長崎のカトリック修道士。17歳の時、原爆を受けて、この道に入る。 生かされて来た数々の恵みの中で、今年の1月、最大の試練「すい臓がん」を告知された。 「みむねの・ままに」。孤独と苦痛に耐え得るチカラを日々、祈る。 毎日、日記を書き続けて13年。今、長崎市の病院・ホスピス病棟で暮らす。 追記 2021年4月15日 午後6時48分 帰天されました。享年93歳
2015年3月9日月曜日
出来ないよ。でも、お願いします。どうしても、やるの
元気な頃に、毎月1度は、島原半島の小浜(おばま)温泉へ通っていた。その通り道に、小さな赤い屋根の教会がある。ポーランド人の神父さんが教会と幼稚園に勤めていて、親しくしていた。★もう、2,3年まえの話になるが、ポーランドから神学生の映像班が取材に来て、そのついでに私に引き合わせたことがあった。原爆に興味があったのです。原爆の当日、母と別れて、工場で被爆。その日の行動、17歳の少年がどのように生きたか。①「助けなかった」。②「助けていたんだけれども、困難が来れば、逃げた」。③「仇なる人間を許さなかった」。この3つの体験が、自分の人生を今まで貫いてきた。誰にでも、ある。特に、許す、というのが難しい。そのようなことを語って聞かせた。それを解決した人が、ポーランド人宣教師のコルベ神父であった。彼はアウシュヴィッツで、「助けた」「逃げなかった」「ナチの兵隊までも、温かい目でみた」。そこに人間の希望がある。この話を赤い屋根の神父さんは通訳しながら、よっぽど、心に残ったらしい。★昨年の頃から、神父さんが、会う度に、「話を、お願いね」と、繰り返すようになった。自分は何のことやら、わからず、「ジョウダン、としか思っていない」から、笑い流していた。ところが、2月の半ば頃であった。わざわざホームの自室にきて、教会の黙想会のとき、「話をお願いします」よいう。「なんの、はなし?」「逃げたこと、許さないこと、ほんとうの話、一番心にひびきます。あれ、はなしをしてください」。あらたまってお願いに来られて困惑した。「お断りします。修道士がお話できません」。断った。首を横に何度もふりつづけた。ても、「いや、いや、実話が一番、心をうちます」と、ゆずらない。「いいのかなあ」。不安も、不信もあります。ここで断ると、かわりの司祭を見つけないと、いけないでしょう。とうとう折れて、いいのかなあ、と半信半疑、思いつつも、首を縦にふってしまった。★果たして、みなさんに、霊的に、信仰的に、お話しができるものか、大きな課題で悩んでおります。3月22日、日曜日が、その日です。ホームにいても、いろいろ、あるんですね。写真は、ホームの庭に咲いた椿です。この辺りを散歩する。
お首をたてにおふりになって、良かった、と思いました。
返信削除おつらいお話だと存じますが、戦後70年、ぜひお話くださいませ。知らない人たち、世代が多いので。
それまで、ウォーキングでおからだにお力を。
茨城の空さんのおっしゃる通りです。
返信削除ぜひ知らない方々のために。
ポーランド人の神父様からのご依頼
聖コルベ神父様のお取次ぎを感じます。
赤いツバキ美しいですね。
札幌では自生しませんが大好きな花です。
見て見ぬふりをすること、都合がわるければ逃げること、絶対に許さないこと・・・私にあります。これは戦時下だけでなく今の日常にあります。小崎修道士様のお話はなぜ人の心を打つのでしょう。綺麗に取り繕うとしないことがその理由の一つだと思います。そして神へは元より、人間に寄せる愛と信頼が見えるから信者でない方々の心も打つのだと思います。自分の弱さを述べることはまさに告解だと思います。
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