長崎のカトリック修道士。17歳の時、原爆を受けて、この道に入る。 生かされて来た数々の恵みの中で、今年の1月、最大の試練「すい臓がん」を告知された。 「みむねの・ままに」。孤独と苦痛に耐え得るチカラを日々、祈る。 毎日、日記を書き続けて13年。今、長崎市の病院・ホスピス病棟で暮らす。 追記 2021年4月15日 午後6時48分 帰天されました。享年93歳
2012年3月25日日曜日
人生、悩み多し。自分が生きる意味、何か?
1人の男性が聖コルベ館へ入ってきた。彼を見た瞬間、思わず「オー」と歓声をあげ、彼の手をつかんで思い切り揺さぶった。「どーうしていたの?心配していたぞ」。彼は五島の出身。県外で長年働いて、心身疲れて、失望し、島の断崖絶壁へ向かっていた。途中、美しいマリア像を見つけて、気持ちが「ストップ」する。新しい職場を見つけて、長崎でタクシーの乗務員をしていた。正月、ルルド参りに来たところで、私に出会った。その後、1年間、聖書を学んで洗礼を受けた男性だった。「あれから来ない。もう4年になるかなあ」。歳は60半ば。独りで、年金暮らし。生活はシンプルで、テレビなし。冷蔵庫なし。電気レンジなし。車だけ、あるという。読書が好き。いろんな人間の生き方がある。「修道士以上じゃないか。付いて行けないよ」。その彼が悩みを打ち明ける。「自分は何のために生まれてきたのか、意味がわからない」。これはどういうことなのか。人間、誰しも悩みが多い。基本的に、自分はこの道を生きて良かったのかと悩む者。生きる意味に悩む者。悩みはどこから来るのか。「人のために尽くすこと、ないの?喜びを感じないの?」。「うれしさは有るが、実感が湧かない」。自分に凝り固まっているから悩むのか。「4月8日が今年は復活祭。教会に来なさい」と勧めた。彼は笑いながら、クルマの番号を指して、「ハローだよ」。ナンバーは、8と6だった。
「生きる意味」に悩んだら、2月26日の登明日記を読みましょう。「オマエが居なくても、世界は立派に回っている。誰も困りはしない。」私、これが大好きです。この余裕、面白さ、逆説。そして結論は、「ひとつの小さな生きがいがあれば、立派に生きていける。」
返信削除その人の感じ方次第ではないでしょうか。どんなに小さなことでも、これで良しとして安心して生きていける人もいれば、これではダメだ、生きている意味がない、と悩んでしまう人もいる。
ちなみに、私は、もう悩むのをやめました。この前の巡礼中、娘から、「なんでお母さんは、巡礼に行くの?教会へ行くの?」と質問され、浮かんだ答えは、「だって、他に何もできないから。」娘は、「なーんだ、深い考えがあるのかと思っていたのに。」と、がっかりしていましたが。
何も考えなくても、生きる意味がいただけるところが、教会です。