2015年10月5日月曜日

何か燃えるものが欲しい。感動は遠い過去の出来事か

写真は、今週の祭壇の生け花です。
★昭和の初め、長崎市に、キリスト教の牧師で、熱心に「アシジの聖フランシスコ」を長年、研究する男性教師が居た。彼の「フランシスコ」の見識は、紀元何年かに、生きておられたキリストを、フランシスコの時代、13世紀において、そのキリストを再現する人物が、フランシスコであるとの解釈をした。キリストがこの時代に生きている。呼吸している。彼はイタリア語を習得して、原典から、本格的に研究を重ねて、「果たして、そういう生き方が出来るのか」と現実に、大きな疑問を持ち、悩んでいた。
★大浦天主堂を下った坂の一角に、ポーランド人の修道者たちが生活する貧しい修道院があった。偶然に、訪ねて、出会ったのが、コルベ神父やゼノ修道士たちであった。寒い冬、「ウチからのストーブです」と一杯の熱い白湯を出して歓迎してくれた。彼らの現実の生活をみて、衝撃が走った。「紀元何年かのキリストの再現が、13世紀のフランシスコだった。その13世紀の現実が、20世紀の今、ここに再現しているではないか。彼らこそ全く、聖フランシスコの精神で生きているではないか。ムシロを敷いて寝る貧しさと、印刷機械を動かす労働。それなのに、優しいほほえみ、祈りに燃えた清らかな目、その熱心さを見て、牧師の男性は感動した。「フランシスコは理論でなく、ここに実行している修道者たちが、現実にいる」
★主キリストは、愛の生き方、ウソ偽りにない生き方、十字架の生き方、貧しい生き方、罪には厳しい生き方。何のため?御父なる神の愛をあかしするため。野球で、延長戦になり、どっちが勝つか、燃えるじゃないですか。信仰をして、燃えたぎるものがありますか。いのちをかけているのです。理論だけでは、ダメでしょう。問いかけだけでは、ダメでしょう。血潮をたぎらせる生活のなかでの感動。「ああ、むずかしい」と、コルベ神父は言ったでしょうか。
★祈り「日々の祈りと、生活を通して、主キリストと結ばれ、チカラ強い愛のあかしとなることが出来ますように」
★あの牧師の男性教師は、その後、カトリック教会へ入った。彼の先生に出会って話も聞いた。コルベ神父のなかに、キリストと、フランシスコを見た、と彼は言った。
★午前中、園内を歩く。ホームの書棚から、聖ボナヴェントゥラによる、アシジの聖フランシスコ大伝記(1981年版・あかし書房・宮沢邦子訳)を見つけた。部屋に持ち帰った。

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