2017年8月31日木曜日

恨みは、ない。自由を喜び、先祖に倣う希望の踊り

五島・三井楽の「岳踊り」です。この写真を見て、独りで感動した。45年前の写真です。テレビから電話があって、すぐ長崎・聖コルベ館へ電話をかけた。「資料室から、写真を探して、速達便で送って下さい」。早いですね。一夜にして届いたのが、この写真です。
★一瞬、感じたのは、その頃の信徒には、「パワー」があった。教会の前で、床はジャリ石だよ。奥の中央で男性が太鼓を叩いている。横に女性が2人並んで、歌っている。歌の文句は分からない。踊りは、3人が1組になって、黒衣装の男役は2本の棒、白い衣装の女性役は1本の棒。棒には紅白の布が交互に巻かれている。踊りは、棒を先端の部分に集めて、合わせながら舞う。ジャリ石を、白の足袋が踏みしめる。
★この踊りから何を感じるか。迫害のときの刀やムチの責め苦を払い退ける、とあったが、いや、紅白の棒に巻かれた優しさを思えば、信仰が自由になった喜び、責め苦にも耐えた恵みの力、それを受け継ぐ今を生きる信徒たちの愛と希望を、この踊りは示していると感じた。「叩かれても、恨まず、責め苦にも折れない信念」。しかし人間は弱い存在であるから、神の助け恵みに頼る。苦難に負けぬ信仰を先祖に倣うのが、いまを生きる我々の招きであり、希望でもある。
★45年前、現地を訪れて撮った写真は、何かのお祝いの出し物であったのか、取材をするために再現をお願いしたものか、それは全く覚えていない。聖母の騎士の修道士と名乗ったので、快く応じてくれたのか。今、五島の一教会での踊りの写真を今再び見ることが出来たのは喜びであり、胸に大きな感動があった。

2017年8月30日水曜日

しおれる人生、それでも新しい発見の日々は始まる

絵てがみ教室。先生が、画材に、レンコン、ウコン、ナスなどの野菜を持ってきた。サーッと、目に付いたのが、ホウズキだった。「ああ、これ、描くよ」。眺めながら、スケッチする。何度も、何度も見ていると、しおれて、枯れかかって、それでも、ふくらんでいるホウズキが、何だか老人に見えてきた。人も、こんなに、しおれて行くのかな。何だか寂しい。それで言葉を添えた。「老いから新たな人生、はじまる」
★長崎へ行く日。朝から、修道院でパン1個と牛乳を飲んで、朝食とする。ホームの朝食の時間はまだ遅い。高原修道士の運転で、長崎のクリニックへ診察へ出かける。待合室に人が少なく、昼食1時間前には帰った。お医者さんは「歩きなさい」というが、とても歩ける状態ではない。この先、どうなるか不安がある。「とにかく、今年一杯は、気力を失わない。努める」
★長崎のテレビから電話があった。五島の三井楽教会に、信者間では珍しい「岳踊り」があった。それに就いて教えて欲しい、という。1972年、カトリック・グラフの取材で「踊り」を見て写真に撮った。その写真がまた良く撮れている。あの踊りのことは忘れない。テレビによると、もう、踊りは中止になっているそうだ。思い出だけでも語って欲しい、との願いだった。
★外海から迫害を逃れて、五島へ渡ったが、三井楽の岳には牢屋があり、ここでもキリシタンの迫害が行なわれた。現地の人の話によると、「三十六人衆」が刀やムチの責め苦を受けた。迫害が解かれ、自由になって、先祖が受けた、刀や、ムチの責めを払い退けるために信徒たちは踊りを始めた。私が現地を訪ねて、その踊りを見たときは、すさまじい迫力があった。写真にも、その表情が表れている。
★その時の説明では、以前は、男と女と混じって踊っていたが、男が減って、女ばかりの踊りとなった。ハチ巻姿の、りりしい井出たち、はかま姿の男役が竹を2本、女は1本持って、自由になった喜びを敏しょうな踊りに託しながら、竹を前後で打ち合い、悪を払い退ける。カトリック信者だけの踊りとしては長崎では唯一のものだった。
★踊りを通して、先祖の苦難を忍び、その信仰に倣う祈りに似た踊りに感じられた。その踊りが最近は行なわれないとは残念に思う。1枚の写真は、教会の庭で、踊る姿は、逞しさと喜びを彷彿させる。
★ホウズキのように、しなびたトマだが、迫力ある写真を自分が撮ったのかと思うと、過去も大事にしたい念に駆けられた。

2017年8月29日火曜日

「やあー」の挨拶が、親交を深めた。今も感謝です

知人の男性が久しぶりに来た。時々、顔を見せる。見せる毎に、ふっくらっとした感じだ。いつも、下げてくる御みやげは、果物ゼリーだ。息子が、この会社で働いている。
★81歳になる、と本人は言う。専ら、イヌの散歩と、ドライブ。「今日も、あち、こち、廻って、ここに辿り着いた」。来てくれて、ありがとう。
★長崎・聖コルベ館の隣が幼稚園だった。彼は、幼稚園の子どもを送迎するバスの運転手をしていた。私が、聖コルベ館へ出勤するとき、ちょうどバスが坂道に入る。「やあー」と、手をあげて、挨拶を送るのが常だった。「やあー」の挨拶が縁を深くしたのだ。
★トマさんの印象は、ある時、オラショの旅のために加勢を頼まれた。園長さんに相談すると、許可が出た。トマさんの言いつけで、巡礼者の荷物を車で運んだ。その案内ぶりに感心したと、今になって言う。夕食のときは、歌ったり、踊ったり、パワーにあふれていたそうな。確かに、あったよな。
★人生、いろいろな事故も起こる。彼の悲しみは、息子を山で遭難死させたことであった。辛い経験を乗り越えて来ている。彼の弟は、教区の司祭。苦しくても、困難があっても乗り越える原動力は、信仰であろう。こうして訪ねてくれるのも、愛の信仰の一旦であろうと、帰ってから思った。
★明日は、朝から、高原修道士の運転で、長崎のクリニックへ定期の診察へ出かけます。やっぱり、気が重い。

2017年8月28日月曜日

やあ、今年も来たか。ナヨさんの話、思い出したよ

わざわざ訪ねてくれる人を大事にしよう。ホームまで来てくれて、慰め、励ましてくれるのです。去年も来たが、今年も、来た。忘れないよ。長崎の「肥喜里(ひきり)」さん。珍しい名前だ。私を見て、「少し顔が丸くなった」と言う。
★個人タクシーで生活している。去年は、大きなスイカを何個も持ってきた。「スイカは、ないな」。その代わり、大粒のブドウを数個持ってきた。先日、大きな山梨のブドウが送られてきたが、それに匹敵するような大きさだった。笑いながら、「ブログは見ていますよ」と、かいつまんで、あれ、これ、私に聞かせて笑っている。
★肥喜里さんといえば、ナヨさんだ。諫早大水害のときに、有明海に流された。漁師の舟に助けられたが、ナヨさんは、不思議のメダイの信心家で、マリアのメダイを大切にしていた。救われたとき、肌着はなく、不思議のメダイだけが首にかかっていた。その助けた舟が、漁師さんの新造舟で、最初の漁の有明海で、生きた人間を釣り上げた。漁師さんは、非常に縁起がいいと喜んだ。こんな話は、人生に、そう有るものではない。そのナヨさんも、6年前に、86歳で亡くなった。肥喜里さんが、不思議のメダイをお棺に入れて、見送った。
★人生では、思いがけない、様々な奇跡が起こる。ナヨさんの話は記事にも書いて、忘れない私の信心の思い出の糧にしている。
★「いろいろ有って、大きくなって、育っていく。ごめんなさい。ありがとう。3回、ありがとうを言おう。それしか人生に、ない」

2017年8月27日日曜日

山の施設を巡る。思い出がよみがえる。病に苦しむ


福岡の大学院生の彼が、車で2度目、ホームへ来た。いま、修士論文の執筆中。テーマは、「終戦直後の戦災孤児、原爆孤児の救済状況から見えてくるもの」。折角、来たので、私も車に乗せてもらって、戦後、建設した「少年の町」の構想で始めた、山の施設、「聖母の騎士園」を久しぶりに訪ねた。現地を廻りながら、輪郭の説明をした。
★左の写真は、騎士園の入口で、マリア像が迎えてくれる。右の写真は、教会と、修道院。私にとって、この修道院、施設、学校は、懐かしい。私は、この修道院に、11年間と、6年間の、2回にわたって住んで、療養をしたり、子どもたちとも触れ合った。当時は食料不足で、子どもたちを養うのは大変な苦労があった。教会は、1953年、昭和28年に建てられた。戦争が終わって、8年後のことである。140人の男の子との格闘は、今になってみれば、おかしくもあり、愉快である。
★自分のことを言えば、原爆があって、聖母の騎士に入って、高校を卒業する。修道院へ移り、着衣式を行ない、修練を始めた。しかし残念ながら、途中で、右の腎臓結核にかかり、町の小さな医院で、腎臓の摘出手術をする。生死の境を漂った。経過は良くなく、修練は中止され、修道院の一角で療養を余儀なくされた。
★その頃の病苦は、かなり深刻だった。当時の日記がある。「病みつづける、わが若き日、ある時は病の中にもがき、また、ある時は悲しみと不安の中に沈む。寝られぬ夜もあり、憂いの夜もあり。人びとより見捨てられたと思う夜もあり。コルベ神父の伝記を読む。病室は修道院の宝庫、と神父は言った。そして実行した。だが、ここの病室は、倉庫なのか」。かまってもらえず、ひとり悶々とした当時の悩みが、ふつふつと感じられる。
★2ヵ月後、山の修道院へ変わったのが救いとなった。ミロハナ神父のお陰である。忘れもしない、昭和28年7月の、到着は夜になり雲仙に満月が輝いていた。山に来てもツライ日がつづいた。背中の穴から、絶えず膿が出た。更に、左の腎臓を結核で病んで、高熱と血尿で死ぬ一歩手前をさまよっていた。その時、祈ったのが、この教会だった。
★人の運命は分からぬものだ。幸いに生かされて、病は癒えて、痩せた体でも、元気を取り戻した。11年間の、この修道院と施設の思い出は、人生の貴重な宝庫となった。
★そして、今に到っている。まだ生かされている。山の修道院で癒されたのは、奇跡だったのかも知れない。最近、そう思う。ありがたい、感謝の日々を過ごしている。

2017年8月26日土曜日

親友、故・久之の奥さんが来る。思い出は、つのる

きょう、職員さんから、自室に、棚を作ってもらった。本や封筒類を動かすうちに、水浦久之の「神父発見」が見つかった。「これは思い出になる。取って置かなければ」と、手元に残しておいた。すると奇遇じゃないですか、久之の奥さんが、きょう、ホームにやってきたのです。
★久しぶりの再会。写真は奥さんと握手したところです。久之は私の第1の親友だった。頼まれて、聖句入りのブドウの水墨画の掛け軸を描いてやったことがある。「まだ自宅に掛けて飾ってありますよ」と奥さんに言われて、「え?ほんとう」と嬉しくなった。実は私の部屋の2つ隣の部屋に、奥さんの兄さんが入居ししてきたのです。それで様子を見に来たと言う。
★久之の思い出話をする。最後はどうだったのか、初めて奥さんから聞いた。81歳だった。病院に入院していて、最後まで意識はしっかりしていた。最後の時を知ったのか、司祭の名前を告げて、告解を頼んだ。その後で、ベッドに座って、奥さんと2人きりになって、奥さんを、やさしく、見つめながら、ゆっくり、はっきりした声で、「愛、して、います」と最後の言葉を語ったという。それから間もなく、人生を終えた。
★「久之は、病気になったとき、『おおせのごとく、我になれかし』と書いてくれと頼まれた。彼が書いた字は今も大切に持っている。奥さんにそれを言うと、「飾ってあります」との返事。本当に、親友として、久之がボクを大事にしてくれたことを痛感した。
★彼、水浦久之の功績は、コンクリート造りであった浦上天主堂を、赤レンガ・スタイルに改装のための総監督を務めたことであろう。リッパに改装した浦上天主堂に、教皇さまをお迎えしたのであった。彼、久之の墓は、十字架と、「空の鳥」の字が書かれているだけである。空の鳥のように、神へと飛んで去ったのであろう。

2017年8月25日金曜日

働くのはアナタです。マリア様のお恵み、必ずある

山の女子修道院を訪ねた。1人のシスターから、終戦直後の話を聞いた。終戦のときは、14歳、大阪に住んでいた。戦争で、どこも、かしこも、焼け野原になった。「神さまは、こんなことを許されるのだろうか」。神に対する疑いさえ起こった。
★長崎で、親戚が結婚するというので、興味もあって、長崎へ向かった。洗礼は既に受けてはいたが、浦上の惨状を目の当たりにしたとき、更に、神に対する疑いは深まった。「神さまは、こんな悲惨を許されるのだろうか」
★長崎駅に着いたとき、ゼノ修道士に出会った。汚れた修道服に、やぶれそうなカバン。孤児たちが駅に降りると、ゼノさんは、父親以上の愛撫をする。短い言葉、とぎれ、とぎれの言葉で、ゼノさんは誰彼なく話しかける。日本人じゃない。外国人が、です。「神さま、浦上の人たち、みな天国。残った人たちを、助けるのは、私たち。マリアさまが、すべてのことを、して下さいます」。少女は、ゼノさんのことばに興味を持った。
★ゼノさんの懸命な姿に接したとき、14歳の少女は、「神さまは居られる」と直感した。少女はゼノさんに聞いた。「こんなに子どもたちを抱いて、お世話を誰がするんですか?」。すると、ゼノさんは直答した。「あなた、です」
★ゼノ修道士に、子どもたちと一緒に、聖母の騎士修道院へ連れて行かれた。それから福祉の仕事が始まった。数年後、シスターとなり、原爆孤児、戦争孤児の施設で働いた。あれから何十年、いまは障害者施設の修道院で14歳からの仕事を続けている。86歳になった。
★[天国に行くには、この人たちのために、働くこと。みんな救われます」「恵んでください。マリアさまのお恵み、必ずあります」。みんなは「ドーゾ」「どーぞ」と下さる。ゼノさんは、もらった物は一切食べない。使わない。修道院の固いパンだけ食べた。
★その印象が、シスターの心に強く残って、励ましとなっている。