長崎のカトリック修道士。17歳の時、原爆を受けて、この道に入る。 生かされて来た数々の恵みの中で、今年の1月、最大の試練「すい臓がん」を告知された。 「みむねの・ままに」。孤独と苦痛に耐え得るチカラを日々、祈る。 毎日、日記を書き続けて13年。今、長崎市の病院・ホスピス病棟で暮らす。 追記 2021年4月15日 午後6時48分 帰天されました。享年93歳
2014年8月10日日曜日
原爆死・母の命日に必ず届けられるお花。ありがとう。
★長崎・原爆の日、母の命日に、必ず届く「お花」がある。今年も、ごらんのように届いた。もう15年は、つづいている。こんなに、心をこめて、送りつづける人が居るのは、ありがたい。嬉しい限りです。★話は今から、20年近くにさかのぼる。北九州の小6の修学旅行が、長崎へ来て、原爆資料館で平和学習をおこない、被爆者の話を聞いた。そのときの語り部が私だった。その中の1人、女の子、衣里(えり)さん。感動して、話を忘れなかった。中学生になったとき、平和のため、千羽ツルを折ることを決心した。毎月、100羽づつ折って、私に送ってきた。私はその100羽のツルを原爆老人ホームの1人のお年寄りの部屋に飾ってもらった。慰めた。また、100羽送ってくる。同じホームの別の老人の部屋に飾って、慰めた。このようにして、1.000羽、10人の老人の部屋に飾って、慰めることができた。その頃から、私には、衣里さんと、衣里さんのお母さん、直美さんの2人の名前で、母ワサの命日には、お花が届けられるようになった。中学生は、高校を卒業して、就職して、結婚して、2児の母になった。それでも、毎年、母ワサへのお花は贈ってくる。★今年も届いた。お母さんの直美さんへ電話をして、お礼を申した。2児の子供さんたちは、幼稚園に通っている、元気にしている、とのことだった。「いつも、お花を贈ってくださって、ありがとう。故人の母も喜んでいます」。この写真を撮って、衣里さん、直美さんへ手紙とともに送った。このように長年、お花を贈りつづける美談はめずらしい。本当に、その温かいお心を喜んでいる。
素晴らしい方々ですね。
返信削除私も昨日は黙祷を捧げました。原爆によって突然お母様の命を奪われたトマさんのお気持ちは察するに余りあります。世界の人々が「愛と赦し」の精神を持って平和を築く事ができますように願っております