終戦、間もなくの話です。トマが小神学生(高校生)の頃、親友に「山頭栄」という中学生がいた。
平戸の出身で、動作は、やや鈍いが、素直で、清い心を持っていた。学習で、分からない所があると、トマの机に来る。いつしか、仲良しになって、2人で、運動場の土手に並んで寝ころび、夢を語った。「スズメ」の本を読んだこともある。
栄くんが、雲仙に旅行に行ったとき、先輩のトマにあげるのだと、撮ったのが、左の、この写真です。左側が、山頭栄くん。(写真の裏に、昭和23年とある)
トマは、代わりに、運動会の賞品でもらった、しゃれた、アメリカ製の「ハーモニカ」をあげた。彼との友情は、その後もつづいた。
★この写真の裏には、昭和33年、とある。上の写真から10年が経過している。山頭栄さんは、優しい心を持ちながら、スポーツ・マンでもあった。彼には、兄さんがいた。兄は、イタリアに留学して神父となる。栄さんも、イタリアに留学する。憧れの神父になった。トマと、栄神父の友情は更に深まった。
栄神父は、ブラジル宣教を命じられて、ブラジルへ渡る。以来、30年間、最後までブラジルで活躍し、人気があった。
4年ごとに、帰国の休暇がある。日本に帰ると、トマに会いに来た。友情は変わらない。ある年は、2人で長崎市のロープウエイで、稲佐山に登り、市内を展望した思い出もある。
ある年の休暇で、診療検査を受けると、腹部のガンに罹っているのが分かった。日本の病院に入院した。ガンの進行は早く、スポーツマン神父も、チカラ尽きた。
病院のベッドで、兄・神父と、一緒にミサを挙げ、逝った。
★親友なる「ステファノ・山頭栄・神父」。今日が、命日だった。享年、58。若くして、神に召された。亡くなって28年になる。
★死者は、消えこのたのではない。トマが生きる間は、栄神父は、生き続ける。
★小神学生の頃、栄は、トマのこと、「兄さん」と呼んだ。昭和24年10月4日の日記。「アシジの聖フランシスコの祭日に、栄は、私に、手紙を書いた。この間は、為になる長い手紙、心から感謝します。私と、兄さんは、水とメダカのようなものです。水が無くなると生きて行けない。兄さんのために祈ります。今からも、天国へ行ってからも祈ります」
★むかしの、古い日記を探して読んで、薄れたインクの跡に、「ああ、あの少年の頃は、純粋だったのだな、ああいう夢多き時代もあった」と、今日は、懐かしい日となった。
★栄神父のお兄さんの神父さんから、『こころの時代・弱さを希望に』を見ました、とハガキを頂いた。
今も山頭栄神父様が天国でトマさんの為にお祈り下さってるのですね。
返信削除お優しい山頭栄神父様の為にお祈りさせて頂きます。
追伸
返信削除ステファノの修道名は山頭栄神父様のお人柄に相応しいです。祈りのうちに
修道的共同生活の豊かさと深さに、
返信削除胸がいっぱいになります。
まず、山頭兄弟を送り出してくださったご両親、
ご家族、平戸の皆様に、感謝いたします。
どれだけの犠牲と祈りを捧げて、
務めてくださったか。心に鋼の熊手を
あてられる思いです。
イタリア留学の後、ブラジルでたくさんの魂を
救われ、若くして殉教されたステファノ・
山頭 栄 神父さんの余りに美しいなさりようは、
今も世界中の繋がりの先々に活きていると
信じます。
青少年時代のトマさんと栄さんを豊かに育んだ
修道的共同生活に類似するような深い繋がりは、
横須賀の旧.陸上自衛隊 少年工科学校や
以前の防衛大学校にも感じられたものの
ように思います。が、最近は時代的変遷に
よってか、人格形成に関わる育成の質が、
少し違ってきているように見えております。
どこか生ぬるくなっているというのでしょうか。
社会を生きながら、普遍的であることの難しさを
見る思いです。
山頭 栄 少年が「(ガブリエル)兄さん」へ
渡したいと願って撮った写真には、愛が
あふれ、しみ出して、輝いていますね。
栄 少年の夏服の白さが、まるで天使の羽の
ようです。雲仙のけむか霞かが、後光のようでも
あります。
最近は、スマートフォンなどで手軽にデジタルな
撮影が可能で、簡便な分かち合いが意味を持つ
ことも多いと理解はしておりますが、比して、
人を思って撮るスチール写真の温かな意味深さを
改めて知らされます。
ステファノ・栄 神父さんのお兄さんは、
もしかすると ミカエル・山頭原太郎神父さん
でしょうか(違いましたらごめんなさい)。
活力あふれ、肉体という形をもったイノチを
輝かせておられるご様子には、トマさんと同じ
光を感じ取ります。
トマさんの日記からお陰様で、ステファノ・
山頭 栄 神父さんのイノチと愛、ガブリエル少年と
栄少年の神学校時代の親愛あふれる繋がりを
間近に感じ取ることができ、打たれました。
今日からまた、祈りで繋がる強さを
信じることができます。ジンクーエン。