祈りも、すべてにおいて何かを用意して行くということです。一つでも多く愛のある行為をとか、一連でも多くロザリオを捧げるとか、この一つでも多く、何かを捧げることに、喜びを感じます」。今日は、聖トマ使途の祝日です。ミサで祈りました。「見ずして、信じる者は、幸いなり」