2012年2月29日水曜日

2月は色々ありました。でも、ハイ、この通り

今年は、ウル年で、29日まであります。2月は色々ありました。それでもゲンキに月末を迎えることが出きた。明日は誕生日で、いい日だよ。84歳になります。腎臓、1つ。大事にしよう。寒さに気をつける。カゼを引かない。暖かい所に居る。ムリするな。ストレス溜めるな。腎臓に負担を与える食事に気をつけよう。こんなこと書くと、ジンセイ、楽しくないな。
人生には、さまざまな困難があります。小さな舟が荒波にもまれて、沈みながら嵐の中を行くようなことです。私の場合は、尿が、水が、全く出なかったから、砂漠(サバク)をさまよう、迷うような出来事だった。しかし人生、大きな壁が立ちふさがれようとも、巨岩があろうとも、助ける人が必ず居るんですね。うまーク、すり抜けて、オアシスを見つけることが出来た。だから、今が、有るわけです。道に迷った旅人が、森の中に、1軒のアカリを見つけた時の喜びは、どんな大きな賜物でしょうか。毎日、毎日、ご聖体を受けた。だが、あの病室でのご聖体は、大きな賜物になる。感謝をしましたか、今朝は、それを反省した次第です。

2012年2月28日火曜日

入院・余談。いかにして日記を書いたか?

入院中に、毎日、日記を読んでくださって、ありがとう。どうのようにして日記が書けたのか、タネ明かしをしましょう。病室は、ケイタイは使用・禁止です。パソコンは使用・不可能です。病室から幾つかの隣の病室の、その次に、『談話室』があって、そこに電話が(写真の通り)あるのです。一応、内容を考えて、この電話室で、毎朝、電話をかけました。通話の相手さんは、聖コルベ館の、同じ町内の、同じ丁目にお住まいの、親友の奥さんです。「ああ、モシモシ、おはようございます。頼みますね」。それで、ペラペラ、しゃべるわけです。奥さんにはホントウにお世話になりました。(退院後、少々、加筆しました。ごめんなさい)。奥さんも張り切って、協力してくださった。写真は退院後、挿入しました。電話で報告するなんて、海外の通信記者並だったよ。★報告しなかった話が1つある。尿が出ない、苦しんでいた、ある晩、夢の中で、黒塗りの、大型の、後ろに開き戸があるクルマが、バックで近づいて来るんだな。手前に大きな窓枠があって、私が、その窓枠の手前に立ったトタンに、黒塗りのクルマは、「パッと」消えて、無くなった。なんか、ヘンな夢だったよ。

2012年2月27日月曜日

12日目。退院しました。お祈りありがとう

昨夕、見舞い客が、退院祝いか、誕生祝いか、かわいいケーキを持ってきた。「ナマもので、今日じゅうに食べてください」と説明にある。「困ったなあ、1人じゃ食べきれないよ。どうしよう」と迷っていると、来たよ、来たよ、前に、「いそがしかモン」と言った女性が居たでしょう。洗濯もしてくれた好意もあった。その女性がやって来たのです。「おお、来たか」と、私は喜び。
この女性も忙しい。昨日は日曜だったから、長崎から100kmほど離れた隣の県で、〇〇大行進というのがあった。2千5百人ほど集まって、盛り上がったそうだ。それに参加して、いま、帰った。「おお、それは、ちょうど良かったな」。そこで、2人で、退院前祝いに、このケーキを食べた。「私は少しで、いい。後は、あなたが食べなさい」。オナカの減っている女性は「パク、、パク」食べた。甘さ、控えめの、おいしいケーキだった。
入院生活12日。最初は暗い気持ちだったが、退院の朝になると爽快。神さまのお恵みで、イノチをつないだ。そして毎日、日記を見て、心配して見守ってくれた皆さん、お祈りはありがとう。午前中に、赤尾院長さん運転のワゴン車で、聖コルベ館へ戻った。昼食は、皆さんと一緒だった。「以前より、ゲンキになったぞ」。コルベ神父の遺産と、精神をつないで行こう。「オマエが働くのでなく、主が(オマエを通して)働かれる。忘れるな」

2012年2月26日日曜日

入院11日目。お恵みがイノチの糸をつないだ

「今度ばかりは、参ったね。大変だった。危うく、死ぬところだった」と説明しても、皆んなは信用しない。「なーに、トマのことだから、4・5日したら帰ってくるだろう」。1月に入院したときは、尿が出なかったが、これは腎臓の中の石が尿管に詰まっての原因だった。だからバイパスを作って、尿が大量に出て、解決した。ところが、この度は、原因が分からない。午前中は正常に出ていたのに、夜になって、全く尿が出ない。こういう事って、有るだろうか。悩むのは当然です。でも、幸いに、お恵みが、いのちの糸をつなぎました。
考えてみると、私の生涯のテーマは、「生と死」だった。原爆にあっているし、危険な病気もたびたびしているから、マトモに言える。そして、その裏側と言うか、それは「愛といのち」だった。コルベ神父の愛と、イノチも知ったから。いわば、この2つをつなぐのが、私の人生だった。
明日、退院します。聖コルベ館に帰ります。オマエが居なくても、世界は立派に回っている。誰も困りはしない。オマエの存在価値は、どこに有る?それはオマエ自身の、他の人には追従許さぬ独特の人格にある、と私は思う。人間の生きる意味もそこにあるのではないか。
ナガサキの、生まれながらのカトリックです。これからも、古いと言われる信心生活を守って生きて行きます。私は、いつもホンネで語りたいのです。生きる力をもらいましたか。生きる勇気が湧きましたか。沢山のことを知らなくても、ひとつの小さな生きがいがあれば、ニンゲンは立派に生きていけるのです。苦しみの生涯を、愛の人生に変えようではないか。希望をもって、これからも生きていこう。

2012年2月25日土曜日

いのちをつなぐ恵み。皆さん、祈りありがとう

写真は、病院の1階、待合室にあるマリアさまと、おひなさまです。ちょうど、ひな人形を飾るときに入院したんですね。でもゲンキになって、良かった。昨夜、主治医の先生が病室に来られる。「今日で、点滴の治療は終わりました。昨日の血液検査で、腎機能・クレアチニンも『1.1』に快ふくしていました。平常になった。あとは外来診療で診て行きましょう。退院しても良いですよ」と言われるじゃないですか。 私は思わず喜びの顔、笑みですよ。何より嬉しかったのは、腎機能の回復です。「えっ?ホントウですか?嬉しいなあ、よかったなあ」。お医者さんは私の左の脇腹を手で優しく撫でた。さあ、いつ退院しようか。私はちょっと、間をおいて、「土曜、日曜と、少しゆっくりさせてもらって、いいでしょうか。月曜日の午前中に退院してよろしいでしょうか」「良いでしよう」とお医者さんは笑顔を残して去った。私は感謝のロザリオを捧げた。
思えば、聖コルベ館を出る時、「もう、我が腎臓も、アウトか」と、ほとんど絶望的だった。おそらく聖コルベ館には戻らんだろう。悲壮感があった。それが、また、いのちをつなぐ恵みが与えられた。沢山の人たちが見守り祈って下さったお陰です。胸が熱くなるのを覚えます。「ああ、あのとき、生きるか、死ぬかのとき、おひなさんを飾っていた頃だったなあ、忘れないだろうよ」。腎機能も、正常になった。これはホントウにお恵みですよ。祈りの効果ですよ。急に元気が出てきたぞ。とにかく今日は、ただ、ただ、嬉しい。登明日記を読んで、祈ってくださった皆さん、ありがとう。

2012年2月24日金曜日

病人が困ること。洗濯物が泣いている

写真は病院の廊下にある「おきもの」です。ところで入院生活で困ることがある。それは肌着の洗濯です。傍にいて、洗濯をする人が居ないと大変困ります。病状によっては、寝汗をかいたり、下着が汚れたりします。着替えの肌着には限度があるため、汚れるものが増えると困るのです。どうしても「助けてくれる人」が必要です。
今朝も、洗濯の肌着が七枚もたまりました。「さあ、どうしようかな」と悩んでおりました。すると、神さまは、ちゃんと準備してくださるんですね。先日、見舞いに来て、「いそがしか、モン」と言った女性が居たでしょう。その女性が現れたのです。女性のキゲンがよっぽど良かったのか、「洗濯、してあげようか」と言うじゃありませんか。「ありがたいことです。頼みますよ」。内心、シメシメ。洗濯場は病院の屋上にある。洗濯をして、乾燥機を回して仕上げるまで、2時間は掛るでしょう。時間と労力を要するので、それだけ束縛するから気の毒なのは確かです。しかし、女性は心優しく、新しくなった肌着を渡してくれたあげく、帰りしなに、こう言った。「ロザリオ3本、唱えたケンね。先生(私のこと)のためにも・・」。それ聞いて、サースガ、長崎の信者じゃ、だね。

2012年2月23日木曜日

今日の1日も、私のジンセイだ

「どうですか?お元気、なりましたか」と、1日、1度は必ず病室を覗いてくれるシスターがいる。「あたたかい、ほんのりとした、あかりが、私の心を明るくする」。入院当日から、毎日、姿を見せるようになった。当病院の事務室で働く韓国人のシスターだ。ふっくらとした顔、ニコッと、優しく、微笑む。その愛情表現に「トローン」となるよ。日本人とはまた違ったフンイキで、なぐさめてくれる。日本という土地柄、慣れないことも、あろう。シスターになって日は浅いそうだが、信仰は燃えている。私は、ズバリ聞いてみた。「あなたにとって一番大切なことは何ですか」。シスターは、ためらわずに答えた。「神様と向き合うこと、愛といのち、です」。なるほどね、確かに「ズバリ」核心を突いている。「イライラや、心配、思いわずらい、いろんな事があっても、神様と向き合います。神様だけが、救われる」。信仰の出会いは、いいですね。今日も生きて行く力をもらいました。ありがとう。「聖コルベ館には居ないけど、今日の1日も、私の人生だ」

2012年2月22日水曜日

ネコ(ニャンニャン)の日に、思わずライモンド

入院7日目。大きな点滴がなくなった。小さい点滴を朝、夕、2回行なっている。病院では院内感染を注意して、病室から廊下に出るのにもマスクをする。そろそろ動けるようになり、退屈もする。しかしこの度の入院では、テレビを全く見なかった。枕辺に、テレビは有るが、棚上げして、使っていない。まだ見る気持ちはない。
その代わり、小型ラジオを聴いている。ラジオで今日はネコの日と知った。ネコと言うと、ピンと来る話がある。入院した2日目だった。鳥取から、みどりさんがわざわざ見舞いに来られた。みどりさんは、登明日記を毎日読んでくれているし、(読者になる)の第1号の女性だった。私の入院を知り、鳥取から列車を乗り継いで、片道6時間、長崎へ着くと、真っ先に修道院を訪ねたそうだ。病院へ来られたときには、ビックリした。わざわざ本当にお見舞い、すみません。気をつかって、短い時間だったが、みどりさんから、微笑みと愛情で、生きるゲンキをもらいました。ありがとう。帰る時、みどりさんが言った。「あのね、ライモンド見たわよ、可愛かった」。突然、ライモンドと言われて、なに?一瞬、ためらったが、「ああ、ライモンドね。修道院のネコちゃんだよ」。みどりさんは、しっかり登明日記を読んでおり、「いつだったか、写真が載せていたモンね」

2012年2月21日火曜日

入院6日目。母の教えは病人見舞いだった

写真は病院のエレベーターの所の表示です。もう入院6日目になった。原爆死した母を思う。母は教えた。「祈りバしなさい」「善行バしなさい」。その善行の一つ病人見舞いだった。今でもはっきり覚えている。戦争中、浦上天主堂の近くに立派なお屋敷があって、当家の息子が奇病をやんでいた。少年の口や鼻の周辺が赤く盛りあがってフハイし、悪しゅうを放つ。15歳の私がどう言うツテで訪ねるようになったか分からない。度々その少年を見舞って励ました。原爆ですべては吹き飛んだ。
遠い昔の出来事だ。ところで病状は快調。食欲もあり。夕方、少々微熱ある、(これがクセモノ)。
昨日は5人の見舞客があった。その中の一人、修道会の最長老、末吉神父さんが「どうかね」と、姿を見せた。その時思わず「ウォーッ」叫んだ。「良く来てくれましたね。ビックリしたよ」。小長井のみさかえの園から(片道約50キロ)を、自ら運転して来た。「86歳だよ」と言う。私は末吉神父さんに「祝福して下さい」と頼んだ。司祭は大きな十字架をきった。
末吉神父さんの土産は15本のルルドの水だった。神父さんが帰った後、なぜか私は母が、「善行しなさい、病人見舞いをしなさい」と言う言葉を思い出した。あの悪しゅうを放つ少年を見舞ったお恵みが、私を修道士に導いたのかもしれない。
神父さんが帰ったあと、またしばらくして顔を出した。また、ビックリだよ。神父さんは言った。「バックを忘れた?ここには、無かね?」

2012年2月20日月曜日

入院5日目。日曜日。誰か見舞いに来ないかな

今日の私の写真です。まだ少々、顔がむくんでいるようですね。でも今度ばかりは、腎機能の再生力のすごさに驚きました。どうしても不思議でしょうがない。体験した者にしか分かりません。腎臓が完全に、まる1日停止して、尿を作る機能が破壊した。私はシロウトですが、そう思います。(あぁ、これですべて終わりか)と、さすがに失望しました。ところが治療の甲斐があって、翌日に、立派に、見事に、機能がよみがえった。どうして、そのように好転したのか理由は分からない。この度の病気の体験は、私の心に大きなこん跡を残した。
もう1つ、寝ていて、考えることがある。それは家族の素晴らしさです。ひとりベッドに寝ていて、やはり、さみしいせすよ。孤独の病者を救いあげるのは、何といっても家族の愛です。父が居て、母が居て、子どもが居て、孫も居る。お互い何にも言わないけど、痛み、苦しみ、喜びの糸が皆、つながって、『家族』と言う糸車に、からんででいく。その奥に、愛と、いのちの光る宝石があるわけです。私は修道士。病気になると、やはり、寂しいですよ。もちろん、それは覚悟の上です。私たち修道者は、世間の愛を、主への愛の糸に変えて、痛みも、苦しみも、喜びも、糸をつないで糸車に回し続けて行く(主よ、私のベッドの横に居て下さい)。それが祈りです。ところで、見舞いに女性がやって来た。私は、ブチまけた。「愛だ」「人助けだ」と言いながら、誰も来ないじゃないか。すると女性はズバリ答えたよ。「いそがしかモン」

2012年2月19日日曜日

入院4日目。あのとき、イエスはソバに居られた

尿が全く出なかった木曜日の夜のことです。、ベッドに腰掛けて、右手で目がしらを押さえつつ、ボッ、ボッボッ、グチをこぼした。考えてみると、いろいろ無茶な生活だった。酒も飲んだし、徹夜もやった。腎臓にどれほど負担を与えたか。ゴメンな。などなど、ツブやくうちに、もう、ここまできたからには、おまかせするしかない。いつしか回想は、神妙になり、知らず知らずのうちに、どうやら祈りに変わったいた。やっぱり、そのあとも夜中じゅう尿が一テキも出ない。不安になる。
それが、金曜日の聖体拝領の瞬間に、出たのだ。回復の希望が湧いてきた。
あのとき、聖体を拝領した後、30分ほどして、ベッドに横になった。いつしか、しばらくして気がつくと、右手で目がしらを押さえていた。すると、なぜか、突然、オエツが込み上げてきた。昨夜、ベッドに腰掛けて、オレはツブやいたどろう、それが祈りに変わっていた。あの時だよ、イエスが、ソバに居られたことを、今、本当に悟った。それは絵や、映像で見るようなイメージのイエスではなかった。体は見えない、だが、実在と言うか、そこに何かが在ると言う実感が心を貫いた。悟りと言うものかも知れない。そこに誰かが居ると言う体験があった。ひよっとすると、個人の信仰の体験も、中枢は(これかも知れない)と確信した。いつしか、長い間、右手で目を押さえていた。

2012年2月18日土曜日

尿が正常に出始める。これはホンモノだ

朝、主治医の先生が来て言った。「尿は出ているようですね」「1800cc出ました」「まだ数値が『3』です。腎臓の回復が少しみられます」。1日の尿を溜めていく。尿が黄色く、綺麗に変わり、1日で2000CCが出た。腎機能も若干回復している。安心した。
だが、考えてみると、22歳の時右の腎臓を結核で摘出した。以来、61年間左の腎臓が頑張ってくれたモンだ。だが、もう今度ばかりは正直、ダメかと思った。尿が全く出ない。尋常じゃないよ。生きるか、死ぬかの問題だよ。腎臓の働きが全く失われていたのに、それがまた働き始めたから、もう、何と言っていいか、(おお、ありがとうなあ、良く頑張ったな、我がジンゾウよ)と、大きなお腹を大事に撫でまわした。写真はこのように蓄尿していきのです。

2012年2月17日金曜日

ああ、尿が出た!癒しの兆しが見える

とうとう昨夜は、1テキの尿も出なかった。夜中じゅう、大きな点滴を注射するので、尿は出ないし、オナカはパンパンに腫れあがった。苦しい。オーイ、どうなっているんだ。夜中に看護師が、2度、ボウコウに管を注入したが、出ない。今朝、血液検査の腎機能は、クレアチニンが『5』。最悪だった。
ぐっすり眠って、6時30分に目ざめる。毎朝7時に、司祭がご聖体をベッドに運ぶ。ベッドから立って、口をゆすいだ。「ご聖体を頂くから、清潔にする」。すぐ、チリン、チリン、と鈴の音がして、ランプをかざしたご聖体が来られた。拝領する。そのあと、すぐ、その場で、尿を出してみようと思い、コップを取って、尿を出した。すると、おお、「出た」。わずかに、ほんの数滴、濁った尿がわずかに出た。「聖体拝領と共に、出た」「これは必ず、出るぞ」と予感がした。希望が出てきた。回復の兆しが見えたぞ。思ったとおり、尿はじょじょに出だして、赤い、濁った尿だったが、翌朝の聖体拝領まで、何と、1800ccの尿が出たのだった。「ご聖体のお恵みだった」。もう、そう信じた。喜びだった。大きな、印象に残る、私の人生にとっては記録に値するお恵みだった。
しかし、尿が出る、出る、その夜はほとんど寝なかった。写真は手術室への入口です。主治医の先生が言った。「もし、尿が出なかったら、別の処置を考え、悩んでいました」と。ああ、あやふく、この手術室の扉を通るところだった。それが聖体拝領、主の癒しで、扉を通らず、助かった。

2012年2月16日木曜日

何だ?尿が全く出なくなった。やむなく入院

昨日を回想する。午前は、泌尿器科の予約診察。午後は、東京の有名私立小学校の修学旅行生たち120人に、市内の会場で、正味1時間、語りべの話に燃えた。
その夜である。夕食後、発熱。どうも尿が全く出ない。1時間たっても、3時間たっても、1テキも出ない。全く出ないのだ。何と言うことだ。日中は出ていたのに。早めに病院へ電話をすると、「今朝、診察したので、明日、一番に来なさい」の返事だった。だが、その夜は、悶々として過ごした。。
今朝、早めに聖コルベ館を開館。電気を付ける。そのとき、(これが最後かも)の気持ちがよぎる。体調不良、尋常ではない。「おそらく、80%ダメかも」の覚悟が湧く。「もう死ぬときは、人口呼吸や、気管切開など、イヤだよ」。そのつもりで、パソコンに『もう、いいです』と書いた。
急いで入院の準備をして、病院へ。血液検査、腎機能、クレアチニンは『2.6』。急性腎盂腎炎と診断される。「入院しましょう」。早速、車から荷物を降ろす。やっぱり尿が全く出ない。尿の検査も出きない。病室で、不安の中で過ごす。「ああ、どうなることかよ」。尿は全く、1テキも出ない。尿が出ない状態が、20時間以上もつづいた。
夕方、シスターが心配して、ルルドの水を持って来た。十字架を切って、飲んだ。その後も夜中じゅう、全く尿が出ない。だが、おかげで、その夜は、1回も起きなくて、熟睡した。

2012年2月15日水曜日

この絵を見れば、一目リョウゼン。さあ、どうなる?

去る1月の最後の土曜日でした。夜中に、急に尿が一滴も出なくなった。そりゃ、あわてますよ。「ヤバイ」。直感で、感じた。すぐタクシーで独りで、病院へ駆けつけた。自宅に帰られたCTの先生が私のために呼び出される。泌尿器科の担当のお医者さんも夜中ですよ、私の診察に来てくださる。見せられた絵が、これですよ。赤いのは、石です。詰まって、尿が出ない。当然ですよ。こちらは四苦八苦。初めての体験で、ビックリしました。バイパスを作って、尿が、ドカ、ドカ、と出た。スッキリなった。ところが、まだ石が幾つも残っている。これが問題です。普通は、粉砕機で、砕くそうですが、私の場合、レントゲンに写らないから出来ない、と言われている。今のところ問題が残っているわけです。さあ、どうなるか。イノチの瀬戸際を歩いております。

2012年2月14日火曜日

午前中は聖コルベ館へ。

聖コルベ館にもチョコレートが届いた。ありがとう。昨日は広島からご婦人が2人来られた。あちらのご婦人は私を覚えているが、私は思い出せない。これが1番こまることです。話をジワーッと、寄せながら、上手に話をあわせていくところが、テクニックが要るわけです。ご婦人たちは満足して、私の文庫本を2冊も買って、喜んで帰った。よかったなあ。

2012年2月13日月曜日

長崎は雨。1時間ほど外出する。警察署へ

別に悪いことをしたわけじゃありません。運転免許の更新です。久しぶりの雨。月曜日。市内は混雑していると予測して、タクシーで出かけた。もう、これが最後の更新でしょう。3年たったら、87歳になりますから。運転は出きるだけ遠慮したほうが得策です。事故をおこしては大変ですから。更新の手続きに、暗証番号を書いてくださいといわれ、戸惑った。何の番号を書けばいいのか。アタマをしぼって数字を並べて書きました。

2012年2月12日日曜日

目標は3月1日の誕生日。はやく、コーイ、あと少し

寒い冬をいかに乗り切るか、考えることは、そのことです。3月1日が誕生日ですからね。それまでが目標です。早ャ―ク、来い。そんな気持ちです。長崎は雪は降らないが、冬はやっぱり、寒いです。外の気温は、1度、2度。朝は30分ほど遅く起きています。6時に聖堂へ。ミサに参加。祈ります。夕方は、ロザリオ、聖務日課の祈りに出て、お勤めを果たしています。修道士は祈るのが努めです。祈りを果たさなければ「めし」は食えません。コルベ神父さまの霊的遺産を守るためにも、意識してお勤めに励んでいます。聖コルベ館にお菓子が送られてきた。メモが入っており、「この間、お世話になった。お会いできて嬉しかった。暖かいコーヒーを頂いた」。名前も覚えていない男性から、お礼のお菓子ですよ。何がそんなに心を揺さぶるんでしょうかね。

2012年2月11日土曜日

フランス・ルルドの聖母。ご出現記念日。癒しを祈る

1月の終わりに、救急に入院して、5泊6日を過ごしました。退院してくると、やはり体力が一段と落ちているのを感じます。カラダの、あちこちの部分を修繕、修理しながら、前へ進んでいる状態です。寒さが、こたえます。病気の内容を、あまり書きたいとは思いません。CTの撮影フィルムに、腎臓に、石が2個あるのが、はっきりと分かります。くよくよ心配はしない。忍耐と、安泰と、いま、それを念頭に「行けー、行けー」と馬力をかけています。

2012年2月10日金曜日

90歳修道女の姉から、84歳弟修道士への手紙

★「あなたの体は神さまから頂いた。いろいろの体の働きを、神さまがボツボツお取りになりますので、目、耳、口、手足も弱っていることでしょう。1日1日、天国への道を歩いていることでしょう。私たちには神さまが約束して下さった天国がありますね。神さまは私たちを待っています。神さまから決められた、この世の生命は、み旨のままに、決められた時が来たとき、お返ししなければなりません。イエズスさまは私たちを愛して、ご自分の命をかけて苦しみ、十字架上で死んで、私たちを救って下さいました。毎日の苦しみをイエズスさまを愛するためにお捧げしましょう。あなたが善い最後を遂げさせて頂くよう、毎日、お祈りしております。イエズスさまとマリアさまがお迎えにいらっしゃいます。信頼と希望を持って、その日を待ちましょう。マリア・クレメンス」(原文のまま)
★この手紙をもらった弟の修道士は今日、聖母の騎士修道院の教会で葬式があります。(生前、介護施設に入居していた弟の修道士さんを見舞ったとき、「姉のシスターから、こんな手紙をもらいました」と嬉しそうに彼は見せてくれた。こんな素晴らしい手紙があるだろうかと私は感動し、すぐに私は手帳にメモした。私たちの人生の目標になる1文です)

2012年2月9日木曜日

1つの苦しみは、1歩、神に近づく、可なり

★「トマさん、贈り物です」「え?これ、くださるの?」「2月5日は日本26聖人の祝日で、トマさんのお祝いでしょう。飾ってください」「ああ、ありがたいなあ。いつも、すみません」。電気店の社長さんです。浮いたり、沈んだり、ボクの人生、いろいろ出るが、まあ、なんとか、この通り、写真の如く、ゲンキでやっとります。
★ああ、ヤバイぞ。角が有ったが、助ける人が居た。祈りのなかで、神の御摂理を教えられた。これも神が与えてくださっている。自分には何もありません。こんな弱いボクだが、神が自分のなかで働いておられる。辛いとこがあっても、つぶやかず、モンクを言わないで、御摂理のなかに生きよう。神が目をとめてくださるなら、それで充分です。ニンゲンって、限りのある存在です。でも希望を持てる存在でも有る。

2012年2月8日水曜日

嬉しいことが、2つあった

1つは、長崎のカトリック・センターで、日本26聖人の集いがあり、講演の後、26聖人の映画が上映された。これは昭和6年製作の無声映画で、弁士は私だった。DVDに収録された。「多くの観客がナミダをそそった」と知らせてくれた。お役に立てて、うれしい。
もう1つは、トラピスト修道院から手紙が届いた。トラピストは常に沈黙だが、食事のときも沈黙。その間、読書をするが、この度は『ながさきのコルベ神父』を読み始めた。感動を受けている、との知らせだった。お役に立てて、これも、うれしい。この絵のスケッチは、私が、1980年9月17日に描いた作品です。おそらく風景は変わっていないでしょう。修道者の人数はどうかな?

2012年2月7日火曜日

1つの腎臓を大事にしよう。カラダのうち

先日、病院に入院中に、「腎臓を大事にするには、どういう食事を気につけたらいいですか」と、専門の職員に聞いた。「牛肉のドカ食いは、よくありませんね」。ピーナツがあまり良くないそうだ。ご飯は、しっかり食べる。減塩、これは、もちろんです。バナナはカリウムが多いそうです。バナナは良いと思って、好んで食べていたのに、ダメとは考え物です。あまり食べ物には気にしなかったが、良くぞ、腎臓は働いてくれた。正常値を保ってくれた。これからは、ムチャクチャ食べるのは、やめよう。でも、牛肉のテンプラは、未練があるね。母の思い出の好物だからね。食べ物のことばかり、申して、すみません。おゆるしを。

2012年2月6日月曜日

毎日、けんめいに生きるが、甘えるな

ニンゲンに、いちばん、大切なのは、『勇気』です。身代わりになる、勇気。悪に負けない、勇気。ナチの兵隊の前に、「ハイ、私はカトリック司祭です」と申し出る、勇気。1歩、踏み出す、勇気。助け手を、差し伸べるのも、勇気です。「愛が増す毎に、苦しみを望む。これ、信仰の基本でしょう」。信仰における苦しみとは、何でしょうか。でも・・・と、私は、アタマを掻きます。やっぱり、自分に甘えるんだな。カラダを大事にしよう、なんてね。話に聞くと、コルベ神父は、自分の健康に、心配はしなかったそうだ。彼には、死よりも、愛を・・・と、裏から見れば、自然な、勇気に燃えていたのかも、知れない。

2012年2月5日日曜日

修道士名の祝日を皆んなで祝ってくれた


「おーイ、トマよ、ゲンキ、出せよ」。日本26聖人の祝日。私の修道士名のお祝い日。「トマ小崎です。15歳で、長崎の西坂で殉教しました。お父さんと一緒の殉教でした」。修道家族、揃って、夕食は外食しました。シャブ、シャブ、です。皆んなが祝ってくれて、やっぱり存在の価値を認めてくれて、そりゃ嬉しいですよ。歳から言えば、オレは先輩だからね。だが、あまり先輩って、認めていないようだ。まあ、それは、それで、いいじゃないですか。飲みました。食べました。修道者だって、食べます、飲みます。そして働きます。奉仕します。それがジンセイ、人間の果たし状です。でも26聖人の燃えるような信仰を忘れては、いけませんな。夜、自室へ帰ると、ネツが6度9分あった。少々微熱があるか。

2012年2月4日土曜日

苦しみなくして、ジンセイ、なし

明日が、2月5日で、日本26聖人の祝日。私の修道士名のお祝い日でもある。修道家族で、霊名のお祝いをしてくれる慣わしなので、明日は寝てはおられない。だから今日は用心して、休んでいた。聖コルベ館も欠席した。とにかく、寒い。この寒さが、ニガテだ。今年は、例年になく、全国的に寒く、北陸では大雪が積もっている。子どもの頃に、胸の結核をわずらったせいか、肺の機能がどうやら弱い。自分でも、分かる。寒さがくると、冷たい空気が肺に入り、セキが出てくるのだ。これがキツイ。暖かい春を待つしかない。病院に見舞いに来た五島の女性に、私が、「ジンセイって、苦しみの連続だね」と言うと、さすが、五島列島の女性だ。間髪、置かずに、即座に答えたよ。「苦しみなくして、ジンセイ、なし」

2012年2月3日金曜日

みんなより、長生きするかも・・・

今朝は用心して、ミサの前に起きる。なぜか、カゼぎみだ。寒さが気になる。退院した日の昼食どき、食卓に、7人がいた。皆んなは、ニコニコと迎えてくれる。私が皆んなに、「おかげさまで、イノチをツナギました」と挨拶すると、1人が即座に答えた。「管(くだ)も、つないだ、もんな・・・」。みんなは大笑いした。私も笑った。そう言われても、別にワル気はしなかった。達観しているからだ。ところで、今朝、お祈りが終って、朝食のとき、私は又みんなに言った。「退院して、自分の召命がハッキリ分かったよ。『修道士として、病気すること、だね。でも、簡単には、死には、せんぞ』。すると即座に1人の司祭が言った。「トマさんが、みんなよりも長生きするかも・・・な」。みんなの笑い声は、小さかった。

2012年2月2日木曜日

雪の朝、退院する

退院は、午前の10時30分に決めていた。赤尾院長さんにも連絡する。ところが、この日、朝から長崎には珍しく雪が降ってきた。病室の窓から見ても、ただ事ではない。ドンドンと降ってくる。こちらは総て、荷物も整えて、退院するばかりに準備しているのに、雪は降る。そのうち、赤尾院長さんへ連絡すると、「聖母の騎士の坂道をクルマが滑って、出られない。迎えに来れない。タクシーで来なさい」との返事。困ったなあ。しかたなく、1人で、タクシーに乗った。果たして、聖母の騎士の坂道を登れるか。疑問が湧く。タクシーに乗っている間に、いい、アイデアが浮かんだ。「運転手さん、そこで降ろしてください」。降りた所は、ナジミの理髪店だった。雪のため、店長は休み。従業員が1人、ポツンと居た。「サンパツ、頼むよ」。1時間たったら、雪も止んで来た。「ああ、よかったぞ」。こうして、またタクシーを拾って、聖コルベ館へ無事に帰った次第です。皆さま、暖かいご支援と、お祈りを有難うございました。何とか、ゲンキになりました。聖コルベ館におります。

2012年2月1日水曜日

退院は、明日か?

入院は、5日目。昨日は、主治医から、くわしい説明があった。ちょうど、管区長さんや、瀧神父さんも居合わせた。「まだ、1つの大きな課題が、残っている。根本的な治療は、後日になる」と主治医。後のことは、すべて神にお任せしよう。主治医に「明日、退院したいんですけど・・・」「いいでしょう。次の予約を決めましょう」。やはり退院となると、嬉しい。赤尾院長さんへ早速、連絡した。