2014年8月25日月曜日

入院から10日目

たくさんの励ましのコメント有難うございます。入院してから10日が経ちました。眠り薬で3日ほど寝ていたようです。今はお腹が少しふくれていて、咳をすると黄色や茶色の痰が出てきます。1日もはやく元気で修道院に戻れますよう皆さまお祈り下さい。

2014年8月20日水曜日

入院から5日目

鼻水と気管の痛みで16日(土)に入院しました。入院してから5日ですが、はげしい咳のために血がでています。今のところ原因が分からないと医者から言われました。みなさまお祈りください。

2014年8月16日土曜日

入院

午前中に入院しました。お祈りください。

2014年8月14日木曜日

カゼ、発熱す。③。聖コルベ祭日、殉教日にダウン。

★夜中から、朝にかけて、自室で、もんもんとする。熱が上がり始める。セキが激しく出る。右の胸が、セキの度に痛む。★聖コルベの祭日。大きなお祝いなのに、哀れなザマだよ。ミサの後で、近辺で宣教・働く修道会員が、20数名あつまって、昼食の会食をした。一緒に食べたが、早めに失礼して、自室で休んだ。★午後3時頃、主治医のヨゼフ・クリニックの高木先生から電話があった。心配された声。「熱は、どうですか」「少し、上がりました。7度5分です」。高木先生、「今から往診に来ます、聖コルベ館に居てください」。雨がさかんに降り出す。待つこと1時間、先生の車が上がってきた。「道が渋滞してね」。聖コルベ館の応接間で、高木先生の診察。「盆休みのところ、申し訳ありません」。お礼を言う。胸を聴診器で調べる。肺炎か?少し、ナントカと言った・・・・。クスリをくれる。「明日、熱が下がらないなら、電話をください」。帰りに「トマは大切な柱だからな」。そんな意味のことを言われた。「イヤ、イヤ、もう落ち込んでいますよ」。お盆の休みのときに、誰が、わざわざ来てくれるか。ありがたい。先生を見送った。オレは、こんな親切なお医者さんに恵まれているな、幸いだよな。★クスリを飲んで、休もう。★夕の祈りは欠席した。

2014年8月13日水曜日

2014年8月12日火曜日

カゼひき。①休みます。

★予約の泌尿器科へ。かぜ気味。町の内科医院へ。熱は、6度6分。注射、点滴。治療する。安静にしています。

2014年8月11日月曜日

ルーマニア神学生。夏休みで来る。若さは、いいね。

★2年ほど前から、時々、日記にも書いた、背丈が小崎修道士と一緒ぐらいで、小さな神父、一緒に写真も撮った、ルーマニア人のペトロ・イシトク神父さん。東京で日本語を勉強している。その神父さんが、今年、5月からルーマニアへ帰国していたが、7月、また日本へ帰ってきた。そのとき、若者の神学生を、2人、連れて来た。その2人が写真の神学生です。★ヨーロッパのルーマニア国から、2人の神学生が、東京の関町志願院へ入学した。まず、日本語の勉強を始めます。日本語を話せるようになって、日本の大学で司祭になる勉強を始めて、司祭になるでしょう。若い修道会員が増えるのは、張り合いがあります。★2人は、8月になって、長崎へ来ました。いま院で、一緒に生活をしている。長崎へ来て、2人は、雲仙の殉教地、島原の教会など巡礼をした。長崎・原爆の日の夜の行事、祈りの灯の行列と、浦上天主堂のミサで祈りました。日曜日は、朝から、五島へ魚釣りに出かる。長崎の地らしい経験をつんでおります。言葉が通じない。ルーマニア語、イタリア語、英語、これなら大丈夫です。「ニホンのこと、いつ頃から知ったのですか?」と聞きたかったが、通じなかった。ザンネン。

2014年8月10日日曜日

原爆死・母の命日に必ず届けられるお花。ありがとう。

★長崎・原爆の日、母の命日に、必ず届く「お花」がある。今年も、ごらんのように届いた。もう15年は、つづいている。こんなに、心をこめて、送りつづける人が居るのは、ありがたい。嬉しい限りです。★話は今から、20年近くにさかのぼる。北九州の小6の修学旅行が、長崎へ来て、原爆資料館で平和学習をおこない、被爆者の話を聞いた。そのときの語り部が私だった。その中の1人、女の子、衣里(えり)さん。感動して、話を忘れなかった。中学生になったとき、平和のため、千羽ツルを折ることを決心した。毎月、100羽づつ折って、私に送ってきた。私はその100羽のツルを原爆老人ホームの1人のお年寄りの部屋に飾ってもらった。慰めた。また、100羽送ってくる。同じホームの別の老人の部屋に飾って、慰めた。このようにして、1.000羽、10人の老人の部屋に飾って、慰めることができた。その頃から、私には、衣里さんと、衣里さんのお母さん、直美さんの2人の名前で、母ワサの命日には、お花が届けられるようになった。中学生は、高校を卒業して、就職して、結婚して、2児の母になった。それでも、毎年、母ワサへのお花は贈ってくる。★今年も届いた。お母さんの直美さんへ電話をして、お礼を申した。2児の子供さんたちは、幼稚園に通っている、元気にしている、とのことだった。「いつも、お花を贈ってくださって、ありがとう。故人の母も喜んでいます」。この写真を撮って、衣里さん、直美さんへ手紙とともに送った。このように長年、お花を贈りつづける美談はめずらしい。本当に、その温かいお心を喜んでいる。

2014年8月9日土曜日

長崎・原爆の日。69年前。母ワサ爆死。45歳。無念。

★毎年、めぐり来る長崎・原爆の日。今年は、もう69年を重ねる。あの朝、忘れない。母と一緒に、起きて、朝めしを食べて、出かける挨拶。「行って、来るケンな」。母は寂しそうに答えず。家の外に出て、もう1度、「行って、来るよ」。だが、返す言葉は聞き取れず。ただ、目と、目があって、母が、ニコッと笑ってくれた、それが母を見た最後となった。★母ちゃん、苦労をかけたな。父が病死して、10年。1人っ子。ボクを育ててくれた。女手1つで、細腕で、女は、母は強かった。母の思い出。着物を着ていた姿だね。自分でも、着物を縫っていた。食料不足の戦争中、あち、こちから、コメ、ヤサイを調達して、不自由なく食べさせてくれた。★戦争だよ。原爆だよ。それらが無かったなら、母は死なずによかったのに、犠牲になったわけだ。戦争を恨むよ。原爆、2度と落ちるな。核兵器廃絶、叫びたいよ。★今朝は、ミサで、原爆で亡くなった人びとのため、母クララ・ワサのため、祈った。浦上天主堂の、被爆マリア小聖堂の壁に、原爆死をした信徒の名前が刻まれているが、母の名もある。45歳。若くして召された母の人生、惜しまれてならない。「母ちゃん、歳をとらず、いつまでも、若いなあ」

2014年8月8日金曜日

岡山うどん屋のパウロ。志願者。長崎へ来る。元気か。

★あわただしい大晦日だった。3年前の、2011年の12月31日。閉館前に、ドカ、ドカッ、と、若者6人が入ってきた。「もう、おしまいだよ」。その中に、岡山のうどん屋パウロ青年が居たわけです。詳しくは覚えていない。★次の年、2012年の5月の連休、パウロは、もう1人の若者と共にやってきた。「小崎サンの話を聞いて、聖母の騎士の修道者になりたい」と来た。「17歳の夏の本を本屋で求めて読みました」。嬉しいじゃないですか。「修道服を着て、バッターを打って、スポーツしている写真を見た。教会の神父さんに、これが、いい。心、引かれる、と言ったら、聖母の騎士、フランシスコへ行きなさい。それで憧れてきた」。がんばれ、と励ました。★次の年、2013年の5月の連休に、「もう、いよいよ入ります。清算して、やって来ました」と聖コルベ館に現れた。「イヤ、まて、まて」。本人はその気になっている。高校の奨学金を全額払うために、古本屋や、うどん屋で働いた。全額、払い終わった。「さあ、もう大丈夫です」「あわてるな」。管区本部へ連絡し、その夜は修道院へ泊めて、一応、帰した。★2013年9月、管区本部から、入会の許可が出た。志願院へ入った。うどん屋は、神学生志願者になったわけです。それから、猛勉強が始まった。特に英語にチカラを入れた。★2014年4月、ついに上智大学神学部に入学しました。おめでとう。がんばったね。未来は開けているぞ。勉強は順調に行っている。後は、忍耐、祈り、マジメさ、希望で、前へすすめ。★夏の休み、奉仕を願って、今日、聖母の騎士へあらわれた。「おお、ひさしぶりだな。岡山のパウロ君、登明の日記で、君のファンもいるぞ。写真を撮ろう。載せるからな。「いいカオ、しているじゃないか。ハ、ハ、ハ、ハ」

2014年8月7日木曜日

聖コルベの祭日に向けて。9日間の勤めと願い。

★コルベ神父さまへの手紙。日本での宣教、6年間、困難に満ちた生活でしたね。食は細く、病気・肺結核でもあったし、仕事は山積していました。しかし今、考えると、長崎での生活は、強制収容所への道の、前哨戦だったと思います。8月に入って、今は、アウシュヴィッツの餓死の地下室で、苦難が強いられている時です。食べない、飲まない、17日間、辛かったでしょう。狭い牢獄のなかで、苦難も、愛も、けがれなき聖母マリアさまに、すべてを捧げられました。「あなたが必要なら、イノチをも差し上げましょう」。信念に満ちた勇気。あのとき、マリアさまの、ささやきがあったと思います。★いま、毎朝、ミサの後で、聖コルベの小聖堂で、コルベ神父さまへの9日間のお勤めを果たしています。今朝は、次のように祈りました。「あなたの取次ぎによって、わたしたちが、けがれなき聖母マリアのみ手の道具となり、すべての人びとを信仰の喜びへと導くことができますように」。言葉を肝に銘じました。わたしたちにも、あなたの愛のチカラと勇気を、与えてください。★それから、もう1つ、お願いがあります。原爆にあって、この道を選び、聖母の騎士へ入りました。この場所、コルベ神父さまが創立した、ここです。執着しております。だから、最初に入った所、ここで死なせてください。「老人ホームへ行きなさい」という勧めもあります。でも、ここが、いいから、迷いがあって、決心がつきません。なんとか、ここで生涯を終わることができないでしょうか。そのため、このお願いのお手紙を書きました。聖コルベ館で、コルベ神父さまの宣伝もしていますので、聞いてください。けがれなき聖母マリアさまへ取り次いでください。希望の実現を期待しております。信頼しております。

2014年8月6日水曜日

広島・原爆の日。死者と平和を祈る。あの頃。

★15歳の頃の顔です。その頃、1年半ほど、大学病院へ入院して、背骨・肋骨・腰骨のカリエスの治療をしていた。だいたい良くなって、そのままの流れで、大学病院の耳鼻科の医局に通って、お医者さんたちの研究の手助けをしていた。そのときの顔です。手助けに、ほかに1人の男性と、2人の女性、写真技師がいた。この頃、聖母の騎士のポーランド修道者たちを知って、時々通っていた。「ボクも、修道者たちの仲間に入りたい」。そう願って、お医者さんの1人に打ち明けると、「なんだ、いま戦争だ。兵隊さんは皆、戦っている。お前は、そんな所へ入って、日本人として、いいのか」と言って、ボクのビンタをパシッ、パシッと、たたいた。当然、泣くわね。15歳だよ。悔しくて、泣いた。すると忘れもしない、長谷川教授の先生が来られて、ボクを教授室へ連れて行って、慰めてくれた。★2年後、原爆がおちて、手助けの3人と、写真技師は、爆死した。ボクは、もう、その場を退職して、爆弾をつくる工場で働いていた。助かった。ボクを叩いたお医者さんは戦地へ行って、戦後、戻ってきた。戦後、出会ったとき、聖母の騎士に入ったと知って、「良かったね」と言ってくれた。慰めた教授の先生は、教授室は壊滅したが、原爆落下の1分前に、廊下をへだてたトイレに入っていて、イノチは助かった。戦後、カトリックの洗礼を受けられた。戦後も出会って、聖母の騎士に居ることを喜んでくれた。パパさまが長崎へ、聖母の騎士へ来られたとき、教授の先生もご招待して、一緒に歓迎することが出来た。★8時15分、広島にむかって、祈りをささげた。死者のため、平和のため祈った。戦争なのに、平和な顔をしていたよ。

2014年8月5日火曜日

枯葉か、雑草か。1人が、いいか、さみしいか。

★天草へ行ったとき、ホテルで、朝食の食事処に書いてあった。墨字で、さらさらと、「やっぱり、1人は、さみしい、枯葉。やっぱり、1人が、よろしい、雑草」と、読めた。語呂が、いいし、考えますよね。さみしい、なぜ枯葉なのか。よろしい、なぜ雑草なのか。いい考えが浮かばない。だから、いいのかも、ね。1人旅は、さびしい。1人がよろしい時もある。ざわざわ、していると、1人になりたいね。それが雑草か。枯葉は寂しいよ。★台風の影響か、どしゃ降りの雨が激しい。午前中、あめ降りしきる中、歯医者さんへ行った。「おや知らずが、残っていますね」と言われた。「何本、あるんですか。上、下にあるんですか」「4本、あります。このお年で、親知らずがあるのは、めずらしいですよ」と言われて、ホクホク。「歯は、上、下で、32本あるんですよね」「そうです。残っていますよ」「ああ、歯を大切にしておいて、よかったな」

2014年8月4日月曜日

ふと思った。故人の先生。遺志を引き継いでいる。

★ミサのとき、今日の聖人、聖ヴィアンネー司祭を祝いました。18世紀のフランスの小さな村、アルスの主任司祭です。ジャガイモ数個で生活し、信者たちを内的に指導して、大きな成果を与えました。なぜか、ヴィアンネーと聞くと、昔、お世話になった田川初治先生を思い出すのです。★人の一生って、いろんな人から影響をうけて育つんですね。田川先生も忘れない恩人です。田川先生は、山里小学校の教師だった。原爆にあい、家族を失った。浦上信徒の中心人物だった。親友に、永井隆先生が居た。田川先生は、童話を語る人、作家、映画・日本26聖人の弁士でもあった。★先生から注目されて、童話を習い、カツ弁を教えられた。伝わるんですね。口調も、心情も、ふしぎなもんです。なぜ、ヴィアンネーかって?田川先生の洗礼名が、それだった。あるいは、原爆死した息子の洗礼名が、それだったのか。よく覚えないが、つながりが、あった。思い出す、ヴアンネー。それで覚えているんです。★田川先生は、騎士誌に毎号、親しみやすい実話の記事を書いた。それらの思いを、引き継いでいるのかも、知れない。親友の永井隆先生(原爆・医師)が亡くなられたとき、騎士誌に記事を書いた。田川初治先生は、大阪で、亡くなられた。きょう1日、田川先生を思いながら、過ごします。祈ります。

2014年8月3日日曜日

みごとな桃を手にして、いのる。カンシャのお礼です。

★リッパな、桃が届きました。普通の桃じゃないのです。広島の桃です。6月24日、広島へ出かけたとき、岩本八智子さんのお宅にお世話になった。日記にも書きました。長男さんが、広島空港の近くに、一山、桃の山を持って、栽培しておられる。以前からある農園を引き継いで、ここ数年、長男さんが作っている。見事な桃が実りました。八智子さんが送ってくれた。「食べて、ゲンキを出してください」。食べごろの桃でした。★日曜日。教会で、ミサを祈った。「なぜ、祈る?」。心に問いかける。「なぜ、オレは祈るのだろう」。個人で色々理由はあるでしょう。祈るのは、なぜ?イノチを与えられている。カンシャです。イノチは神さまのことです、と思っている。生かされているでしょう、今日まで。長い年月、イノチを与えられた。お恵みですよ。お恵みならば、お礼の祈りをささげる。★毎朝、5時に起きます。聖堂へ行って、声をあげて祈ると、身が引き締まってくる。「祈れる自分」。ありがたいと思う。声をあげて祈ると、健康にも、精神にも、いいのです。★ああ、そうだ、まだ桃のお礼を言っていなかった。電話をかけよう。お礼を、言おう。これも1つの祈りです。

2014年8月2日土曜日

気持ちが、重い。入浴でゲンキ。心配に、カンシャ。

調子が、出ない。休もう。★昨夜は、夜中に度々起きて、シンから寝られなかった。平常通り、5時に起きる。アタマが「ボーッ」として、ふらふら。今にも倒れそうになる。「このまま、バタン、キュウーって、なるのでないか。不安も襲ってくる。聖堂で、ミサを祈った。聖務も祈った。カゼ気味か、クシャミも出る。聖堂のクーラーの風が身にこたえる。自室で、熱を測った。「6度5分」。熱なし。血圧を測った。「120、61」。これも正常。よろしい。午前中、少し休んで、眠った。午後は介護のお兄さんがくる。迷ったよ。入浴、すべきか、パスすべきか。昼食後、自室で、休んだ。「こん、にちーわ」とゲンキな声で、介護のヘルパーさんがやってきた。「よし、風呂に入るぞ」。思い切って、湯に収まった。「カラダ、洗えば、サッパリ、なりますよ」。やっぱり、そうだった。気分は爽快になり、心も身も、軽くなった。こうして人生、進むんですね。ありがたいと感謝する。★「調子が出ない、休もう」と最初に書いたら、4人のコメントがあった。「ゆっくり静養を」「養生なさって」「お祈りしている」「休んでください」。心配をかけています。見守ってくれて、ありがとう。

2014年8月1日金曜日

8月。熱い夏。被爆の月。どんな家庭を望むか。

「少し、やせた、ね」と言われる。「ビクッ・・」と、しますよ。体調が良くないのか、なあ。ひざ・関節の治療に出かける。両ひざ、電気をあてて、保温をして、注射をしてもらう。筋トレも頑張ろう。歩行の大切さを知るようになる。★熱い夏の8月が始まった。終戦、69年。原爆、69年。母が被爆死して、69年。これだけ並べれば、熱い夏の意味がわかるでしょう。わが人生の原点になった夏です。マンガ「焼けたロザリオ」。この本にまつわる夏です。★「今度、生まれ変わったら、どんな家庭に生まれたいか」。夜中に、ふと、目がさめたとき、考えた。寂しい家庭だったからね。1人っ子。父は、7歳のとき病死。母は、17歳のとき原爆死。孤児になって、寂しい人生だった。にぎやかで、兄弟姉妹が多くて、じゃれあって、ケンカしながら、愛を感じて育っていく、そんな家庭に生まれたかった、よ。修道士の道を進んだから、自分で家庭を作ることもなかったし、ね。悔いは、ないよ。しかし、賑やかさのは、あこがれる。