長崎のカトリック修道士。17歳の時、原爆を受けて、この道に入る。 生かされて来た数々の恵みの中で、今年の1月、最大の試練「すい臓がん」を告知された。 「みむねの・ままに」。孤独と苦痛に耐え得るチカラを日々、祈る。 毎日、日記を書き続けて13年。今、長崎市の病院・ホスピス病棟で暮らす。 追記 2021年4月15日 午後6時48分 帰天されました。享年93歳
2015年6月23日火曜日
疲れた1日でした。記者がきた。午後から運動でした
夕べのアンゼラスの鐘がなっている。夕食は終わった。パソコンに向かうのが遅くなってしまった。朝から入浴があった。しばらくすると、電話で予約していた記者がやってきた。東京からで、共同通信社の編集・外信部だと名のった。先ず、わたしが、2つのことを先に尋ねた。①なぜ、どこから、わたしの名前に行き着いたのか。②何について取材をしたいのか。記者は①について出だしを教えてくれた。わたしの著書の、終戦直後の記事の辺りのコピーを出して見せた。②の取材は、終戦直後の頃、アメリカ軍が長崎で、何らかの援助を国民に行なった事情や記録は知らないか、という範囲の内容だった。長崎は原爆で崩壊している。アメリカ軍は、この巨大な被害を隠そうとして、厳しい圧力をかけた。浦上で、アメリカ軍から食料をもらったり、資材や、衣類を受けた記憶は、17歳のわたしにはなかった。ただ、聖母の騎士にはポーランド人の修道者が生活していたので、飛行機が、落下傘で、運動場に、ハム、牛肉の缶詰、チョコレートなど、ドラム缶に入れて、落とした援助は知っていた。落下傘を仰いで、追いかけたが、運動場から大きく外れて、畑のど真ん中に落下した。あの牛肉の缶詰の美味さは、今も覚えて忘れない。記者は満足の表情をみせて、昼前に帰った。★午後からは、ホームの「歩け、歩け、野外活動」で、小型バスで、ごらんの「蓮池」の周辺を歩く活動があった。ホームに来て、8ヶ月になる。からだの力が抜けているのを感じた。疲れました。
見事な蓮の花ですね。私の住んでいる所もハスの名産地ですが、まだ花は咲きません。
返信削除小崎さんのいらっしゃる所は行事が豊富ですね。活動のネーミングからも、職員さんのいきいきした様子がうかがえます。
長い時間申し訳ありませんでした。お暇した後に大村に向かって東京に戻ったのですが、その晩は未明までの勤務、即日も同じで、じゃっかん参ってしまいました。今日になってようやく一息ついた感じです。貴重なお話を聞かせてくださって、ありがとうございました。
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