昨日の日記で、「ツライ」「幸い」と並べて書きました。一本の線を、入れるか、ハズスかで、幸せになり、辛さになる。線一本の違いです。実は「幸一」というのが、私の本名、親が付けた名前です。小崎登明は修道士になって付けた名前。聖人の名前をとった。「ま一もんじに、行け」。昨日の書字に、そう書いた。この「行け」のイメージは、駅長さんがホームで列車を送り出すとき、白手袋のユビを、右、左に示して、最後に前方を指差して、それから出発する、あの「勢い」のついた「行け」なのです。それを昨日の日記に書いたら、コメントが入っていた。「入院、大変でしたね。傍らのイエスさまがおっしゃいませんでしたか。行きなさい、と」。行けという覚悟も、行きなさいという勧めも同じです。これを読んで、大きく背中を押される気持ちがしました。コメントを寄せてくれたのは、「元日の母」娘、覚えていますよ。今年、最初に聖コルベ館に誰が来るか、興味深々だった。しかし昼になっても誰も来ない。3時にも来ない。ああ、もう閉館だ、というとき、ギリギリに来たのが、この元日の母娘だった。そのお母さんがコメントをくれた。「行きなさい。信頼しなさい。あなたの信仰が前に進む」
ミサの最後でも、「行きましょう、主の平和のうちに。」と言われます。「ミサ」の語源は、「押し出す」という意味だと聞いたことがありますが、こうして私たちは、毎週日曜日に祝福されて背中を押され、一週間の現実の生活に派遣されていくのですね。
返信削除