2020年10月1日木曜日

昨日の診察は?大曾昭神父の命日。2年目。幼いイエスの聖テレジアの日

昨日の診察。待つ間、トマは考える。いま、必要なのは、何か?「辛抱」と「気力」は勿論。そして「信頼」だね。神さまへの信頼だよ。自分に起こることは、神さまの「愛」につながっている。「摂理」だと信じる。起こることは、神の愛だと「信頼」して受け入れる。それが、なければ、いまのトマは、生きては、行けないよ。そう思いながら、名前を呼ばれるのを待った。検査の結果は、「まあ、大丈夫。腎ゾーに変わりはない」。ステント入れ替えの月日が決まった。

★大曾昭神父さんの命日。逝って、まる2年になる。彼は「神父」であり、「校長」だったから、シャンとしていたね。誇りがあった。女性の介護職員さんから「可愛」がられた。大曾神父さんも、これに応えるように、食事は、ゆっくりと、いつも完食していた。今朝、朝食のとき、トマが話題に出した。瀧神父さんが、総合病院で診察後に、大曾神父さんを見舞った。一緒に「アヴェ・マリア」を祈る。その3時間後、死去。91歳。

★昼食のときは、今日の聖人、幼いイエスの聖テレジアの話を出した。「テレジア」の洗礼名を持った女性は多いだろう。聖テレジアと、コルベ神父は関係がある。写真は、聖コルベ館の旧・展示だが、左側に「聖テレジア」の額を掲げていた。聖テレジアは「宣教師の保護者」と言われる。コルベ神父が長崎に宣教に来た頃は、テレジアは、まだ日本にそれほど知られていなかった。それでコルベ神父はテレジアにある約束を交わした。
★私が、聖母の騎士誌で、あなたの宣伝をするので、あなたは、天国から「バラの雨」を降らせてください。最初の騎士誌には、テレジアの記事を載せた。幼いイエスのテレジアが、自叙伝と共に、著名となる。聖人にも挙げられた。約束通り、天国からは「バラの雨」も降った。特に、インドに宣教に行った際、コルベ神父の足元に、バラの花びらが落ちた。「コルベ神父は、宣教師として、成功した」
★老いた修道士のアタマには、いろんな記憶が詰まっている。時代が変わって、その記憶が遮断(しゃだん)されていくのが、さびしい。

1 件のコメント:

  1. がぶらってぃ2020年10月1日 18:11

    昨日の受診は改めてお疲れ様でした。
    病院の待ち時間というのは、何とも気が
    重くなるものですね。

    どのような通達があっても、
    “神からの良い知らせ”と受け取る強さが、
    おっしゃる「神への信頼」に
    重なるのでしょうか。

    大曾校長・神父さんの命日に、お祈りいたします。
    瀧神父さんと天使祝詞を祈られて、3時間後に
    帰天されるとは、表現不適切かもしれませんが、
    見事です。
    ここにも神への信頼を見せてもらった思いです。

    写真から、トマさんが書かれているとおりの
    悠然とした老齢期を過ごされているのが
    伝わります。ミカエル神父さんの愛らしさに
    続いて、ここにも「うるわしい」姿を
    確かめました。

    内面は素直に形として表れますね。

    また、聖テレジアとコルベ神父との繋がりを
    教えてくださってありがとうございます。

    最近の教会は、どうしてかボランティア的な
    活動にばかり目が向いていて、伝統的な教えや
    繋がりをなかなか伝えてもらえません。
    困った人を直接的に助けるボランティア活動は、
    わかりやすいからかもしれませんね
    (活動を批判しているのではありません)。

    繰り返しになりますが、トマ修道士さんの記憶は、
    日本のカトリックの宝です。折しも教皇さまは
    「神への従順は返事ではなく、実際の行動にある」と
    説かれたと聞きます。
    こうしてトマさんが発信くださることで、大事な
    記憶は実際にあった行いとして皆に伝わって
    留まり、繋がって行くと信じます。

    でなければ、
    カトリック性の維持は二の次三の次になって、
    日本のカトリック教会は、ぼんやりした
    キリスト教というくくりの中に、ふわふわ
    浮いたようなものになってしまうように思います。

    避けねばなりません。

    トマさんはまだまだ筆を置けませんね。
    どうか受けてください。

    トマさんの言葉をしっかり理解し、糧になるよう
    受け止める意味を改めて深めたがぶらってぃは、
    また一つ照らされた思いです。
    力いっぱいジンクーエン!










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