長崎のカトリック修道士。17歳の時、原爆を受けて、この道に入る。 生かされて来た数々の恵みの中で、今年の1月、最大の試練「すい臓がん」を告知された。 「みむねの・ままに」。孤独と苦痛に耐え得るチカラを日々、祈る。 毎日、日記を書き続けて13年。今、長崎市の病院・ホスピス病棟で暮らす。 追記 2021年4月15日 午後6時48分 帰天されました。享年93歳
2013年9月30日月曜日
カラだの診療に、さまざまな課題がある。ゲンキを出そうよ
2013年9月29日日曜日
サヨナラ。ルーマニアの神父さん、東京で、ガンバってネ
2013年9月28日土曜日
最後のシメはお祝い。司祭金祝と修道誓願75周年。喜び。
2013年9月27日金曜日
会の集まり、4日目。サシミと、会話で、盛り上がった。
2013年9月26日木曜日
会の集まり、3日目。この若者の訪問は、忘れない。
2013年9月25日水曜日
会の集まり、2日目。与えられるヒントに、深く感動する
2013年9月24日火曜日
来ーたッ。イシトク神父さん、オレと同じだ。キョウダイさ。
2013年9月23日月曜日
20年前の温かさを思い出した。小さな愛でも、一生、残る。
2013年9月22日日曜日
山の空気で、清気を養う。賑やかな半日だった。よかった
2013年9月21日土曜日
聖コルベも見た中秋の名月。こんげん月は、えっとなかバイ
昨夜、寝るときの気持ち。何が、気落ちしたのか、知らないが、「うるさいな。楽にしてくれ。あれ、イカン。これ、イカン。やぐらしか(長崎ベンで、イヤじゃの気持ち)」だった。生きていくには、いろいろ有りますからね。こんな考えは、前向きじゃ、ないね。1晩、眠って、今朝、起きたときの気持ちは、「だいじょうぶ。シンパイいらないよ。神さまに、ありがとう、言いましょう。周りの人にも、ありがとう、言いましょう」。そのように変わっていた。メモに書いた。部屋を出る。廊下は、暗い。窓から、外を見ると、こうこうと、明るく輝く月があった。「わー、きれか、なあ」。中秋の名月だよ。本当の名月は、昨日の月だった。昨日も、見えた。リッパな月だね。思わず、口元で、こんな歌が出た。「こんげん、月は、えっと、なかバイ」。(こんなに、美しい月は、めったに、ないぞ)。確か、カミの句があった、思い出せない。そのまま聖堂へ。5時45分から、共同の祈りが始まった。祈りが終わって、朝食のとき、「こんげん月は、えっと、なかバイ」と言うと、隣の修道士さんが、本当の歌を教えてくれた。「わりたちも、みんな出てみろ、今夜こそ、彦サンやまの、月はよかバイ」。コルベ神父が土地を求めた、彦山(400m)に懸かる名月である。コルベ神父も、かつては見たであろう。きっと、天国に、思いを馳せたに、違いない。
2013年9月20日金曜日
聖コルベの鐘は、鳴りつづける。愛と平和を長崎の空へ
今年は、日本・国中で、水害や、タツマキが起こって、被害があって、タイヘンでした。お見舞い申し上げます。聖母の騎士も、カミナリが、ドカンと、鐘の塔に落ちて、アンゼラスの鐘を動かすコンピュウターが、やられました。「カラン、カラン」と鳴るアンゼラスの鐘が、日に3度鳴ります。朝、6時、昼、12時、夕方、6時。「鳴ることは、鳴るけど、音が、低音になった。困ったね」。鐘の由来を申し上げます。今から、およそ30年前、創立者コルベ神父さまが、聖人の位に挙げられた。おめでたいことです。それを祝って、リッパな鐘が、はるばるローマから送られてきた。それが、この鐘です。3回鳴って、ちょっと休んで、また3回鳴って、休んで、3回鳴って、休んで、それから連打する。これをコンピュウターで操作するわけです。鐘が狂えば、困ります。しばらく鐘が休んでいたが、やっと、鳴るようになりました。音のヒビキが大きくなった。天変地異とはいいながら、大切なコルベ神父さまの鐘ですから、守ってくださいよ。鐘には、コルベ神父さまのお姿も刻まれている。タイセツなんだから、ね。
2013年9月19日木曜日
沖縄の小学生が、やってきた。聖堂で、平和を歌い、祈った
2013年9月18日水曜日
1日は、バタバタと、過ぎる。ちょっと、停まって、考えよ
2013年9月17日火曜日
老人の日も終わった。年寄りは、ガマン、ガマンの日々です
2013年9月16日月曜日
素朴なお花だが、心をうるおす。愛が、人を引きつける
2013年9月15日日曜日
敬老の日。教会で、お祝い。「お若いネ」「ダイジョウブ?」
2013年9月14日土曜日
平和のアクシュ、聖コルベの「お礼を求めない愛」を伝えよう
2013年9月13日金曜日
原稿、書きで、悩んでいます。毎月だからね。タイヘンです
文章を書くって、やっぱり、むずかしいですね。書くぞ、という意欲が、必要です。内容が、ある程度まとまったら、よし、書くぞ、と、こういう気持ちになる。騎士誌に毎号、4ページの小さな記事を書いています。題を、並べてみると、このようになった。題は、10文字ある。ユビで数えて、決めるんですね。うまく、10に、納まらないと、ね。いろいろ考えます。いま、11月号を考えている。これが、なかなか、題が決まらない。大分の湯布院へ出かけた小さな旅を書こうとしたが、息がつづかない。いまは『お・も・て・な・し』で、世間は沸いている。『世界にまことの平和を』。こんな題も、いいですね。だが、むずかしい。何に、ピントを置くかで、悩みます。文章を書くなら、ゆっくり、安らかな気持ちで、ペンを運びたい。午前9時に、聖コルベ館へ出てきて、ブログを書いていたら、すぐ時間が経ってしまう。それに見学者が来れば、もう午前中は、文章は書けない。午後は、3時までは自室で、休んでいます。昨日から、カゼ気味か、ノド、気管支がモヤモヤする。そうそう、いま、題は、『聖コルベのルルド今昔』を考えています。1回は、書かなければ、いけない内容ですから。2013年9月12日木曜日
マリアの御名の記念日。修道士たちはマリアの御名で挨拶した
「マリア」「マリア」と、修道士たちは、(修道院内で)、会う度に、挨拶の変わりに、マリアさまの名前を呼び合いました。コルベ神父さまの時代の習慣でした。美徳と、思われる習慣です。戦争が終わっても、長い間、聖母の騎士修道院では、お互いが、部屋や、道で、会う度に、マリアの名前を呼び合って、挨拶したのです。最近も、食堂で、その習慣は、残っています。今朝は、ミサのとき、「マリアの御名」の記念日を祈りました。マリアさまの御名を洗礼名に頂いている女性は沢山おられるでしょう。★最近、食堂で、ここの、土地の歴史が話題になった。家を建てるとき、人骨や、動物の骨が出てきたのです。コルベ神父さまが、ここの土地を購入するとき、16人の地主がいて、条件が大変厳しかった。前に、土地を買う人も、2人ほど居たが、骨が出てきたので、止めた。1坪、1円。それでも、7.000坪。7.000円は、大金でした。コルベ神父さまは、ポーランド・聖母の騎士からの送金を当てにして、一辺に、支払えない。何回かに分けて払った。地主たちは、期限に遅れたら、返金もしないし、土地も渡さない、と言い張った。聖母の騎士を見守る善意ある司祭や、信徒たちが心配して、「コルベ神父さん、おカネ、大丈夫ですか」と念を押していた。コルベ神父さまの答え。「マリアさまが、お望みならば、おカネは送ってきます。お望みでないなら、送ってきません。ワタシの心配することでは、ありません」と、泰然自若としておられた。そして、おカネは、ちゃんと、間に合うように、送られてきたのです。食堂での会話の結論は、「マリアさまが、望まれた土地です。だから、おカネは、とどいた。この土地は、聖母マリアさまが、望まれて、ここに家を建てた明白な所なのです」。コルベ神父さまの証明付きですからね。2013年9月11日水曜日
来たーッ、女子高校生たち。イノチの大切さを学ぶ。修学旅行
2013年9月10日火曜日
記録は、益(タメ)になる。33年前に描いたスケッチです
大分のトラピスト修道院には、すでに、行ったことが、ある。だから、懐かしかった。スケッチが残っていた。記録は、やっぱり、タメになるんだなァ、と思う。スケッチのなかには、いろいろな情報がメモっている。スケッチは、1980年9月17日の日付。建物は、1980年7月11日に落成、と書かれているから、出来上がって、2ヶ月しか経っていない。土地の広さは、61ヘクタール。1ヘクタールは、3.000坪。坪、250円。くわしいなァ。当時は、司祭、3人。修道士、4人。計、7人が居た。聖堂で、修道者が座るイスが、カッコウいいね。★今朝の黙想。聖務の共同祈願から、思い、祈りました。「聖霊によって、すべてを生かし、愛する心を与えてくださる」。聖霊というと、どうも、特異な信仰のように感じられる。あまり、なじめない。しかし、よく注意しておると、聖霊への呼びかけは、度々、有るんですね。「聖霊よ、来てください」とか、「聖霊よ、信じる心を満たし、愛の火を燃やしてください」など。そこで、もう少し、聖霊について知りたいと思いました。聖霊と聞いても、違和感を感じないように、信仰を固めるべきでは、ないでしょうか。「信仰と、愛を、強めて、ください。信じること、愛することが、むずかしい今の世のなかです」
2013年9月9日月曜日
印象に残った同年輩の神父さん。祈りは、チカラなり。
2013年9月8日日曜日
湯布院、3日目。祈りのないハタラキは、空しいよ。
2013年9月7日土曜日
湯布院、2日目。トラピスチンに、19人。祈るシスター
2013年9月6日金曜日
湯布院へ。1日目。日本一の、大型つり橋で、足元フラフラ
大川甚吉神父さん、81歳。湯布院(大分県・温泉あり)の教会の神父さんです。「ボク、見納めに、湯布院へ行きたいよ。日本一の大きい、つり橋、渡りたいなァ。頼むよ」とお願いすると、わざわざ湯布院から、聖コルベ館まで、迎えに来てくれた。「やあ、すみません」。湯布院から長崎まで、片道、高速で、220Km離れているのです。それを、軽の四輪駆動で、迎えに来た。九州を、横断するワケです。2泊3日の旅の始まり。ボクの第一の願いは、日本一長い、つり橋を渡ることでした。ヒトだけが通る、つり橋。イメージとしては、丸太の橋かと思いきや、コンクリートのリッパな橋でした。長さが、390m。高さが、170m。両脇に、2つの滝もある。眺めが、すばらしい。気持ちが、デカク(大きく)なりますよ。くよくよ、考えるなよ。でも、ね。飛び込む人も居るそうです。警備員が、何人も、橋の上を行き交い、警戒している。第一の望みを果たして、湯布院の教会へ落ち着いた。教会内に、温泉がある。70度前後の湯が、豊富に出ている。疲れを癒しました。「トマのためなら」と万全の愛を注いでくれた、優しい大川甚吉神父さん。小神で、中学生の時からの、親友です。2013年9月5日木曜日
美装カードが届いて、びっくり。ありがとう。また作ってね。
郵便で、キレイなカードが、20数枚、送られてきて、あけて、びっくり、こんなに素晴らしい贈り物。毎日、ブログを見てくださる方に、いろんなアイデアを持っている方が居るんですね。感心しました。ありがたかった、です。うれしかった、です。手紙が添えられていた。大分県の恵理子さんです。「昨年の8月5日、聖コルベ館を訪ねました。登明サンがブログに書いて、写真まで載せてくださって、うれしい気持ちでした。同封のシオリは、登明サンのブログから勝手にダウンロードして、作りました。著作権の侵害ですが、でも登明サンだけにお送りするのだから、許してくださいね。お許しがあれば、もっと作ります」。さっそく、その夜に、電話をかけて話しました。「恵理子さん、ありがとう。よかったですよ。作って送ってください。協力します。聖コルベ館に来た見学者に、記念に差し上げると、喜ばれるでしょう。未来が、明るくなりました」。恵理子さん「ああ、よかった。作りますよ。期待してください」。シオリよ、小さなカードだが、大きな喜びを与えるよ。ベリ・グット。(ウラには、アヴェ・マリアの祈りがある)2013年9月4日水曜日
映画「少年H」を見に行く。少年よ、自立し、決断せよ
映画を見に行く。「少年H」という奇妙な題である。太平洋戦争が始まる少し前、昭和16年の春から、小5の少年を通して、この物語は神戸を舞台にスタートする。家は、洋服店。父と、母と、妹の4人家族。母親が、「H」と大きく描いたセーターを着せてやったことから、その名で呼ばれた。やがて戦争が開始され、市民は銃後にいても、戦雲のなかに巻き込まれていく。ご真影(天皇・皇后を祭る社)や、二宮尊徳、スパイの監視など、この家族は、キリスト教の信者の一家だった。欧州から逃れてきたユダヤ人の服を修理したことで、外国と密通していると官憲に疑われ、拷問にあう。家族は熱心に信仰するが、迫害もされる。だが、くじけない。中学生になると、軍事教練で鍛えられる。ビンタを叩かれる。少年といえども、苦難の連続だ。やがて昭和20年3月、神戸は大空襲に見舞われ、全部が焼け野原となる。映画セットの家屋を全部、実際に燃やした。一家は家を失ったが、幸い、家族は無事だった。戦争を通り越して、平和が訪れる。「少年よ、いまこそ、自立し、決断するのだ」。自分で足で、しっかり踏ん張って、生き抜くときがきた。苦難を通り越して得た自由の日だった。「この少年を見ていると、自分の少年時代に重なってくる」。少年には、明るい未来がある。焼け野原の市街は、原爆の浦上の丘と同じ風景だった。自分も、あの原爆の丘で、実際、大きな決断を余儀なくされた。映画の終わりに、自分はポーランドの司祭や修道士にお世話になったことを思い、あの優しい修道者たちの顔、顔が、次々に浮かんできた。あのとき、自分は、よく、この道を決断したと思う。足に巻くゲートルが懐かしかった。行進して、よく、歩いたもんだ。少年は今、我々に何を訴えるのか。過去の戦争という苦難を通って、今の繁栄がある。映画の少年が、いまの時代に生きたなら、「ああ、我々の苦労の愚かさよ」と、ナミダを流すに違いない。2013年9月3日火曜日
福島の、愛と平和のお母さん、93歳で、神に召される。
悲しい知らせがあった。福島の、偉大なお母さんが神に召された。93歳であった。亡くなる2ヶ月前に描いたのが、マザー・テレザのお姿だった。ニンゲンが生きるとは、どういうことだろうか。男の子、6人と、女の子、3人を産み、育て、男2人を修道士に、女2人シスターに、仕上げて、自分は「シオンの丘」を建てて、ルルドも自作し、祈り三昧、孤独老人や、身よりのない人を助けた。マザー・テレザの心で、つらぬいた。「クニさん」の偉いところは、目立たないで、看板を立てないで、黙々と愛と平和を実行した。そして「神に感謝」。福島の子供たちの家から、通知があって、びっくりした。2度、福島を訪問した思い出も、ある。人生とは、こうで、なければ、ならぬ。右の手で、するところ、左手に知らせては、ならぬ。じみつに、ちゃく、ちゃくと果たして、93歳だよ。尊敬するニンゲンを挙げれば、「クニさん」が、すぐに浮かぶ。5年まえ、突然、福島の「クニさん」から、リンゴが1箱送られてきた。「え?なんで?」と思ったが、なにかの心境があったのか、今になって、思います。永遠の安らぎを与え給え。
2013年9月2日月曜日
大学の卒論に「コルベ神父」を選んだ若者。真実を見つめよ
2013年9月1日日曜日
今年も、3分の2は過ごしてしまった。ゲンキで、この秋も
