時々、「東京に住んだこと、ある?」と聞かれる。「4年間、赤羽に住みました」。1970年代の前半だった。赤羽修道院で生活し、教会の庭にあった「カトリック・グラフ」の編集部で働いた。3人の記者がいた。もう40年前になる。今度の夏休みの旅で、赤羽に、こだわったのは、2人の記者に久しぶりに会いたい、望みがあった。連絡をとって、夕方、教会の門で待ち合わせる。山内さんが現れた。写真の男性。「やあ、余り変わっていないね」と修道士。「米田さんは、奥さんが不具合で、来れないそうです」「2人だけで、語り合おう」。スズラン通りを歩く。毎月、締め切りになると、徹夜になる。作業を終えた朝、この辺の「めし屋」で、お茶漬けを食った。「いま、どうなっているかな」。2人は、懐かしくさまよい、1軒の和食店に入った。それが、この写真です。編集者の仕事は大変だった。長崎から都会へ出て来て、何も知らない修道士を、導き、助け、育ててくれたのが、ベテランの彼、山内さんだった。「あの頃は、激動の時代だったね」。成田闘争、ベトナム戦争、沖縄復帰、コルベ神父が福者になる、など。波に乗って、国内、海外にも取材へ出かけた。おかげで、人間的にも、成長したように思う。「このグラフは、時代を切るユニークな大型雑誌」と言われつつも、資金が不足で、4年、39号で、降りた。★長崎・聖母の騎士は、周辺にお店もなく、1つの「城」のようにも思う。赤羽は、門を出ると、ネオンや居酒屋が軒をつらねる。城を降りてきた修道士が、誘惑されないことが、あったか。大変な時期であったのは、確かだ。傷つき、悩み、方向を見失ったこともあった。それでも「神のふところ」に戻ってきた。いま、あらためて、修道士の身分で「よかったなあ」とカンシャした次第だった。
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