長崎の聖母の騎士修道院に居た頃、食堂で、こんな会話をした。普通は10人程が居るのに、その時は、4人だった。周りが寂しくなるのを感じていた。「昔の、この食卓にも、人数は何十人もいて、ポーランド人も居て、食事の前後は、ラテン語の祈りを唱えて、賑やかだったなァ。あの頃が懐かしい」「なぜ現代人は、宗教に、あまり心を開かないのかね」
★すると80代の、耳が遠い、普通は余り語らない老修道士が皆を制するように言った。「世の中に、隠された宝が、ごっそり、ある。大きな包みものが、どこかに、ある。どこに、あるか、分からないが、その考えで、離れ切れない。思いきって、踏み切れない」。確かにと、みんなは含蓄(がんちく)のある言葉だと聞いていた。
★その時、思うのが、やはり模範は、この食卓の場を創立者した聖コルベのことで、神への真実の愛のうちに、まことの宝を発見した。それは本当だと納得する。「信仰すれば、必ず、ふしぎな人生が開ける」。そう心に念じた。
★あれから10年近くが経った。老修道士は、自らホーム「聖フランシスコ園」に入り、お世話になった。私が見舞いに訪ねると、ちょうど食事中で、彼が、女性に混じって食事しているのを見て、直感した。「私は、ここには来ないぞ」。彼は間もなく、ここで神に召された。「彼は、最後に、宝を、見つけただろうか」。今は私も、抵抗はあったのに、ホームでお世話になっている。あの先輩の修道士が懐かしい。ホームでは、4人の修道士が思い思いの印象を残して神の元へ帰って行った。
★私は、彼らの後を継ぐ者だが、まだまだ、今日は朝の9時過ぎから入浴して、さっぱりした気持ちで居ります。これで、いいのかなァ。「宝を、見つけなければ、生きる価値は、ない」。そう思いながら、瀧神父さまと隣同志で食事を楽しんでおります。宝を見つけるまでは頑張ります。
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