20年程前、カトリック雑誌に、各年代の司祭のコメント集が載っていた。その中に、1つの言葉、80代の日本人司祭のコメントを切り抜いて、今も自分の手元に置いている。それは次の言葉です。
★「人間とは、自分で考えて、自分で決めて、この世に生まれたのではない。気がついたら、自分がこの世にいた。人間とは、そういうものです。神が私たちに存在を与えられた。すべての営みは、そこから始まる。司祭に出会い、要理を学んだ。学校の教えは時代と共に変わりますが、教会の教えは変わらない。永遠のものに惹かれて、今日まで来たわけです」
★私も、80代を過ぎ、90になって、この司祭のコメントに全く共感できるわけです。そりゃ、神さまの道に進んだとはいえ、いろいろ、ありましたよ。迷いも、倒れたことも、ありましたよ。しかし今は「いのちの源である神を認める」「神の限りない愛と、御子イエスを認める」「孤独じゃない。イエスが共に居てくださる」「人は神から出て、神に帰ることを認める」「いのちは永遠であることを希望します」。生物的や物理的を越えて、今、在るのは、それだけです。
★先程のコメントと共に、私が大事に保存している1枚のハガキがある。聖コルベ館に時々来ていた女性で、国立大学を卒業し、更に国立大学院で学び、臨床心理士の資格を持ち、公の役所で活躍していた。また教会の青年会でも、中心となって行動していた。その有能な、前途明るい女性が突然、最も厳しい観想修道女会に入会するという。神に、徹底した愛と出会いの道に進むという。その信仰の清さ、真っ直ぐさに、熱いエールを送った。女性には、何処からか招かれる声が聞こえる。
★何年も経って、「あの女性はまだ勤めているだろうか」。半信半疑の思いもあったが、近くを通るチャンスがあったので、山の中の、緑に囲まれた静寂な修道院を訪ねた。受付のシスターに「修道士です」と告げると、「ああ、以前に、26聖人の映画に来てくださった方ね」「院長さまに許可をお願いして下さい」。だが思った通り、面会は出来なかった。受付のシスターが慰めるように言った。「昨年の11月1日が、その方の終生誓願でした。お祝いのとき、記念のカードを作ります。その方は、聖母の騎士のルルドの聖母を印刷お願いしたいと、騎士社に頼みました」。終生誓願と聞いて、安心した。名詞の裏に「祈っています。神さまへの愛を生涯、貫いてください」と書いて渡した。
★「昨日、院長を通じて、メッセージを賜りました」と、ハガキが届いた。神の恵みの中で生活されている事が記されていた。
★「入会して七年以上が経ちましたが、長崎で信仰を、また様々な恵みを主より頂きました事、一日たりとも忘れた日はございません。本河内のルルドのマリア様からも、たくさんの恵みを取り次いで頂きましたので、修道名に感謝の意味を込めて『ルルドの聖母』をつけさせていただきました」。消印を拡大して見ると、6年前の絵ハガキになる。裏の絵は、何か、名前も知らない草花の絵が描かれていた。
★あのコメントの司祭は健在だろうか。観想シスターも健在だろうか。そんな事を考えた日でした。「苦しみは、のち、愛の喜びに、変わる」。私の好きな言葉です。存在の意味を示すものでもあり、追い求める希望でもある。
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