長崎のカトリック修道士。17歳の時、原爆を受けて、この道に入る。 生かされて来た数々の恵みの中で、今年の1月、最大の試練「すい臓がん」を告知された。 「みむねの・ままに」。孤独と苦痛に耐え得るチカラを日々、祈る。 毎日、日記を書き続けて13年。今、長崎市の病院・ホスピス病棟で暮らす。 追記 2021年4月15日 午後6時48分 帰天されました。享年93歳
2012年10月8日月曜日
黙想1日目。オマエの人生で、何か、燃えたか。そこから始める
修道会では、年に1度、1週間ほど、年の黙想をします。今年は既に、長崎市・立山の黙想の家で実施されたが、ちょうど入院中だった。そこで改めて、個人で黙想を行なう。指導には、日本26聖人館の館長、デ・ルカ・レンゾ神父さんにお願いした。忙しい神父さんなのに、快く引き受けてくれた。話は、日に2回。午前と午後。バイクで来られる。レンゾ神父さんの専門は、もちろんキリシタン研究です。神父さんとの最初の話は、神父さんの問い、「人生、振り返って、何か、燃えたか?」で始まった。考えてごらん。人生で、「燃えた」と感じた時が、必ず有ったろう。そのときこそ、神の働きだった。神の声だった。神の導きだったと、「ハッと」する瞬間が必ず、ある。神は、私を呼んでくださった。そういう意味のことを言いながら、レンゾ神父さんは1冊の薄い冊子を渡してくれた。「小崎さんから黙想を頼まれたとき、これを思い出した」そうだ。冊子の題名は『固有の召命』。ちょっと、堅苦しい。10年ほど前になるが、著者の神父さんが日本へ来て、この黙想の家でも、講義が行なわれたという。そのとき、レンゾ神父さんが、専門的な訳の相談に応じた。そもそも「固有の召命」とは何ですか。召命とは、招かれること。キリスト信者への召命、司祭や修道者への召命、など有るなかで、それとは別の、その人だけの、個人の、固有の、召命がある。ここで、レンゾ神父が「燃える時があったか?」と問うたわけです。「自分だけ、それは、神が、自分に対する呼びかけ、自分だけのものが有る。それに気づくことです」。ここから今年の黙想は始まった。
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