2020年11月27日金曜日

痛む所を、さすって、あげよう。求めるヒトミに、優しい眼差しを注ぐ

聖コルベ館に居た時は、終日、修道服を着ていた。フランシスコ会の服を見れば、「ああ、修道士さんね」と直ぐ分かる。両手を広げて、「いらっしゃい」と言えば、皆さんは受け入れ喜ぶ。人間じゃ、ない。修道服が、一目瞭然、分からせてくれる。
ホームに入って、修道服は、ミサの時だけしか、着ない。普段の生活は、俗服のまま。修道士って、分からないし、自分でも、忘れがちになる。「それを忘れちゃ、おしまいよ」
★ホームに入る前は、「人のために尽くそう」気持ちがあった。ホームに入って、人のために尽くすどころか、人の世話になっている。この心も忘れがちになる。「残念やが、現実だ」
★ステント入れ替えの日にちが近づいた。3日間の入院とはいえ、3つの荷物を準備する。1つは、日用品。2つめは、モーフや着替え。3つめが無呼吸の器具と精製水。自室は、一人住まいだから、もちろん自分で準備する。担当の介護職員さんも加勢はするが、「イチマツの、寂しさは、感じるね」
★それで思ったんだが、「愛の第一歩、それは『寄り添う』こと」。今朝、この言葉が、ググっと、きた。しみじみ思いましたよ。「愛しなさい」「愛は必要」と、よく言うじゃないですか。その第一歩は、寄り添うこと。これが基本だね、と。
★ホームで、1人の司祭が、重篤になった。どこから来たのか知らないけれど、県外から、遠方から、1人のシスターが来て、その司祭の傍に『寄り添い』、温かい愛を示した。感心な人やと思った。いつまでも居れないので、帰られたが、司祭は逝かれた。シスターは葬儀に祈った。なぜか、あのシスターの甲斐甲斐しい面影が残っている。ほほ笑みの清らかなシスターだった。
★寄り添うこと。それが愛の始まり。ステント入れ替えを前にして、思います。「ああ、わたしも、元気な頃に、もっと、寄り添う人間であったら、よかったな」。だが、これも難しい。必要なのに、難しい。なにか自分も、寄り添えることは、ないのかな。「受ける恵み、与える愛」。痛む所を、さすって、あげよう。求めるヒトミに、やさしい眼差しを、返してあげよう。そのような心を保ちたいものです。
★「助け手に、なろう。押し付けるのは、やめよう。その人の個性を尊重する」 

2 件のコメント:

  1. トマさん、こんにちは。
    かつて聖コルベ館を訪ね、トマさんに案内していただいた者です。
    日々ブログを楽しみにしております。

    私も寄り添うことができる人になりたいと思います。
    いつも気付きをありがとうございます。

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  2. いいえ、トマさんはいつも人に寄り添う方でした。直球を投げられる訳ではないのに、いつもお優しい視線を感じ、やがて劇的な回心を経て私は教会に戻ることができたのです。これは全てトマさんのお蔭だと思っています。

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